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オスカー・ワイルドの有名な言葉に「自然は芸術を模倣する」というものがある。批評家の中井正一はこれを次のように説明している。
ロンドンというのは霧深い街だ。霧は長年の間、そこで生活する人にとって厄介で鬱陶しい存在だった。しかし、ここに例えば、ターナーという画家が現れて、霧を絵に描いた。すると、始めて人の前に「霧」という風景が現れた。霧はただ鬱陶しいだけではなく、そこに美がある事が、絵画を通じて人々に理解されるものとなった。こうして、絵画を通じて自然はその衣装を変えた。
中井の説明ではこれが「自然は芸術を模倣する」の意味だ。これを僕の言葉で言い換えると次のようなものになる。
自然はただあるのではない。人間の認識によってその相貌を変える。水は古来から水であったが、水をH2Oと表現したのは画期的な事だった(小林秀雄の文章より)。同様に、ロンドンの霧も、絵画という認識を通じてその形を変えた。自然が変わったのではない。我々の認識が変わったのだ。
今、カントの理論をここに入れ込んで、認識こそが世界だと考えたい。すると、認識の変化によって世界の臨界点は変化する事になる。主体の変化が即ち、客体の変化となる。ターナーの絵を通じて、ロンドンの霧は変化した。人間は世界を変える装置のようなもので、装置が変わると、自然もまた変化する。現実も変わる。物は考え方次第、という古い言葉は真実である。しかし現実には考え方を変える事は恐ろしく難しい。哲学がこれまで努力してきたのは、光を屈折させるプリズムに磨きをかけるようなもので、世界を映し出す鏡としての人間認識をより尊いもの、高いものにする事にあった。
以前に、中村正義という画家の展覧会に行った事があった。練馬の美術館で料金も安く、人も少なかった。おかげで、じっと絵を眺める事ができた。
一時間以上、同じ画家の絵ばかり真剣に眺めるというのは奇妙な体験だ。それも一流の画家だとなおさら、奇妙なものになる。僕は美術館を出ると、外の風景が歪んでいる事に気付いた。目の前の木の節くれが妙に目につき、歪んでいるように感じた。その時、ふと、自分は中村正義という画家の目を通じて木を見ているのだと気付いた。中村の絵ばかり見ていた為に、眼球が中村正義のそれになっていた。
もちろん、これは誇張した表現だが、実際、木が歪んで見えたのは事実である。この時、認識を通じて、世界が変わる経験をしたと言っても、それほど怒られないだろう。