二章 お嬢さまのお見合い準備(3)
オブライト時代の後輩兼部下で友人、の登場は予想外だったが、マリアは持ち前の「深く考えない」をモットーに開き直る事にした。
しばらくは、屋敷の中に入る予定もないのだ。その間に、ヴァンレットも帰るだろう。
マリアは引き続き、マークとギースと共に、敷地の表門の木々を整えていった。敷地の表門の作業を終えたところで、迷路庭園の方もそろそろ整え時期だったと思い出し、続いてそちらの作業に移った。
しかし、数十分もしないうちに、発案者であるマークが体力切れで倒れた。
怠惰な大人は「もう動きたくない」「酒でエネルギーを補充したい」と訳の分からない戯言を並べ始めた。フォレスに指示されていた予定分の作業は済ませていたので、ここで終了としても問題はない。
とはいえ、リリーナが授業を終えるまで一時間以上もあるので、マリアとしては、迷路庭園の手前だけでも整えておきたいところだった。
少ない人数での作業なので、効率良く進めなければ間に合わない可能性もある。
話し合った結果、残りの作業は、マリアとギースで行う事が決まった。マークについては、ギースが一旦屋敷まで引きずって仮眠室に放り込む事になった。
「小腹がすいてるみたいだし、ついでに菓子もらってくる」
「よろしく!」
「とりあえず量は期待すんなよ?」
マークを引きずり歩くギースを見送ったマリアは、迷路庭園に入ってすぐの場所から、マイペースに作業を開始した。
マークから指示されたのは、高さ二メートルで形作られた通路の草の、飛び出した部分を整えるだけの単純な作業だ。お菓子の到着が待ち遠しくて、マリアは上機嫌に作業を進めた。
※※※
マリアの体内時計の針が少し進んだ頃、一つの足音が聞こえた。
そろそろギースが戻ってくる頃だと気付き、マリアは作業の手を止めて足音の方向に顔を向けた。しかし、予想外の人物が目に飛び込んできて「おっふ」と妙な声を上げてしまった。
そこにいたのは、ギースの二倍以上の体積をしたヴァンレットだったのだ。
マリアは、こちらを真っ直ぐ見降ろすヴァンレットと見つめ合ったまま、数秒ほど身動きが取れずにいた。なんでこいつがココにいるのか、とぐるぐる考えたところで、屈強な身体を持ったこの男が持つ、最大の問題点を思い出した。
そういえばこいつ、極度に迷惑な迷子野郎だったな!
ヴァンレットは集中力も記憶力もないのか、ふらりと居なくなり、勝手に迷子になる問題児でもあった。幼い子供ぐらいじっとしていられない性質で、勝手の知らない場所だと、必ず探索という名の迷子へ繰り出すのだ。
「……あの、旦那様と話し合われていたお客様、ですよね? こちらに何かご用でしょうか」
きょとんとするヴァンレットの直視に耐え切れず、マリアは緊張を紛らわせるため小さく咳払いしてそう声を掛けた。思っていたよりもスムーズに声が出て安堵する。
あきらかに戸惑い感は出ているが、繊細さなど欠片も持ち合わせていないヴァンレットが勘繰る事はないだろう。
正面から見たヴァンレットは、実年齢の三十六歳よりもやはり若く見えた。三十代前半といった容姿で、精悍な顔立ちをしている。
疑いの色もない彼の明るい鳶色の瞳が、真っ直ぐマリアへ向けられていた。昔よりも随分大きく見えるのは、きっとマリアの身長が、あの頃に比べてとても小さくなっているせいなのかもしれない。
しばらくして、ヴァンドレットがようやく「うむ」と肯いた。
「特に用はなかったと思うが、俺はなんでここにいるのだろうか」
それはこっちが聞きてぇよ! お前、旦那様はどうした!?
マリアは、心の声を抑えるべく表情筋を引き締めた。彼を使者に選んだのは、一体どこのどいつだろうと小さな殺意すら覚える。
「お、おほほほほ……うっかり探索して迷われたのですか?」
「人様の家を探索などしないぞ? そんな事をしたら失礼だろう?」
「……それでは、何故あなたはこちらにいらっしゃるのですか? 案内する者とはぐれてしまわれましたの?」
「誰にも案内されていないが、歩いてきたんだ」
「…………歩いてくる前は、どちらにいらっしゃったのか、訊いてもよろしいでしょうか?」
「歩く前はアーバンド侯爵と会っていたな。それから、迎えてくれた執事がまたやってきた。――ふむ、その後どうなったのだったけな?」
ヴァンレットは武骨な手で顎を撫でながら、不思議そうに自分の記憶を逡巡した。
くそッ、こいつと会話していると疲れるな!
勝手に歩き回って迷子になってる事実を突き付けて怒鳴ってやりたかったが、マリアは我慢した。とにかく愛想笑いは崩すまいと、伐採ハサミを背中に隠し、力の限り握りしめて耐える。
首を二、三回、それぞれたっぷり数十秒かけて左右に倒した後、ヴァンレットが、ようやく顎から手を離してマリアを見降ろした。
「うん、思い出した。執事に『案内させますから』と言われて、誰もいなくなってしまったので、こうして歩いてきたんだ」
「意味が分かりません。多分それは、部屋で待っていて下さいという指示だったかと思われます。誰もあなたを忘れた訳ではありませんし、あなたは今、勝手に迷子になっているのです。そう、迷子の真っ最中なのです。今頃屋敷の者があなたを探して大変迷惑を被っているかと思われますッ」
堪えていた鬱憤が爆発し、マリアは、ヴァンレットに反論する余地を与えないよう強い口調で長々と言い切った。つまり、あなたが悪いのですという思いを込めて、最後はしっかりと睨みつけてやる。
ヴァンレットは目を丸くしたが、ややあって「すまなかった?」と、自分でもよく分からないといった口調で謝罪した。
まさに異世界人と喋っているような感覚だ。非常に疲れるうえ、精神力がごっそりと削られたような気がする。
これ以上は失礼にあたるだろう。マリアは、丹念に目頭を揉み解しながら、喉の奥で小さな呻り声をもらしつつ考えた。とりあえず、彼を屋敷まで連れて行こう。意味もなく出歩かれてアーバンド侯爵に迷惑がかかっても困る。
マリアは、ようやく頭の整理がついたところで、目頭から手を離した。
ヴァンレットに向き直り、得意の愛想笑いで案内する事を告げようとしたのだが、実に不思議そうにこちらを見つめる彼の視線に気付いて、思わずそっと眉を顰めてしまう。
「……なんでしょうか?」
「いや、似たような事をする人間もいるのだなと思って」
「はぁ?」
思わず素で疑問の声をあげてしまったが、マリアは、すぐに少女然とした笑みを浮かべて取り繕い、「屋敷までご案内致しますわ」と言葉を言い替えた。
質問の余地を作らせないよう、言い終わる直前にくるりと踵を返して歩き出すと、ヴァンレットは擦り込みされた雛のように素直についてきた。
昔からそうだ。彼は、自分を導く人間を決して疑わない。
十六年前の日を思い起こしながら、マリアは、整えられた芝生の上を、サク、サクと歩く音を聞きながら歩いた。彼の足音で互いの距離を確認しつつ、真っ直ぐ屋敷を目指して歩き進む。
ふと、背後の男と距離が開いたので、マリアは足を止めて振り返った。
「ここには、特に面白い物もないですわよ。ほら、早くいらっしゃって下さい」
振り返り様にそう声を掛けると、ヴァンレットが、少し驚いたように目を瞠った。少し目を離したら余所に注意がいく男だと知っていたから、マリアは「早く」を強調してそう告げた。
ここは見通しのいい芝生が屋敷まで続いているだけなので、そんな中でふらりと行き先を変更される、なんて面倒な事にはならないはずだが……ヴァンレットの事なので気は抜けないのだ。
マリアは、彼が動くのを待っていたのだが、ヴァンレットの足はいっこうに動く気配がなかった。その様子が少し気になり、マリアは首を捻った。
「どうしたのですか? 何か気になるところがあるのでしたら、おっしゃって下さい。勝手に歩き回られるよりはマシですから」
「……いや、その、なんというか不思議で?」
「よく分からない人ですね」
以前もよく、このようなやりとりをしていたような感覚が込み上げたが、辺りを見回したマリアは、目に映った光景にその疑問を忘れてしまった。
「ああ、もしかしてあの建物の事ですか? あれは旦那様が使用人にあてて下さっているアパートメントですわ」
「そうなのか。立派なので少し驚いた」
もう三十代の立派な大人であるのに、なんでもないような建物にも子供みたいに好奇心が向くのか。変な奴だなぁ……――そう思って、マリアは苦笑した。
また以前のように、何度も立ち止まって手あたり次第に質問するという、言葉遊びのような事を始められても堪らない。友人である国王陛下に会いに行った時なんて、初めてのルートに好奇心が向いたヴァンレットのせいで、倍の時間がかかった事も覚えている。
仕方がないので、マリアはいつものように、ヴァンレットの手を取って引く事にした。
彼の手はとても大きいので、大きな掌をつまむような形になってしまったが、「こっちですよ」と軽く引いて先を促すと、彼は目を丸くしつつも、抵抗せずついてきた。
大きくなって、十六年分の歳をとっても、まだまだ子供っぽい奴だなと思った。さぞ彼の副官は苦労している事だろう。
「――名を訊いてもいいか?」
唐突に声を掛けられ、マリアは肩越しに彼と目を合わせた。
ゆっくりと瞬きをする間に、まぁ名前ぐらいなら問題ないだろう、と判断して一つ頷き返した。
「別に構いませんけど。私はリリーナ様付きのメイド、マリアと申します」
「俺は第一宮廷近衛騎士隊の隊長ヴァンレット・ウォスカーだ。第四王子の護衛騎士も任されている」
「まぁ、立派ですのね」
なんで護衛騎士が使者をしているんだ、おかしいだろう。
そう思いつつも顔には出さず、マリアは少女らしく笑って見せた。色々と突っ込みたい事が多すぎて、気を抜いたら笑顔が引き攣りそうだ。
「他にも護衛の者が何人かいるのだが、同じ近衛騎士に、教育係にも任命されている優秀な男がいる」
「まぁ、やっぱり」
「やっぱり?」
「失礼。言葉を誤りましたわ」
おほほほほ、とマリアは控えめに可愛らしい笑い声を上げた。顔面の表情筋を総動員させても、うまい愛想笑いが浮かべられなくて、少し強めに手を引いて大股で歩いた。
もう嫌だ。とにかく、こいつを早く誰かに押し付けてしまいたい。
ある意味、純真無垢なヴァンレットには、尊敬する人や優秀と呼べる男が多くいた。その護衛とやらは自分の知っている人間だろうかと、マリアは出来心で、頭の中で彼が持つ尊敬要素を指折り上げてみた。
腕っぷしが強い、記憶能力が凄い、外国語が話せる。自分でボタンを繕える、数字に強い。そして、オブライトとの勝負で引けをとらない剣術を持っている……
最後は特定の人物だったと思い出し、マリアはフッと薄い笑みをこぼした。ゆっくりと頭を振り、悪夢のような二年間を封印する。
あれは、オブライトの人生でもっとも荒れた時期だった。最年少で師団長に就任した少年だったが、とにかく、とんでもない破壊魔の性悪ゲス野郎だった。
「お話はうまく進みましたの?」
頭から忌わしき古い過去払拭すべく、マリアはそう質問してみた。手を引きながら、図体だけがデカいヴァンレットを見やると、彼は「うむ」と肯いた。
「あまり覚えられないので紙にまとめてみた。ただ、その紙をどこに置いたのだったか。うむ、内容は……」
「…………」
「ああ、そうだった。第四王子は人見知りなので、友人の家に遊びにいく感じで行こうか、という話だったような気がする」
軽い。そして、とんでもなくざっくりとした説明だ。誰かこいつ以外の使者を寄越してくれと言いたい。もはや不安しかない。
まぁ非公式という事だろうな、とマリアは簡単な憶測を立てた。
以前、リリーナの友人にと、同年代の伯爵令嬢一向を招いた時も、使用人をずらりと並べるような出迎えはしなかった。彼女は極度の恥ずかしがり屋な天使だったので、出来るだけ親近感が持てそうな、厳しくない顔立ちの使用人だけで世話をしたのを覚えている。
アーバンド侯爵は、恐ろしいぐらい完璧に物事を進められる人間だ。使者がどんなに阿呆であろうと、うまく誘導して事を進めてくれるだろう。
今回、ヴァンレットが寄越されたという人選ミスについて考えていると、つまんでいた指先を、きゅっと控えめに握られた。
マリアは思考を止めて肩越しに振り返った。じっとこちらを見降ろす彼の深い焦げ茶色の瞳と目が合い、条件反射のように、自信のある愛想笑いをにっこりと返すと、ヴァンレットがどこか落胆するような表情を浮かべた。
意味が分からん。失礼な奴め、この笑顔、結構評判がいいんだぞ?
そういえば最後に彼の手を引いた時、こいつは変わらず阿呆みたいにきょとんとしていたなと思い出し、マリアは、彼を見ていられなくなって視線を前方に戻した。
あの時、オブライトは遠回しでヴァンレットに「さよなら」を告げた。
嘘は下手だったが、それでも彼に疑われる事は一切なくて、ヴァンレットが馬鹿で助かったと、あの時ほど思った事はない。
そういえば、国王陛下に届くよう送った手紙は、きちんと届いただろうか?
あれは、オブライトが生まれて初めて書いた手紙で、下手な字で「ごめんなさい」と「ありがとう」の言葉を綴ったもので……
マリアは、そんな事を唐突に思い出した自分に失笑してしまった。もう終わった事なのだ、考えても意味がないものだと記憶を奥へと押し込む。
オブライトは、命をかけて友の剣となる約束を、結果的に自分から破ったのだ。
彼は最期の日、一人の女性のために、友に捧げるはずだったその命を散らせたのだから。