十一章 彼女の選択と、その結果…(1)上
オブライト――……
記憶の奥底で、そう自分を呼ぶ声がして、ゆるやかに意識が浮上した。
ぼんやりと瞼を開くと、汚れた黒騎士部隊の軍服を着た男達が、こちらを覗き込んでいるのが見えた。その筆頭には、目立つ赤毛頭をした十代のニールがいる。外側へとはねた特徴的な髪先が、風で揺れていた。
そういえば、木陰で横になって目を閉じていたのだと思い出した。
目を閉じるだけ、と言い聞かせていたのに、結局はいつものように眠ってしまったらしい。オブライトがゆっくりと瞬きすると、隣で剣を抱えたまま片膝を立てて腰かけていた副隊長のジーンが、彼の目覚めに気付いて笑った。
「まったく、戦場だってのに緊張感ねぇよなぁ」
同じように僅かな休憩を取っていた部下達が、「ほんとだぜ」「さすが隊長だ」と愉快そうに言い合った。
隣を見れば、同じように横になり、呑気な寝顔を晒しているヴァンレットの姿があった。最近付いた頬の傷跡は完全に癒えておらず、剥がれたばかりのカサブタの下から、新しい皮膚の色が覗いていた。
「ま、敵さんに動きがあれば、お前が一番に起きるんだろうけどさ」
「どれぐらい寝てた?」
「ほんの十分ぐらいだ」
ジーンの声を聞きながら、眼前に広がる清々しい青空を眺めた。ああ、とても目に優しくて澄んだ青だ、と思った。
長閑な天気だ。耳を澄ませば鳥の囀りが聞こえて来て、柔らかい風が吹くたび、額に落ちている髪が揺れる様子を、しばしオブライトは眺めた。
その時、隣で横になっていたヴァンレットが、目覚めたように手足をぐっと伸ばした。十代とは思えない大きな上体をむくりと起こすと、きょとんとした表情でオブライトを見降ろした。
「オブライトさん、起きていたんですね。おはようございます。起こして褒めてもらうつもりだったのに、チャンスを逃がしました」
途端に、周りの男達がどっと笑った。
「わはははっ、つられて寝てんのが悪い」
「本当に犬みたいなやつだな、新人」
「隊長のくっつき虫だもんな」
「つか隊長って呼べよなぁ、新人のニール坊も呼んでんのに」
「お前はなんでそんなに隊長に懐いてんの!? 切れたらめっちゃおっかねぇからな!?」
「そりゃあ、ニール、お前が落ち着きなさすぎるからだろ。初っ端から縛られた新人って、お前が初めてだぜ?」
部下達は好き勝手に言いながら、ヴァンレットの肩を叩き、彼の特徴的な芝生頭をぐりぐりと撫で回した。ニールが戦場予定地へと目を向けて、相変わらず緊張もないひょうきんな顔で、呑気に口笛を吹いた。
ジーンが立ち上がり、ぼんやりとしていたオブライトに、当然のように手を差し出した。
「ほらよ、親友」
「ありがとう」
「いいって事よ。俺はお前の親友で、相棒だからな」
差し伸ばされる手に遠慮を覚えなくなって、もう随分経つ。ジーンが頑なに譲らなくて、それを繰り返しているうちに慣れてしまったのだと、オブライトは何故か、そんな事を思い出した。
「そういえば、この前、お前が助けたおっさんがいただろ。多分、いいとこの貴族だぜ」
なんであんなところにいたんだろうな、とジーンが首を捻った。社交界では目立たないが、けっこうな爵位だった気がする……そう呟く彼の横では、仲間達が数人掛かりで、大きなヴァンレットを引き上げるべく腕を引き始めていた。
この前と言われても、いつの事か分からない。似たような事は多々あった。
オブライトが首を傾げると、その心情を察したジーンが声を上げて笑い、もう一度、オブライトの名を呼んだ。
※※※
プツリと過去の光景が途切れて、ゆるやかに意識が浮上するのを感じた。どこからか、オブライト、と呼ぶ声が聞こえる気がする。
目覚めを促すその声は、らしくもない寂しさを漂わせていて、十六年前よりも深く落ち着いていた。まだ夢を見ているのだろうかと思った。頭の靄は時間をかけて次第に晴れていき――
マリアは、ぼんやりと目を開けた。
目覚めると同時に、珈琲の匂いが鼻先を掠めた。静まり返った室内に、開いた窓から、秋晴れの暖かくて心地良い風が吹きこんでいる。
ゆっくりと首を動かしたマリアは、自分が三人掛けソファで横になっている事に気付いた。頭には、触り覚えのある柔らかなクッションが置かれている。それは、先程いた第五会議室で、自分の尻の下と胸の前にあったものと同じクッションだった。
普段はある頭の締めつけ感はなく、リボンが解かれている事に気付いた。身体には、肌触りのいいシーツが掛けられ、頭上の空いたスペースに誰かが腰かけている気配がした。
書類をめくる音につられて、マリアは、クッションに頭を置いたまま上目を向けた。
「お、ようやく起きたか」
そこにいたのは、ゆったりとした豪勢な正装に身をつつんだジーンだった。
やはり、先程の声は夢だったらしい。こちらを見降ろす彼は、相変わらず短い無精髭をはやした顔に、普段の悪戯好きそうな笑みを浮かべていた。
「倒れたって聞いた時はびっくりしたぜ。気分はどうだ?」
「特に悪くない。――どれぐらい寝てた?」
「一時間ぐらいだな。多分、お前の体内時計に聞けば分かると思うぜ」
からかうように言われて、マリアは、どういう事だろうかと眉を寄せた。礼儀作法については今ぐらい構わないだろうと開き直り、身をよじって横向きになったところで、腹の空き具合を確認してみた。
マリアは、腹に手をあてたところで、悟った事実を前に言葉を失った。
「……なんてこった。昼飯を食い損ねた」
体内時計では、正午もすっかり過ぎてしまっていた。ルクシア達に、昼食までには戻れるはずだからと伝えた際、アーシュから「プリン三個までなら奢ってやる」と言われていたのに残念だ。
マリアの呟きを聞いたジーンが、「ちっとも変わってないな」と腹を抱えて笑い転げた。マリアは、目尻に涙まで浮かべる彼に、文句の一つでもくれてやろうかと思ったのだが、テーブルに置かれている仕事の書類が目に止まり、申し訳なさが込み上げた。
「……わざわざついていなくても良かったのに」
「親友で相棒だからな。心配もすりゃあ、そばにもいるさ」
それにお前のためとはいえ、俺も悪いところがあるからなぁ、とジーンは口の中で呟いた。もしもの場合に備えて踏み込む用意はしていたが、結局、モルツを止めに入る事はなかったのだ。
ジーンは、一旦表情を戻すと「まぁ、状況を説明するとだな」とマリアに話を続けた。
「ここは総隊長の執務室だ。お前が倒れた事は、あそこにいたメンバー以外には知られていない。ルクシア様には、別件で用が出来たから今日は戻れないかもしれない、とは伝えさせてある」
騒ぎ立てられる方が困ると分かって、色々と手は打ってくれたらしい。マリアは、ほっと安堵の息を吐いた。
「そうか。ありがとう……」
「精神的なショックだろうって事で納得させて、目覚め次第、俺の方でやっとくと宰相も黙らせといた」
そう言いながらソファに背を預け、ジーンは、すぐそばにあるマリアの顔を見降ろした。
「モルツの馬鹿がほじくり返したようだったから、あらましについては何となく分かっちまったけどさ。不器用な癖に溜めこみ過ぎなんだよ」
悩ましげに問われた言葉に、マリアは心を見透かされたような気がした。すぐには何も答えられなくて、視線をそらすように仰向けの姿勢に戻り、高い天井を眺めた。
どうにか努力してみようと口を開いてみたが、躊躇いの末に閉じてしまい、もう一度開いてみても結局は駄目で、マリアは、一番嘘を付きたくない友人に「ごめん」と本音をこぼしながら、情けない顔を腕で覆い隠した。
「聞いてもらいたいとは思ってる。でも、……まだ話せるだけの勇気がない…………」
吐き出してしまえば、少しは楽になれるだろうか、と期待している自分もいる。最近まで気付かなかったのだが、一人で前世の想いを抱えて生きるのは、案外辛いものだったらしい。
テレーサと過ごした時間は幸福で、大切だからこそ、誰も知らないだろうオブライトが知る彼女の物語を、自分をよく知る人に聞いて欲しくて堪らないような気もしている。それでも、マリアの葛藤がそれを邪魔していた。
これまで手付かずで置いてきた心は、いざ言葉にしようとすると理性が感情が追い付かず、うまく話せる自信もない。
「悔しいけどさ、相棒の最期は、俺が隣で見届けるものだと思ってたんだ」
そう言われて、男友達にするように、くしゃりと雑に頭を撫でられた。
顔を上げると、そこには泣きそうな顔に、歯を見せるような笑みを無理に浮かべているジーンがいた。彼は目が合うと、空気を変えようぜ、と伝えるようにリボン見せて、ひらひらと振った。
「……はぁ、らしくないよな」
余計な心配をさせた事を小さく謝りながら、マリアは、起き上がってリボンを受け取った。
「俺はいつでも話しを聞くから、今じゃなくていいんだ。――とりあえず元気になるってんなら、そうだな、遅い昼食を奢ってやろう!」
「それもいいな」
元気付けるように陽気に笑うジーンを見て、マリアは苦笑を浮かべた。すると、彼は急に思い出したような顔で、「そういや、俺、リボンとか出来ないわ。ごめん」と謝って来た。
リボンが出来るイメージもない友人なので、想像すると可笑しくもあった。マリアも、オブライトだった頃は、リボンに触れた事すらない。
鏡がなくとも一人で出来る事を教えて、マリアは、リボンをとめるべく両手を動かせた。ジーンが、その様子を興味深そうに見つめた。
「慣れたもんだなぁ」
「ずっとやっていれば慣れる。――ね、可愛いでしょ?」
「おーおー、板についたもんだなぁ」
少女らしくにっこり笑い掛けると、ジーンがニヤリとした。しかし、ようやく落ち着いたところで、マリアは、ふっと笑みを消した。
「――なあ、ジーン。少し真面目な相談に乗ってもらってもいいか」
ルクシアが追っていた【謎の毒】が判明した今、自分の協力はここまでだろう。今一度それを考えながら、マリアは、真剣な眼差しでジーンを見つめ返した。
すると、不敵な笑みを浮かべていたジーンの表情が、どこか落ち着いた年代の柔らかさを覗かせた。
「勿論だとも、親友よ」
彼は、ふっと笑うような吐息をもらすと、マリアの選択を歓迎するように、赤み混じりの焦げ茶色の瞳を穏やかに細めた。普段と変わらない楽な姿勢で、何でもないように言いながらも、その口元には静かな微笑を浮かべていた。
無理には聞き出さないし、話せる時には一つ残らず聞いてやる。
悪戯な光が潜められたジーンの眼差しは、そう語るようにひどく穏やかで、マリアは、心強い友人に「ありがとう」と下手くそな笑みを返した。
 




