十五章 序&それぞれの思惑と迷惑な1日(3)上
第四王子クリストファーのもとに、婚約者である侯爵令嬢リリーナが合流したと報告を受けて少し過ぎた頃――。
やや量と張りがなくなりかけた白銀頭の男が、応接席のテーブルに突っ伏していた。右手はペンを固く握り締めたままであり、左手は胃の辺りの服を握り締めて、しっかり腹を抱えている。
ここは、宰相ベルアーノの執務室である。
書斎机に収まりきらない書類が移動されたテーブルには、二組分の珈琲が置かれていた。珍しくプライベート時の様子で、その書類に額を押し当てているのは、当のベルアーノだ。
彼は五十代である。そのためか、最近は以前よりも、圧倒的に老いの白髪だと勘違いされる事が多かった。
稀に色素が抜けたような髪色を持った者が誕生する事があり、見事な銀髪を持ったベルアーノもそうだった。白髪だといつも自信たっぷりに口にしてくる相手に対して、彼は社交辞令で愛想笑いだけ浮かべて見送った後、「これ、銀髪だからな」と忌々しげに呟いている。
幼少の頃から積極的に社交界に参加していた事もあって、若き日の苦労性の宰相の姿を知っているグイードは、今更のように彼へ目を向けて、珈琲カップを片手に持ったまま、コテリと首を傾けた。
「そういや、急に静かになってどうした? 何か産まれそうなのか?」
「張っ倒すぞ。産気ではなく胃痛だッ」
ベルアーノは顔を上げ、一回りも年下のグイードを忌々しげに睨みつけた。
「そもそも、なんでお前は当然のような顔で珈琲を飲んでいる? 私は仕事中なんだぞ、さっさと仕事に戻らんか!」
「はっはっは、テーブル叩いて何を怒ってるんだ? この珈琲見てみろよ、ベルアーノ。どうぞってメイドに渡された手前、飲まずに戻るわけにはいかないだろ?」
「このタイミングで嬉しそうな笑顔をされると、心底腹が立つな。招いた覚えのない客人だと気付けないくらいお前が喋り通していたせいで、彼女達も勘違いしたんだッ」
不眠不休の多忙さだというのに、騒ぎの後始末という仕事まで加わって涙が出そうだ。ベルアーノとしては、あのポルペオまで出てくるとは予想外だった。中央訓練場は無法地帯とはいえ、頼むから、こんな時に部隊や班同士の喧嘩をしてくれるなと言いたい。
騎士の鑑であるポルペオが、あのような突発的な行動を起こすのも久しぶりである。最近は馴染みのメンバーと大きな騒ぎも起こしていなかったし、総隊長であるロイドもちょっかいを出してはいなかった。
だというのに、昨日の中央訓練場の騒ぎである。
ジーンが元黒騎士部隊であった二人を引き入れて動くと決まった際、昔その部隊に過剰反応する所があったポルペオの存在を思い出せなかった自分に、ベルアーノは思わず「畜生」と汚い言葉を口の中にこぼしてしまった。
多分――いや、絶対ジーンのせいだろう。
ひどく上機嫌だったと部下が話していた。
ジーンは国王陛下アヴェインの幼馴染だ。二人の性格は似通ったところがあり、どちらも面白い事には目がない。ジーンは楽しみのために、ポルペオの地雷を意図的に踏み抜くところもあったから、絡まれたのをいい事に、彼のヅラを吹き飛ばしたのかもしれない。
「というか、なんで揃ってヅラを狙うんだ……ッ」
そのせいで、騒ぎも無駄に大きくなるのだ。
ベルアーノは言いながら、揃ってヅラを狙うという迷惑極まりないメンバーの一人であるグイードを睨み付けた。視線を受け止めた彼が、礼儀作法もなく珈琲を一気に飲み干し、こう答えた。
「似合わないからじゃね?」
「とんでもなく迷惑な理由だな」
「なんつうか、ポルペオのヅラは急所扱いなんだよ。分かるか?」
「分からんわ」
力加減と軌道を調整しないと吹き飛ばない、と以前ジーンが酒の席で話していた事があったが、勿論ベルアーノには理解出来なかった。だからこそ、総隊長であるロイドは成功した試しがないのだとか。
女性が用意してくれた珈琲カップを、丁寧にテーブルの上へと戻してから、グイードはベルアーノに視線を戻した。
「そんなに怒るなよ、ベルアーノ。俺だって、まさかジーン達が活動初日にポルペオと衝突するとは思わなかったし、びっくりしたんだぜ?」
「…………その割には、面白がって見舞いに行ったと聞いたが?」
「あ~……。まぁ、同僚の様子を見に行くのは普通だって」
答えながら、グイードがさりげなく視線をそらしていった。
騒ぎが起こってポルペオが救護室に運び込まれたらしい、と聞いたのは仕事が始まる直前だ。しかし、面白い事になっているなと思ったら、好奇心から即行動を起こしてしまう彼は「ちょっと行ってくる!」と部下にサボリを宣言して、会議の開始時刻に部屋から飛び出したのである。
廊下で当ポルペオと鉢合わせたグイードは、「馬鹿者ッ」の切り出しと共に延々と説教をくらった。そこから逃走する際に、普段より体力を消耗していたポルペオの部下達が、馬鹿力のグイードの身体に当たって、呆気ないほど簡単に吹き飛んでいった――という騒ぎになった。
ベルアーノは、国王陛下やジーンと同じように、騒ぎを面白がる所があるグイードを睨み付けた。その会議の一件と、ポルペオの前から逃走した際の被害についても、宰相である自分のもとに苦情と相談が寄せられて、更に休む時間がなかったのだ。
しかも、実は昨日起こった騒ぎは中央訓練場と、廊下でグイードが起こしたものだけではなかった。ベルアーノの精神力を消耗させ、多忙の更なるドン底へと落とした原因は他にも複数ある。
グイードの騒ぎを知らされる少し前、皺だらけになっていたニールの報告書を読んだ。そこでもベルアーノは、胃がギリギリとした。ジーン達は活動初日で外に出たあげく、チンピラとやりあったというのだ。
その直後、彼は中央訓練場の件と、グイードの件を複数の部下から報告を受けてバタバタとした訳だが――
実際は中央訓練場の後、グイードが会議室を飛び出すよりも前に、別件でマリアとニールとモルツによる騒ぎが起こっていたのである。しかも、文官のアーシュ・ファイマーが巻き込まれて、救護班も出動した。
しかも、その騒ぎを聞いたらしいロイドが、何故か唐突に、無言で自身の執務室を破壊したのだ。その破壊音は、救護室から出る直前だったポルペオの部下達の耳にまで届くほどで、吹き飛んだ重圧な扉は、外にいた若い軍人達を容赦なく巻き込んだ。
意味が分からん。頼むから、これ以上騒ぎを起こさないでくれ……
ベルアーノは昨日、予想以上に難航したものがあったせいで、体力精神力共に擦り切れていた。今朝の国王陛下との話し合いでも精神力をごっそり持っていかれ、陛下の公務は大丈夫だろうかと、不安と心配で更に胃も軋む。
その時、訪問を告げるノック音が聞こえて、ベルアーノは顔を上げた。
グイードが、一体誰だろうな、という目をそこへチラリと寄越す。
ベルアーノは扉の方へ顔を向けてすぐ、特徴的な強弱を持った合図のような叩き方に覚えがあると気付いて、入室の許可を出した。すると「失礼します」と言って、ベルアーノが予想していた一人の青年が顔を覗かせた。
それは、第三宮廷近衛騎士隊の副隊長を務めるアルバート・アーバンドだった。柔らかそうな蜂蜜色の髪に、深く済んだ藍色の瞳をした美青年である。彼がこのように直接こちらへ足を運ぶのは少ないが、本日は二度目の訪問でもあった。
目が合った途端、こちらを見た彼が、ふんわりと微笑んだ。
「こんにちは、宰相様」
アルバートが、人を殺せもしない顔で親しげにそう言った。




