十章 進む事態と、揺らぐ心(2)中
マリアは、ヴァンレットから受けた伝言を「必要になったら呼び出す」と解釈し、いつもと同じように、ルクシアの研究私室を目指す事にしてリリーナ達と別れた。
第四王子の私室を出て、来た道を戻るように歩いた。
人の出入りが制限されている奥の宮から離れ、一般回廊に踏み出したところで、人を待つように壁に背を持たれて腕を組んでいる一人の青年がいる事に気付いて、マリアは足を止めた。
「……何してんの、アーシュ?」
そこにいたのは、一見すると眉頭に不服そうな皺を刻んでいるアーシュだった。
マリアは昨日、こちらの手を引いた彼が、女性恐怖症を起こさなかった事を思い起こした。好奇心から確認してみたい気もしたが、あの特殊な状況下で、彼が恐怖症を発生させる余裕すらなかったと考えると「なるほど」と頷けて、上がり掛けた手を下ろした。
アーシュはマリアに気付くと、壁から背を離して「ふん」と顔をそらした。
「別に。通りかかったついでだし、一緒に研究棟まで行ってやろうと思ってな。離宮までの道って案外、今の時間は人の行き来が少ねぇだろ」
「はぁ。つまり気にかけてくれた、と」
「……お前ってホント可愛くねぇよな。ピンポイントで的を射て来るなよ。そこは空気を読んで慎むもんだろうが」
アーシュは「女らしくないやつめ」と苦々しく睨み降ろしたが、諦めたように深い溜息を吐いた。
「お前って妙なところで聡いし、へたに動かれてもあれだからハッキリ言っとくぞ。個人が特定されないよう報告はしたけど、お前は唯一の重要参考人だ。警戒しておいた方がいい」
マリアは少し考え、「なるほど」と相槌を打った。
「分かった。向かってくる奴がいれば叩き潰して引き渡すわ」
マリアは「任せておいて!」と、理解したといわんばかりににっこりと笑い返したが、アーシュが途端に口許を引き攣らせた。
「いや、お前全然分かってねぇよ。つか、その軍人思考おかしくね? メイドなのに脳筋とか……そもそも宰相様もひでぇよな。俺とルクシア様で直接相談したんだけどさ、他に知られていないなら、お前に護衛は必要ないって言うし…………」
それはそうだろう。ベルアーノは、マリアがアーバンド侯爵家の戦闘メイドだと知っている。護衛を必要とするのは非戦闘員向けの処置であるし、露骨に護衛などつければ、何かあると周りに知らしめるようなものだ。
それにしても、ルクシア様まで護衛を付けるよう口にしていたのか?
昨日の賊の一人をマリアが始末した事は、ルクシアも悟っていたはずだ。賢王子と呼ばれる彼が、護衛を付けるリスクについて思い至らないはずがないので、彼がアーシュと共に、ベルアーノに護衛を要請した事は意外だった。
思い返せば、外見が実年齢より幼いルクシアも、まだ十五歳なのだ。賢王子とはいえ、その辺の考えはまだ十五歳らしい子供なのだろう。
「大丈夫よ、アーシュ。毒の件は内密に進められるんだから」
「その呑気な面見てると、こっちが勝手にあたふたしてるみてぇで苛々するな。――でもさ、お前女だろ? その……」
そこで、アーシュが言葉を途切らせた。彼は悩ましげに眉を寄せ、どこか不安そうにマリアを見降ろした。
「……俺はジークから頼まれたけど、お前は勝手に指名されて、無理やり巻き込まれたみたいなもんだろ? 怖くなって通えなくなりそうだとか、そういう悩みが出ているんなら対策も立てるし、俺とルクシア様はお前の味方で、仲間だから……その、急に辞めるとかさ、そういうのは無しにしたいっていうか……」
アーシュは顰め面のまま、珍しく口の中でもごもごと話した。
マリアは、ハッキリとした物言いをしない彼に、思わず首を傾げてしまった。つまり怖がっていると思われているのかと察し、ひとまずは誤解を解いておく事にした。
「怖くはないけど?」
「ぐッ、確かにお前の事だから、女らしい悩みも起こらなそうだなぁとは思うけどッ……。最近は忘れてたけどさ、お前って総隊長様に無理やり引き込まれたみたいだから、無理してるところもあるのかなと思ってさ」
そう言うと、アーシュは気遣う表情を仏頂面で隠し、マリアの返事を待つようにむっつりと口をつぐんだ。
女性恐怖症ではあるが、貴族の男子として女性を大切にする心構えが、アーシュの言葉からは見て取れた。その姿はグイードの姿勢と重なり、マリアの脳裏に、今回の一件に巻き込んでくれた友人達の姿が思い起こされた。
巻き込んでくれたのが、全く知らない赤の他人だったのなら災難でしかないが、ロイド達とは知らない仲ではない。ルクシアの件に関しては、転落死の謎について、マリア自身も純粋に謎解きについて好奇心もあったのだ。
改めて振り返ってみると、友人達に迷惑を掛けられてうんざりする半面、十六年経っても、奴らは相変わらず元気にやっているんだなという感想も浮かぶ。むしろ、全然変わっていなくて心底呆れたぐらいだ。
何度、阿呆だなぁ、と思ったか分からない。
「――そうでもないよ。無理はしていない」
マリアは、ふっと笑みをこぼして、素でそう答えた。
※※※
二人で歩き出してすぐ、情報を共有すべく、アーシュが昨日までの事について、小さな声で話し始めた。
「問題の毒については、今のところ公にせず水面下で進める事になった。実験室でやると勘付かれるかもしれねぇから、機材をルクシア様の研究私室の続き部屋にこっそり持ちこんで――。ああ、それから、原料の入手が難しい『例の花』に関しては、宰相様が考えて下さるそうだ。アルプの根は、昨日の夜のうちに人目がつかないよう採取されているはずだから、もう届けられているかもしれねぇな」
アーシュとルクシアは昨日、宰相のベルアーノから、軍がガーウィン卿の件について慎重に動いていると忠告説明されたらしい。
ベルアーノは、報告を持って来た二人に、『転落死したメイドの件に関しては毒などではなく、ルクシアは次の学会に発表する論文に取りかかっている』と表上は装い動くよう指示し、今後の研究に関しては、宰相と連携を取って慎重に進められる事も決められていた。
ルクシアの元に、文官とメイドが訪ねている現状について、アーシュが個人的に相談すると、ベルアーノはこう言ったらしい。
――第三王子は人嫌いで、出歩く姿もほとんど見掛けない賢王子として知られている。あまり人を寄せつけない彼の研究私室に、毎日のように助っ人に招かれている二十歳の文官と十六歳のメイドが、もうしばらく通ったとしても違和感を持たれないだろう。聞いた話では、周りからは友人同士だと見られているようだぞ?
つまり、今すぐに行動を変えなければならないような指示は一切もらわなかった、とアーシュは語った。
「……そういえば、ルクシア様って『引きこもりで人嫌い』だったわね。忘れてたわ」
「そういや、お前ってここに来て日が浅んだったな。俺もうっかり忘れてたけど、確か噂では……研究棟に護衛兼世話係が押し掛けた時には、長々と説教して門前払い、陛下の紹介で入った助手も二日目でクビにしたって聞いたな」
マリアは、出会い頭に冷やかな眼差しを受け事を思い出したが、あのルクシアが、長時間の説教攻撃を行い、二日も交流を持った人間をクビにする、という過激な行動は想像出来なかった。
「本人を前にすると、あまり想像がつかないわね。『噂』ってあてにならないところもあるし」
「そうだよな。むしろ、ジークよりも断然優しいし。……うーん、俺は『引き続き』って宰相様に指示されたけど、お前の方は総隊長様の判断になるし――どうなるんだろうなぁ」
そこで一度言葉を切り、アーシュは視線をそらした。彼は「俺とルクシア様で、意見書でも提出すればどうにかならねぇかな」と頭をガリガリかいたが、ふと、思い出したように苦笑を浮かべた。
「そういえば昨日、お前が帰った後にさ。なんか三人でいると、学生寮で男友達が集まってるみたいな感じで気が楽だよなって、ルクシア様と話してたんだ。俺としてもさ、文官兼助手でもいいかなって思えるぐらいに、今の環境が気に入ってる」
「へぇ。文官兼助手、良いんじゃない?」
マリアは、想像してニヤリと口角を引き上げた。記憶力の他にも、勉学に対してアーシュは優秀だと最近は気付いていたので、彼も才能を活かせるだろうし、助手になったとしたらルクシアも喜ぶだろうと思えた。
すると、アーシュが顔を顰め、なんで伝わらないのかと呆れるような眼差しをマリアに寄越した。
「『今の環境』には、お前もしっかり含まれてるんだぜ」
「それは光栄ね。アーシュにとって初の女友達なんじゃない?」
マリアは、茶化すように友人という表現を使ったが、アーシュは否定もせず「俺だって女友達はいるからな」と普段の表情で言い、指折り上げていった。
「一番目は幼馴染だろ、二番目は弟の婚約者。んで、後はジークんとこにいるメイドだな。そこにお前を含めると、全部で四人はいる事になる」
「お~、マジで友人認定なのか」
「おい、女が『マジで』なんて言葉を使うなよ。なんだ、悪ぃのか? あ~、なんでお前って、こっちのメイドじゃないんだろうなぁ」
アーシュはそうぼやいた後、自分はルクシアを手伝いつつ論文に必要な残りの資料をまとめる事をメインに動き、マリアは必要な本を調達するため図書資料館を往復する事になりそうだ、とも話した。
この数日間で、すっかり歩き慣れた公共回廊を歩いていたマリアは、ふと、後方が騒がしくなった事に気付いて肩越しに振り返った。回廊内に広がるざわめきを聞いて、アーシュもそちらへ目を向けた。
「なんだ……? またどっかの軍人でもあばれてんのか?」
「さぁ……」
というか、日常的に軍人が問題を起こす事が当然のようになっているのも、どうかとは思うが……
そこも十六年前から変わってないんだよな、とマリアは遠い目をしたが、騒ぎの方向から聞こえてくる雄叫びが聞こえた瞬間、ギクリとして思考が停止した。
気のせいか、物凄く聞き覚えのある声に嫌な予感が込み上げる。
思わず立ち止まって視線を巡らせると、同じように身動きをやめて振り返る人々の向こうに、――まっすぐこちらを射抜く猪突猛進な友人の茶色い瞳と、バッチリ目が合った。
「親友よぉぉおおおおおおおおおおおお!」
そこにいたのは、ジーンだった。マリアが目を合わせた途端、彼は嬉々として「ははっ、俺の親友レーダーに狂いはないぜ」と、俄然走る速度を上げた。
ジーンは、見る者が危険を感じ、本能的に道を開けるほどの迫力を顔に刻んで、高位な役職を示す運動には全く不向きなゆったりとした正装のまま「うぉぉぉおお!」と雄叫びをあげて、こちらに向かって猛進して来る。
お前かよ! というか、やめろ、少しは人目を考えろ!
いや、もしかしたら他にも、彼が親友としている人間がいるのかもしれない。マリアは都合良く考えて、少しの間だけ現実逃避してしまいそうになったが、ジーンはあっという間に迫ると、一切足を止める事なく攫うように彼女を脇腹に抱え、そのまま逃走した。
嵐のような一部始終に直面してしまったアーシュが、周りのざわめきを聞きながら茫然と佇んだ。
「……え、はぁぁぁああ!? というか、マリアをどこへ――っていうかあれ、大臣だったよな!?」
すぐに我に返ったアーシュが、慌ててジーンを追い走り出した。
軽々と攫われたマリアも、突然の事に「はぁ!?」と声を上げた。脇腹にしっかり抱えられたまま、素早く友人の横顔を見上げる。
こちらを見もしないジーンに、マリアは「おいコラッ」と自分を拘束する腕を叩いた。すると、気付いたジーンが視線を返し、浅い無精髭には不似合いなほど爽やかな様子で「よっ」と挨拶して、悪戯好きの笑顔を見せた。
「『よっ』じゃないだろう! いきなり何をするんだッ、お前は!」
「いやぁ数日振りだな、親友よッ、会いたかったぜ! つか、今のお前すげぇ抱えやすいサイズで助かるわぁ。こう、腕にしっくりはまる感じ?」
「何言ってんだ、ぶっ飛ばすぞ阿呆ッ」
「ははははははっ。あれ? そういや、お前の隣にいたガキって……」
ジーンが、しばし首を捻った。そして、ようやく思い至った、と言わんばかりに呑気な表情で一つ頷いた。
「――ああ、あれか。例の文官アーシュ君」
「反応が遅すぎる! というか一体何の用なんだよ、まず、あいつにどう説明するつもりだ!?」
「普通に友人だって言やぁいいじゃん」
そこで、ジーンは必死に自分に追いついたアーシュに気付いて、視線を流し向けた。
「こんにちは、アーシュ君。宰相からは『例の調査』の事は聞いてるよ~」
「ッ大臣様、失礼ですが何故マリアを!?」
「ははははは、落ち着けって青年。俺ら、こう見えて友達なの。ほら、超仲良しじゃん?」
「は~な~せ~~~~ッ!」
「嫌がってるようにしか見えませんが!?」
ジーンに促され、一度マリアの様子を律儀に確認してアーシュが、「何言ってんだこのおっさんッ」と言う目をジーンに戻した。
「いやぁ、時間がなくってさぁ。まさか連れがいるなんて思わなかったし? 後でちゃんと返すからさ、アーシュ君は先に、ルクシア様んところに行ってくれてもいいんだぜ。あれだ、本題をずらすんならマリアがうってつけだろ?」
意味が分からず、マリアは、悪びれもなくカラカラと楽しそうに笑うジーンを、訝しげに見上げていた。
すると、不意にジーンが、確認するように一度後方を見やり、それから前方へ視線を戻しながらへらりと笑った。その横顔が、レイモンドを巻き込むグイードに重なって、マリアは猛烈に嫌な予感を覚えた。
「いやぁマジで助かった、お前って唯一のロイド避けだし? うん、俺って確かに参謀型だけどさ、打ち明けられない事も沢山あるわけよ。なのに元少年魔王ときたら、平気でこじ開けようとしてくんだもん。俺、困っちゃう」
台詞は可愛らしくまとめられているが、中年紳士が幼子を気取っても、全く可愛くない。
「ッ阿呆か! 訳のわからない事に巻き込むなッ、今すぐ降ろしやがれ!」
「マリア口悪ぃぞッ、相手は大臣様だからな!? というか大臣様、それは一体どういう――」
その時、硬化な物質が破壊される音が回廊に響き渡り、ざわついていた回廊が一気に静まり返った。
ジーンが背後も振り返らず、「お~、もうここまで来ちまったか」と陽気にぼやいた。マリアとアーシュは、恐る恐るそちらへと目を向けて、場を支配した静寂と緊張感の元凶を知った。
割れた人垣の向こうに、鞘のままの剣で床を叩き割ったロイドがいた。
ロイドは完全に殺気立っており、その美貌がより映えるような絶対零度の空気をまとっていた。剣を引き上げながらゆらりと身を起こした彼の、今にも射殺さんばかりの視線とぶつかり、マリアは思わず「おっふ」と声を上げてしまった。
彼を見るのは、押し倒されるという事件以来だったが、以前ベルアーノの執務室で見た以上に怒っている事は察せた。
思い返せば、ジーンはある意味怖いもの知らずなところがあり、ロイドが少年師団長だった時代から、平気で普段の口調のまま話していた。ニールのような全く空気を読まない人間ではないが、特にグイードとコンビを組むと最悪だった。彼とグイードが、揃って少年師団長を怒らせた事は数えきれないほどあり、そのたびに、オブライトとレイモンドが巻き込まれる事が多々あったわけで……
ジーンの奴は、今度は一体何をしたんだろうかと、マリアは嫌な汗を覚えた。
 




