二章 お嬢さまのお見合い準備(2)
第四王子の訪問に向けて、急ピッチで準備作業が進められた。少ない人数で完了させるため、小刻みに時間を割り振らなければ間に合わないのだ。
侯爵邸は隅々まで磨き上げられ、マリアを含む男性使用人全員で屋根の修繕も行った。リリーナがアーバンド侯爵と共に友人宅を訪問している時間を使って、全員で庭の草木も整える。
リリーナが第四王子の婚約者候補として決定してから三日後、侯爵邸はだいぶ見劣りしないまでに完成された。
午前はヴァイオリンとピアノ、続いてマナーの授業が入っているリリーナをサリーに任せ、マリアは正面玄関前に設置された噴水前にいた。噴水を取り囲む二メートルほどの飾り木を整えるべく、庭師であるマークの指示のもと、ギースと共に脚立に登って伐採ハサミを動かす。
マリアは一度手を止め、素晴らしい秋晴れの空を見上げた。
メイド達は、暇をみつけてはカーテンやテーブルクロスなどの解れを縫い直す作業に入っていたので、マーガレット達は今頃、御針子作業をしているのかもしれない。細かい事は手伝えないので、マリアはそれを少しだけ申し訳なく思う。
屋根の修理とか、畑仕事とか荷物運びなら出来るんだけどなぁ。
使用人として鍛えられただけあって、今は掃除も得意だ。しかし、どうも裁縫や料理といった才能は微塵もないようで、一年ほど頑張ったものの、最後はエレナやガスパーに全力で止められ、今は全く加勢に入る事もなくなってしまっていた。
「おーい、マリア。手ぇ止めるんじゃねぇぞ。体力だけが自慢なんだから、キリキリ働け~。こっちが終わったら次は表門のところだぜ。……はぁ、サボル暇もねぇって、どういうこと?」
「いつもみたいに芝生の上でサボリ寝ててもいいんじゃない? フォレスさんの拳は落ちると思うけど」
フォレスの拳骨は、かなり痛い。
オブライト時代にも、あんなにすごい威力の拳骨を落とせる男は見た事がなかった。頭蓋骨が割れないような絶妙な加減のもとで振り降ろされる拳は、もはやトラウマ級のものである。
懲りずに拳骨を受け続けているのは、怠惰癖のあるマークぐらいである。
マークは、すごく立ち直りが早いのだ。女性のナンパに失敗するたび、一晩は落ち込むギースに見習ってほしいほど清々しい駄目っぷりだ。
「というよりさ、二人とも。ここにマリアが加わっている時点でおかしいと思わないのか? 日差しを浴びての作業とか、メイドがやるような仕事じゃないよな?」
ギースが手を止めて、マークとマリアを見た。
マークとマリアは、互いに手を止めた状態でしばし見つめ合った。訪れた静けさの向こうで、秋の鳥の心地良い鳴き声が聞こえた。
そのまま数秒ほど考えたマリアは、心底分からないとばかりに首を捻り、ギースへ視線を向けた。
「何か変なの? 私、カレンやマーガレットと違って、高いところの作業も平気よ?」
「体力が有り余ってるいい人選だろ。ほれ、お前も手を動かせよ、ギース」
マークが呆れたように溜息をつき、再び伐採ハサミを動かし始めた。
ギースは受け入れ難いといわんばかりに眉を寄せ、「俺が間違ってるのか? 俺の一般常識が正しいよな?」と独り言をもらした。
マリアも伐採ハサミを持ち上げたのだが、ふと馬車の音が聞こえて、そちらへと顔を向けた。
「今日って訪問予定、あったかしら?」
「さぁな。急きょ入ったんだったら、多分伝書鳩で知らせが行ってると思うし、それだったら執事長が把握してるだろ」
こちらに向かってくる馬車の方へ首を伸ばし、マークが確認すべく目を細めた。
その時、屋敷の玄関が開き、背筋を伸ばしたフォレスが姿を見せた。彼のそばにはエレナと、もう一人の淑女然とした三十代のメイドが慎ましげに佇んでいた。
癖毛の赤茶色の髪を強く結い上げ、銀縁の眼鏡をかけているメイドはカレンだった。彼女はこちらに気付くと、口許を僅かに綻ばせるような微笑を浮かべた。専用の重いブーツは踵に高さがあるので、背丈の高いエレナと同身長になっている。
メイドの中でも見目も教養も高い二人は、客人を出迎えるにはもってこいの組み合わせだった。
先触れでもあったらしいと納得しつつ、マリア達は脚立の上で伐採ハサミを抱え上げたまま、続いて馬車の動きを目で追った。そうしている間に、見覚えのある紋章の入った黒塗りの馬車が、玄関前で停車した。
間近でそれを見たマリアとギースの表情筋が、ピシリと音を立てて硬直した。
「……なぁ、あの紋章ってどこかで見た覚えがないか?」
「……私も、ずぅっと昔に、どこかで見た事があるような気がするんだけど」
「おいおい、お前ら若造共は国旗も知らねぇのか? ありゃあ王宮の馬車だよ」
マークがそう指摘した。「そうだったか」と納得したマリアだったが、馬車から降りてきた明るい緑色の芝生頭を見た瞬間、叫び出しそうになった。
立派な馬車から降り立った男は、紺色を基調にした騎士服の上からでも見て取れる、鍛えられた大きな体格をしていた。
ジャケットに付けられた隊長格を示すマントには、二本の剣と聖杯が象られた宮廷近衛騎士隊の紋章が刻まれており、太い首の上に見える精悍な横顔には、大きな古い切り傷が浮かんでいる。
十六年の歳月が経ったはずだが、一見すると七、八歳ほどの年月しか経ておらず、大人になったという印象が強かった。
というか、あいつ、ヴァンレットじゃないか!
マリアは、思わず勢い良く顔をそむけていた。あの頃とは違う容姿をしているのだから、焦る必要もないだろうと自分に言い聞かせるが、すぐには視線を戻せなかった。
ヴァンレット・ウォスカーは、十七歳で騎士学校を卒業し、そのまま黒騎士部隊に入隊した一番の若手だった。その頃オブライトは二十四歳で、隊長として彼の面倒を見ていたのだ。
共に過ごせたのは三年ほどだが、初陣から恐れもなく敵兵に向かって大剣を振るうヴァンレットは、早々に頭角を表していった。七歳下の彼は、戦場では頼もしい後輩でもあり、オブライトにとっては数少ない友人の一人にもなった。
最後に見たヴァンレットは二十歳だったから、過ぎた年月を数えると、現在は三十六歳だろう。
改めて盗み見すると、当時感じていた子供染みた雰囲気がなくなって垢抜けている事に気付けた。頬の傷もすっかり馴染み、戦場をくぐり抜けてきた猛者の勲章のように映えている。
あの頃は、目だけは子供のようにキラキラとして可愛らしかったのに、しっかりとフォレスの目を捉える眼差しは、どこか力強くも思える……ような気もする。
……そういえば奴は、貴族の三男坊だっけか。うーわ、あいつが隊長クラスになったとか、マジか。
会うつもりはなかったし、顔を見る予定も全くなかっただけにマリアは動揺した。しかも、残念なことに奴が優秀なのは持ち前の戦力だけで、戦場下でも制御するのが大変な、黒騎士部隊で最大級の問題児でもあったのだ。
ヴァンレッドは、猪突猛進型の筋肉馬鹿だ。空気も読まなければ、腹の探り合いも到底出来ない阿呆である。
あの頬の傷だって、オブライトに突っかかってきた近衛騎士を、後先も考えず怒らせ決闘でつけられてしまったものだ。敵の誘いに気付かず突撃し、一度は危うく死に掛けた事もある。
何よりも最大の問題としては、奴の思考が普通じゃないところにある。空気が読めない、というレベルをとうに超えている。
マリアは、過去の悲惨な日々を思い出しつつ、もう一度彼を盗み見た。あの頃と違って、どうにも逞しい騎士にしか見えない。大人になって性格も矯正されたのだろうか、と小さな疑念がわいた。
そうだとすると、過ぎた年月は大きいともいえるのかもしれない。
「おい、マリア。どうかしたのか?」
ギースに尋ねられ、マリアは乾いた笑みを浮かべて「大丈夫よ」と答えた。
アーバンド侯爵は、王宮から使者が来て詳細を決めると話していたので、恐らくは第四王子の件なのだろう。あのヴァンレットも、一人で使者という役目をこなすぐらい立派になったらしい。
マリアは今、オブライトと全く似つかない少女だ。
一介の使用人が、王宮からやってきた騎士に関わる事はないだろう。そう考えて、冷静が戻りつつあったマリアの耳に、唐突にヴァンレットの太く陽気な声が飛び込んで来た。
「美しい婦人方ですね。どちらか片方を嫁にもらってもいいですか?」
興味も薄そうに様子を見守っていたマークが、ギョッとしたように目を剥いて「え、嘘。聞き間違い?」と勢いよくヴァンレットの方を二度見した。ギースとマリアの表情も、同時にピキリと固まる。
エレナとカレンが、温度のなくなった淑女然とした微笑を張り付ける中、フォレスが、年季の入った柔和な微笑みを、わざとらしいぐらいまで深めた。
「ウォスカー様は面白い方ですね」
フォレスは社交辞令を口にすると、素早く流れるような動作でヴァンレットを屋敷に招き入れた。
「こちらへどうぞ。旦那様がお待ちです」
「冗談ではないのですが、そうですか。それでは失礼致します」
どこか少年じみたヴァンレットの声が、屋敷に吸い込まれていった。マリアは、思わず顔を覆って項垂れた。
あいつは何も変わっていなかった。馬鹿で阿呆のままだった。畜生、感慨深いとか思った時間を返せ!
さすがのマークも茶化せないようで、閉められた扉を茫然と見つめていた。ギースが「貴族って、皆あんな感じなのか……?」と頬を引き攣らせている。
そんな事はないと言いたい気持ちを堪えて、マリアは脚立の上で姿勢を楽にして、丹念に目頭を揉み解した。
ヴァンレットは、昔からおかしな男だった。その一つに、女好きでもないのに唐突にプロポーズ紛いの言葉を投げかける事があった。大抵の相手が落ち着いた大人の女性であり、二十代から三十代後半までと幅広い。
全く相手の事を知りもしないまま、まるで友人を酒に誘うような軽さで「結婚しないか」と言われて肯く女性はいないだろう。 彼の子供のような無垢な瞳で問われた女性は、例外なくドン引きして逃げていった。
ヴァンレットの行動はいつも突発的であり、話していると時々、別の国の言語でも使っているのではないかと頭が痛くなる事もあった。
オブライトや友人達が、ヴァンレットに、お前は結婚したいのかと問い掛けた時、「多分?」と、ちっとも理解していないような疑問形で答えられた時の戦慄は忘れない。さすがの国王陛下の笑顔も、あの時ばかりは固まっていた。
「…………あ~、マジか」
思っていた以上に、ひどい声で本音がこぼれてしまった。
実に信じ難いが、ヴァンレットは何も変わっていなかった。そして、立派に隊長の地位に収まっている事実にも驚愕しか覚えない。奴の手綱は、一体誰が引いているのか。……いや、引けるような男は存在していただろうか。
すると、今の出来事を早々に記憶の底にしまったらしいマークが、マリアを見て「おい」と心底呆れたような声を上げた。
「お前はどっかのおっさんか? 女が足を開いて項垂れるな、ついでに言うと女は『マジか』なんて使わないから、とっとと姿勢を直す!」
「おっさんに言われたくない。今少しは勘弁してくれ、色々と衝撃が大きすぎるんだ……」
そんなマリアの様子に目を止めたマークが、「騎士に夢を見るぐらいの女心はあったのか?」と疑問を呈してくるが、そんな事はどうだっていい。
むしろ、マリアは十六年前まで男だったのだ。騎士どころか、男所帯のありようは身に染みて知っている。大人になったら少しはマシになるだろうとか、ヴァンレットの事を少し、先輩心でそう考えていた前世の自分をぶっ飛ばしたい。
大丈夫、どうせ関わらないのだ。
そもそも、相手はヴァンレットなので、絶対に『マリア』が不審がられる事はないだろう。
マリアはもそもそと姿勢を正すと、ふうっと息をつき、少女らしく背筋をしゃんと伸ばした。すっかり聞き慣れた少女らしい自分の声で「私は大丈夫、全然ちっとも平気よ」と意気込むと、どうにかなりそうな気もした。