十四章 長かった四人の初動日の締め(3)下
傾いた太陽の日差しに照らし出されて、廊下へ飛び込んできた男の、鮮やかな柘榴のような真紅色が躍った。その男は他所には一切目も向けず、見事な瞬発力を発揮して再び疾走を開始する。
パッと持ち上がった顔は、見慣れた部下の情けない泣きの表情で――
何故か寸分違わず、マリアは、彼とピタリと目が合った。
廊下に滑りこむように現れたニールが、絡みあった視線の先で必死に駆けながら、すぅっと息を吸い込むのが見えた。そして、こちらに現在置かれている悪夢のような現状を訴えかけるように、再びその悲鳴を轟かせた。
「変態が出たぁぁああああああいぃぃいいやぁぁああああ!」
大声量でその悲鳴が響き渡った瞬間、廊下にいたメイドや若い軍人達が、硬直状態が解除されたかのように、一斉に慌てて廊下の端へ寄った。
一直線にこちらに向かってくる赤毛男を見て、アーシュがギョッとしたように目を剥く隣で、マリアは思わず「嘘だろッ」と素の口調に悪態をこぼしていた。
昔からそうなのだが、ニールは逃げる際に、いつもオブライトのいる場所にピンポイントで現れた。今は『マリア』であるにも拘らず、彼は十六年前と変わらず真っ直ぐこちらを目指し「お嬢ちゃん助けてぇぇええええ」と、ご指名する悲鳴まで上げて、一直線に向かって駆けてくる。
マリアは「阿呆ッ、なんでこっちに向かって来るんだ!」と、怒鳴り返そうとした。しかし、彼のすぐ後ろに、ドM変態野郎のモルツ・モントレーがいる事に気付いて「うげッ」と声を詰まらせた。
美貌の総隊長補佐であるモルツの、艶やかな碧眼と目が合った瞬間、その眼光がギラリとしたのが見えて、途端に悪寒が背筋を駆け抜けた。
「ちょ、ニールッ。お前こっち来んな!」
遅れてマリアは、慌てて拒否の言葉を口にした。ニールは自分の悲鳴で聞こえていないのか、「うっぎゃああああああ変態がすぐそばにぃぃいいやぁぁあああ!」と泣きながら叫ぶばかりで、逃走態度にまるで変化がない。
立派な成人男性が二人、激しい温度差のまま、恐ろしい速度で向かってくる光景には恐ろしさしかない。
相手が止まらないと察したマリアとアーシュは、同時に踵を返した。走り出してすぐ、アーシュが肩越しに後方へ目を走らせ「この状況は一体何なんだよッ」と混乱を吐露した。
「つか、あの赤髪は何者だ!? なんか、お前の名前を口にしてるんだけど!?」
「~~~~ッ今日から一緒に行動してる人!」
「はぁ!? よく分かんねぇけどアレだろッ、絶対あいつも軍人だろ!」
騒がしいのは軍人であるという考えが覗く意見には、元黒騎士部隊の隊長であった身として複雑な心境を覚えた。しかし、これまでの経験と、後ろから追ってくる騒ぎようを思うと否定も出来なくて、マリアは頭を抱えた。
畜生なんでこうなるんだ!
マリアは、込み上げる気持ちの勢いのまま、後方から追ってくるニールを睨みつけた。すると、ニールにぴったりと付いて追うモルツの眼光に、ギラリと欲望の光が灯ったのが目に留まって、身にしみた条件反射のように顔が引き攣った。
既にモルツの目は、完全にニールから外れて、こちらをロックオンしていた。移動速度であれば三本指に入る男なのだが、何故か奴は、ニールの後方にぴったりとくっついたままこちらを目指して走っているようだ。
とはいえ、あのニールも、逃げ足だけは一流である。
次第に距離が縮まっている事実を認めて、マリアは戦慄した。思い返せば、オブライトであった頃も、あの二人には追い付かれていたのだ。今の少女の身で、彼らを引き離せるはずもない。
少女らしかぬ雄叫びを押し殺すマリアの隣で、アーシュが、ニールの後ろから覗く涼しい表情をした美貌の騎士に遅れて気付き、ギョッとしたように飛び上がった。
「ひぃ!? よく見ればあれって、総隊長補佐様じゃねぇか!」
すると、その声を拾い上げたモルツが、「ほぉ」と場違いな冷静顔で肯いた。
「よく私の顔を覚えていましたね、文官のアーシュ・ファイマー。顔を合わせたのは一度きりのはずでしたが、お前の隣を走るアレとは、大違いの記憶力です」
「アレ扱いって酷くないか!?」
「おいマリアッ、お前、総隊長補佐様とも知り合いなのかよ!?」
アーシュが、言葉使いを注意するのも忘れて、ガバリと目を向けた。
マリアは咄嗟に顔を伏せて、「くッ」と目頭を押さえていた。その辺に関しては、答えたくない気持ちが強い。すると、モルツが「なるほど」と知った顔でアーシュに答えた。
「そうですか、どういう関係か気になるのであれば教えてさしあげましょう。私とコレは友人で、コレは普段から私を踏みつけて、容赦なく殴って罵倒し、私を悦ば――」
「全部言わせてたまるか阿呆!」
畜生頼むからお前は口を閉じてろッ、とマリアは目で訴えた。隣のアーシュから向けられる「え、嘘だろ……?」とドン引く気配と眼差しが、予想以上に心臓に痛くて涙が出そうだ。
マリアは勢い良くアーシュへ視線を戻し、誤解を解くべく必死に告げた。
「違うからな!?」
「あ、そうなんだ。それは良か――……じゃなくて落ち着け、お前口調が完全に男になってるぞ!? 女が『違うからな』なんて言うなッ。というか、大臣様のあとは総隊長補佐様かよ!?」
「お嬢ちゃん助けてぇぇええええ変態嫌ぁぁあああああああ!」
「さぁ、いつもの拳を下さい。全て受け止めます」
「阿呆か! というか、ついでとばかりに狙うのをやめろ!」
アーシュが叫び返す後ろから、ニールとモルツが同時に主張してくる。マリアは、十六歳の少女である自分に助けを求めるニールを素早く睨み付け、それからモルツを肩越しに見やって、礼儀もぶっ飛ばした素の口調で怒鳴り返した。
迷惑過ぎるッ。特に、このド変態のクソ野郎が忌々しい!
マリアの堪忍袋の緒は、疲労が重なっていた事もあり、収拾がつかなくなってきた事態を前にプツリと切れた。
たまらず「畜生ッ」と吐き捨て、マリアは、急ブレーキを掛けて立ち止まった。ギョッとするアーシュの慌てた制止の声も聞かず、大きく翻ったスカートから覗く右足で、きゅっと床を踏みしめた。
「一日に何度も騒ぎを起こすな!」
マリアは勢い良く跳躍すると、まずは、こちらに向かってくるニールの顔面に膝頭を突き入れた。「ふげっ!?」と苦痛の悲鳴と共に崩れ落ちる赤毛頭に、トドメとばかりに踵落としを入れて完全に廊下へ沈めてから、続いてモルツへ狙いを定めた。
互いの目が合った途端、モルツが肯き、無表情のままさっと両手を開いた。
普段は気力もない眼をしている癖に、ここぞとばかりにキラリと輝く瞳から『待ってました』と言わんばかりの言葉を察し、マリアのこめかみに、ピキリと青筋が立った。
「堂々と構えた場所に打ち込む奴があるかぁぁあああ!」
しかも今の肯きは一体なんだ。全然ちっとも以心伝心してねぇよ!
マリアはモルツの背後に回り込むと、その胴にガシリと両腕を回した。全身の筋力を瞬間的に最大まで引き上げて、勢いのまま後ろへと身体をそらすと、自分よりも長い彼の頭部を床に叩きつけた。
外見十四歳のデカいリボンをした幼いメイドが、軍人並みの体術技を決めるという衝撃的な光景に、現場に居合わせたメイドや男達が唖然と佇んだ。広がった沈黙の中、衝突音の余韻がやけに大きく響き渡った。
それを近くで見ていたアーシュの顔から、あっという間に血の気が引いた。
「……マリア、それはさすがに拙いって……相手は総隊長補佐様…………」
その時、床に沈んでいたニールが「はっ、俺もしかして気絶してた!?」と顔を上げた。その口調はハッキリとしており、マリアの攻撃を半分殺して受けた振りをしていたと、彼を知る人間であれば分かるものだった。
しかし、それを知らないアーシュは、彼へと目を向けて言葉を失った。
アーシュにとって『謎の赤髪男』であるニールの顔面には、膝頭を入れられただけにしては激しすぎる流血があったのだ。
実は膝蹴りを食らった瞬間、ニールは、もしかしたらマリアがびっくりするかもと期待して、コンマ二秒で顔に血糊をセットしていた。まさか後頭部に踵落としまで来るとは予想外の事態で、この血糊を見せるタイミングがなかった怒涛の攻撃には、悔しさが込み上げてもいる。
ニールは、彼女はどこだろう、と首だけを動かして辺りを窺った。当のマリアが、トドメとばかりにモルツの背中を踏みつけている様子を確認し、途端に残念な気持ちも吹き飛んで「すげぇ」と目を輝かせた。
「まさか、あの変態野郎が手も足も出ないとはッ。さすがの凶暴性だぜ、お嬢ちゃん!」
血糊は次回にでも試してみようと考え直したところで、床に転がったままニールと、立ち尽くしていたアーシュの視線が交わった。
ニールは、この若者は誰だろうかと、パチリと瞬きして首を傾げた。
そういえば、マリアの隣を走っていた白衣の若者がいたなぁ……と薄らぼんやり記憶を手繰り寄せる。
うん、お嬢ちゃんしか見てなかったけど、そういえばいたわ。
ニールは、そう思い至ったところで掌に拳を落とし、なんだかやけに体調が悪そうな、それでいて文官所属の軍服に白衣という、不思議な格好をした若者に声を掛けた。
「やっほー。今にも倒れそうな顔してるけどさ、大丈夫? 俺、ニールって言うんだけど、『お嬢ちゃんの連れ君』はなんて名前なの? というか文官服なのに白衣とか超気になるんだけど、今の若者に流行ってるファッション?」
「……血……血が……………」
「おーい、俺の声聞こえてる? あ、なるほどね! あははは、びっくりしたんだ? へっへ~ん、実はこの血は偽物――って、あら?」
ニールの視線の先で、アーシュが白目を剥いて倒れた。
※※※
仲間達がボロボロのうえ口数も少ないため、詳細は聞いていないが、またしても一番に尊敬している上司が『迷惑な同僚もしくは友人』達に迷惑を被ったらしい。
ポルペオ師団長が倒れたとの知らせを聞きつけ、第六銀色騎士団の騎士達は、急ぎ救護室に駆け付けていた。師団長の見事なたんこぶからすると、恐らく同格の他師団長あたりなのかもしれない。
それからが、かなり忙しかった。
現場は、救出当初よりひどい惨状と化している。
耐性のない若いメイドが失神するたび、彼らと警備衛兵、それから救護班と中堅メイド達が対応しなければならなかった。耐性がなさそうな奴は近づけるなと、普段は冷静な第六師団の騎士達も、思わず何度も声を張り上げたほどだった。
本当に疲れた……まだ一時間も経っていないというのに、ひどい疲労感である。どうやら若いメイドの中には、ポルペオ師団長をあまり知らない者もいるらしい。
救護室の扉の前に、バリケードのように並び立つポルペオの部下は、凝縮された過度の疲労困憊によって顔面に覇気がなかった。師団長の優秀な部下として、げんなりとした表情だけは晒すまいと、どうにか口を一文字に引き締めて直立している。
何故なら、彼らの向かいには、まだ淑女が残っていたからだ。
廊下には、先輩メイドによって迅速に介抱され、数分の失神から目覚めたばかりの十代後半のメイドが二人座り込んでいた。ポルペオの部下達は、早く去ってくれないものだろうかと、ずっと心の中で念じ見守っていた。
「待って待って待って、あの超絶ハンサムなお方は誰ですの!?」
「先輩ッ、なんで男性神の銅像が動いておりますの!?」
「あなた方落ち着きなさいな、見苦しいですわよ」
三十代頃のメイドがぴしゃりと嗜め、そっと控えめに眉を寄せ「それから、銅像に命が宿って動いているわけではございません」としっかり教えてから、二人に立つよう指示した。
「だって、あれどう見ても国立芸術館の前にある銅像の人です!」
「当然でしょう。あれは芸術品ではなく、記念碑です。あの銅像は、ポルー師団長様が臨時合同軍を率いた際、マーティス帝国と旧ドゥーディナバレス領民から贈られたものですから」
あなた達もっと勉強なさい、と彼女は言いながら、冷静さを欠いて質問の絶えない二人の新人メイドの腕を掴み、問答無用で引き連れていった。
ポルペオの部下達は、そこでようやく、息を吐いて緊張を解いた。
現場に静けさが戻った時、メイド達が歩いていった反対側から、遠くで起こっているらしい騒ぎが鈍く聞こえてきて、彼らは訝しげに顔を向けた。
「なんだなんだ、また何か起こっているのか?」
「『変態が』って聞こえた気がしたんだが……」
「女の悲鳴か?」
「いんや、男の声だった」
思わず、揃って首を傾けた。疲労で思考が上手く回ってくれず、互いの目を見て黙りこむ。
そんな疲労感たっぷりの彼らを労わるように、救護室前の警備を担当する衛兵達が、代わりに耳を澄ませて「ここからは距離があるようですね」と口にした。しかし、そのうちの一人が、不穏な気配を表情に滲ませて同僚を見やった。
「おい、別の方角からドカンって音もしたんだが……あれって総隊長の執務室あたりじゃないよな?」
「頼むから、不安を煽るような憶測はやめようぜ」
「ああ、そうだとも。短時間で複数の騒ぎが起こるとか、『もうこれ確実に宰相様が倒れるんじゃね?』とかは考えないでおこうぜ、相棒」
その時、救護室内から扉越しに「おい」と一つの声が聞こえて、衛兵達は口をつぐんだ。ポルペオの部下達が、ハッとして扉を振り返る。
「――何やら騒がしいようだが、どうした?」
扉の向こうから問われた騎士達は、慌てて「何も起こっていませんッ」と声を揃え、それから心配そうに尋ねた。
「…………師団長、お身体は大丈夫ですか?」
「問題はない。手間を掛けたな――おい、私の眼鏡はどこだ?」
室内にいる部下に、ポルペオ師団長が訊く声がする。マントを手で払った際に揺れたのか、本来の彼の波打つやや長い黄金色の髪が、サラリと絹のような音を立てるのが聞こえて、外で待っていた騎士達は、頭の治療が終わったらしい事を察した。
ではあと数分もしないうちに、支度を終えて出てくるだろう。
彼らは、そこで安堵に胸を撫で下ろした。騒ぎが聞こえてくる方とは反対側の曲がり角から、ボロボロになった仲間達の軍服の替えを持って来た数人の同僚の姿を目に留め、師団長の無事を告げるようにふっと笑みを浮かべて「お疲れ様」と、どうにか片手を上げて応えた。




