十章 進む事態と、揺らぐ心(3)上
アーシュが王宮の中央広間で倒れてすぐ、前回と同様に、彼の友人の救護班が駆け付けた。
四人一班の、二十歳メンバーである救護班の彼らは、白目を剥いて倒れた友人を見ても、相変わらず余裕のある様子で、それぞれ愚痴と嫌味を言いながら迅速に仕事に取り掛かった。
――キッシュが作る気付け薬は、世界で一番悪意を感じるぐらいに不味い。
そう評価する気付け薬を飲まされたアーシュは、「おぞましい匂いとが味が追加されてるぅぅうう!」と床の上を転げ回りながら意識を取り戻した。
二重のダメージは相当だったようで、アーシュの蕁麻疹は引く様子がなく赤みを増した。恐怖症による震えも止まらず筋肉は弛緩しており、彼が眩暈と吐き気で立つ事が出来ない様子を見て、ラジェットと呼ばれる青年が「ふむ」と腕を組んで一つ頷いた。
「こりゃ重症だな。仕方ねぇ、運ぶか。――ちっ、例の新作が効きすぎたな」
「おいラジェット、後半の本音が聞こえてんぞ。つか、てめぇキッシュに妙な入れ知恵しただろ! この吐き気はお前らの悪意の塊のせ――……うっぷ」
「やれやれ、ショック療法で改善するかも、という僕らの優しさが分かってないね。――ちっ、耐性がついたのかな。白目を剥いてキレイに意識が落ちるはずだったのに」
彼らは騒がしさのままにアーシュを担架に放り込むと、来た時と同じように「どけどけ救護班のお通りだぁぁああああ!」と駆けて行ってしまった。
しばし呆けていた女性司書員が、「本当に女性恐怖症なんてあるのねぇ」と驚きを通りこして感心の声を上げた。当事者がいなくなった事で、現場の騒がしさは一気に落ち着きを取り戻し、彼女を含む集まった見物人が自然と解散されていった。
マリアは女性司書員を見送ったところで、ようやく「やれやれ」と肩の強張りを解き、その場を後にしたのだった。
※※※
先に研究私室に向かったマリアは、二人の到着を待っていたルクシアに、アーシュが遅れて来る事について報告した。
ルクシアは、話を聞くなり、金緑の大きな瞳を瞬かせた。白衣の長い袖をまくった先から出た幼い指先で、丸い眼鏡をゆっくりと押し上げ、しばらく首を捻り、それから遅れて理解したように遠い目をした。
「そういえば、彼は女性が駄目でしたね……私とした事が、すっかり失念していました」
ルクシアは、あまりにも自然とアーシュがマリアの近くにいて、隣同士に並んで腰かけるのも珍しくなくなっていた最近を思い返した。この二人は似通っている部分があるようで、ニヤリとした顔を見合わせて「やってやろうじゃねぇか」と語る様子は、良いコンビのように清々しくもある。
女性としてその表情はどうなのだろうか、と思うところではあるが、不思議とマリアであれば、違和感がないのも悩ましいところだ。
しばし思案していたルクシアは、先日の彼女らしくない様子を思い出して、どうしたものかと眉を寄せた。普段は単純で嘘がつけず、落ち着きがない元気なこの少女は、ふとした時、驚くほど大人びた寂しげな眼差しを見せて、私情が読めなくなってしまう事がある。
「……一つ、確認したかった事があるのですが、あなたは【リリスメフィストの蔦】をどちらで?」
ルクシアはそう尋ねてすぐ、マリアが条件反射のように「私は」と口を開く様子を見て、もうしばらく待った方が良かったかと小さな後悔を覚えた。
「町中で偶然聞いてしまったんです。そして、その人が死ぬところを目撃してしまいました」
マリアは、どうにか笑ってそう答えた。嘘は一つも言ってはいなかったから、言葉はスムーズに口から出てくれた。当時はオブライトとして見聞きし、死んだのだという詳細を伏せているだけだ。
こちらを、どこか心配そうに見据えるルクシアに、マリアは少女らしい困惑した微笑を浮かべて小首を傾げて見せた。彼は小さく息を吐くと、「そうですか、ありがとうございます」と早々に話を打ち切るよう、視線をそらした。
「ガーウィン卿が関わる今回の件について、私は詳細をあまり知らされていません。恐らく、あなたの方もそうであるかとは思いますが、毒については慎重にと忠告は頂いております。あなたも、どうか無理をしないようにお願いします」
「無理はしていませんし、恐らく研究棟は安全だと思いますよ? 研究棟内に最低でも十人、いつでも駆け付けられる距離には十五人の護衛が潜伏しているようですから」
マリアが気配を辿って何気なく告げると、ルクシアが、驚いたように視線を戻した。
「分かるのですか……?」
「はい。護身術の賜物みたいなものですよ」
「……護身術に、そのような副産物があるとは初耳です」
「相手が隠し上手でなければ、少しコツを掴めば簡単に分かるようになります」
そう考えると、王宮にいる軍人達は優秀だ。こちらから動向を把握出来ないぐらい気配に隙がないため、ある程度近づかないと気付けない。日常生活であろうと無意識に気配を隠せてしまう、ジーンやグイード、レイモンドといった友人達が良い例だろう。
安心して研究に取り掛かるといいですよ、とマリアが助言すると、ルクシアは悩ましげに髪をかき上げた。
「はぁ。……知れば知るほど規格外で困ります」
ルクシアから、これから必要になる論文資料のリストをもらったので、マリアは図書資料館に向かった。二十冊ほど腕に抱えてカウンターに向かうと、「あの子『リボンのメイド』だろ?」「すげぇ力持ちだ」とざわめきが起こったが、マリアは、朝見掛けた女性司書員を探していたので気付かなかった。
カウンターで先程の女性司書員を探していると、目尻に優しい皺のある老年の司書員が出て来て、彼女は見舞いに行ったのだと教えてくれた。彼に確認して貸出手続きを行ってもらった後、マリアは本を両手に抱えて小走りで研究棟へと戻った。知り合いの軍人に遭遇しなかったので、恐らく昨日の一件で忙しいのだろうとは察した。
※※※
アーシュが研究室にやって来たのは、マリアが室内の掃除を進め、ルクシアが珈琲を持って続き部屋に閉じこもってから一時間が経った頃だった。
申し訳なさそうにルクシアに謝罪した後、アーシュは、作業台に置かれた論文用の資料を開いた。要点だけを押さえるように白い紙に情報をまとめていく姿は様になっていて、暇になったマリアが「何か手伝える事はない?」と尋ねると、彼はしばし思案した。
「そうだな、早めにまとめちまいたいし……じゃあ、こっちと、このページの毒をまとめてくれ。後で俺が清書して、ルクシア様が論文の資料として使えるようにまとめ直すから」
マリアは、それならばと集中し作業にあたったのだが、一時間かけてようやく出来上がったものを見せると、彼は「想定はしていたが……」と既視感を覚えるような表情を浮かべた。
「……お前もすげぇ集中してたし、確かに前のと比べると文章も、まぁ、読めるっちゃあ読めるけどさ…………やっぱり字が汚ねぇな」
「…………」
アーシュのようにやりたくて、出来るだけ丁寧に時間を掛けて書いたつもりだったが、確かに、改めて見ると子供の落書きのように思えなくもない。
「……いいのよ、まだ十六歳だし」
「いや、もう十六歳の間違いだろ。お前道端で育ったのか? こんな下手くそな字とか見た事ないぜ」
「道端って、ひどくないか?」
マリアは、思わず素で困惑の感情を口にこぼした。今世では結構頑張ったのにな、と回想しかけた時、武術以外はまるで集中力が続かなかった事を思い出した。
オブライト時代にも、グイードから「俺がちょっと教えてやるからさ」と時間を作らされたが、少しもしないうちに言い出した本人が根を上げた。グイードは「俺にも無理だったッ」と頭を抱え、レイモンドとジーンが正反対の表情を向けて「だから言っただろ……」「ははは、読めるからギリセーフだって」と言っていた。
……今日から少し、意識して文字をよく書くように心がけようかな。
このまま引き下がるのも、続き部屋で研究に精を出しているルクシアに申し訳ない。マリアは、少しだけ反省し「……頑張るから、他にも手伝わせて」とアーシュに頼んだ。
※※※
機密の軍法会議などで多く使われる第五会議室に、銀色騎士団総隊長のロイドを筆頭に、彼と国王陛下が信頼する軍の要となる人間の中から、更に厳選されたメンバーが本日二度目となる招集を受けていた。
大長テーブルの上座の長椅子には、軍のトップである総隊長のロイドが腰かけ、脇に控えて立つ総隊長補佐モルツが会議の進行を管理しつつ見守っていた。ロイドを挟むように、長テーブルの左右には、軍の正装を身にまとった男達が腰かけている。
ロイドから右手には、師団の中で最も発言権を持った第一師団長グイード、左手には騎馬隊のトップである騎馬総帥レイモンド。その隣には、疲れ切った顔をした宰相ベルアーノが腰かけていた。
近衛騎士隊を管轄に置いているベルアーノは、今回、護衛から外れる事が出来ない近衛騎士組の代理兼、見届け人として参加していた。早朝からの短い間に、新たに上がって来た情報を共有し、今後の方針について改めて決めるための話し合いが続けられている。
レイモンドとベルアーノが、それぞれ現在の最新の動きについて報告し終え、思案する沈黙が続いたところで、グイードが「ちょっといいですか」と緊張感もない顔をロイドへ向けた。
「そういえば俺、朝の招集に参加出来なくて知らせしか受けていないんですが、近衛騎士隊が完全に守備に回るって事でいいんですかね、ロイド総隊長?」
「決定に変更はない。宮廷近衛騎士隊には守りに徹してもらう」
そういえばいなかったな、とロイドは思い出し改めて自分の口から説明した。
「第四王子の護衛には、ヴァンレット率いる近衛の第一部隊と、アロー率いる第四部隊が。第三王子については、推薦のあった第三部隊のケイシー隊長とアルバート副隊長が、人嫌いのルクシア様に配慮した護衛体制を敷いている。白百合騎士団には、事を起こす場合にはもしもの騒ぎに供えるよう、他言無用で忠告はしてある」
白百合部隊は、王妃と王族のためにある護衛用の部隊である。貴族位の若い青年達で構成され、王妃の直属部隊となっている。
グイードが長椅子にもたれながら、ロイドから視線を離して「ふうん」と両手を頭の後ろに組んだ。
「貴族枠の第三宮廷近衛騎士隊が動くのも珍しいなぁ。ん? アルバート副隊長といえば、アーバンド侯爵の――なるほど。まぁ戦力枠の近衛は、白百合騎士団の方の応援にも回るから仕方ねぇか……白百合の坊ちゃん達は平和脳すぎて、気が抜けてるところがあるからなぁ」
テーブルの上で手を組み合わせていたロイドが、すぅっと目を細めて「調べた件はどうなった」と若干苛立ったようにグイードに話を促した。
グイードは、「あ、忘れてた」と悪びれもなく呟くと、顔だけをロイドへ向けた。
「朗報っすよ、ロイド総隊長。賊の一件で餌を撒いていたグレモリー伯爵が、想定通りに動きました。あいつ、潜り込んでいたモーリス女医に、胸ポケットの香水瓶に『例の毒』が入っているとあっさり教えました。保管場所とルートは不明のままですが、強いアルプの匂いは隠せないから香水と装っているらしいです」
ぐるぐると考えていたレイモンドが、「えッ、香水!?」と声を上げて、勢い良く向かいの席に座るグイードを見た。
「そういう事は先に報告しろよッ」
「いやぁ、うっかりしてたんだって」
その時、ベルアーノが「二人ともやめんか」と口を挟んだ。
「なるほど、『香水』とは上手い偽装だな。血管に直接入らなければ効果が出ない魔法のような毒の性質を考えると、香水として使っても毒の効果が発揮されないから、怪しまれる事もないという事か」
実に出来た話だ、とベルアーノがと掠れた声で言い、片手で目を覆って天井を仰いだ。珍しく「チクショーめ」と悪態を口の中にこぼし、睡魔と闘うように目頭を揉み解す。
レイモンドは、隣のベルアーノの疲弊具合が気になり、苦労を労わるように「大丈夫ですか」と小さく声を掛けた。ベルアーノは顔を向ける力もない様子で、弱々しく首を左右に振った。
「昨日報告を受けた後も、死ぬほど忙しくて眠れなかったんだ。家には使いを出したが、結局帰れなかった……喜々として動き回っている陛下が信じられん」
「俺としても、まさかそんな毒が存在するとは思ってもいませんでした。香水、という形だけでも分かったのなら、まだ絞りやすい、んですか、ね……」
全く自信はないが。むしろヒントもない唐突な案件であるせいで、調べようにも、見当もついていないどころか、今朝一番にもらったばかりの指示だったので絞り込みすら出来ていない状況だ。
朝一番の会議にて、レイモンドは、毒が保管されている場所の特定と確認を指示されて参っていた。
国王陛下に信頼されているのは嬉しいが、今動いている件を疎かにしない状態で、同時に進めろというのは人員も時間も限られる。せめて、ベルアーノにも協力して欲しいというのが、正直なところだ。
しかし、ベルアーノは新毒である【リリスメフィストの蔦】について、ルクシアの研究が少しでも早く進められるよう協力しろと指示を受けていた。宰相として日々の多忙さに加えて、今回の一掃作戦については、情報収集と近衛騎士隊の統括もあるので無理だろう。
レイモンドは思わず項垂れ、「数日で毒の保管場所を絞り込めとか、俺には無理じゃ……」と深々と溜息を吐いた。朝一番の招集に参加していなかったグイードが、他に不明点はないかと思案しながら身じろぎする気配がする。
グイードの隣に腰掛ける、遅れて参加した人物を忘れたかのように、彼らの終わる兆しが見えない会議は続いた。




