十章 進む事態と、揺らぐ心(2)上
ルクシアに毒の話を打ち明けた後、マリアは、結局リリーナと合流するまでに心の整理がつけられず、無理やり笑顔を取り繕って、どうにかその日を過ごし終えた。
ベッドに入ってからもずっと、どうするべきかを考えていた。
それでも、やはり一番心が乱された記憶の核心に触れるのは苦しくて、自分らしくない感情に呑まれそうになったマリアは、無理やり目を閉じて眠りについた。
※※※
翌日、マリアは、普段よりも早い時間に目が覚めた。
睡眠を取ったおかげか、頭はどこかすっきりとしていた。ベッドを下りた彼女は、いつものようにすぐ身支度には取りかからず、引き寄せられるように鏡の前に立ち、リボンもしていない今世の自分の姿を見据えた。
鏡の中に佇む少女は、長いダーク・ブラウンの髪で耳も隠れており、何だかしおらしい普通の娘のように思えた。就寝用の薄着から覗く華奢で細い手足は頼りなく、ささやかながらにある胸の膨らみが、谷間に影を落としている。
オブライトとは違う少女の姿を目に止めていると、やはりマリアとして関わるべきではないのだろう、と客観的に理解する事は出来た。
ガーウィン卿は、国で正しく裁かれるべき……なのだろう。
それを自分自身が納得しているかは分からないが、深く考えると動けなくなる性分だと分かってもいたから、この件に関しては、身を引くのが正しいのではないかとも思えた。
そもそも、当時の記憶に隠された感情まで掘り返してしまえば、とてもではないが冷静ではいられない。
十六年経った今も整理が付かないからこそ、知らない振りをしているのだ。テレーサがどれほど優しい人であったのか、どういった覚悟の元で生きていたのか……誰かに知って欲しいと思いながらも、まだ話せる覚悟もないのだ。
オブライトは、穏やかな空気や時間の流れが好きだった。
こんな醜い感情なんて知りたくなかったと、ずっと知らない振りをしながら、心の底ではそう思っていた。
マリアは、オブライトであった頃と同じように、渦巻く感情と記憶に蓋をした。いつものメイド服に着替え、最後はリボンで髪を整える。そうやって普段の自分に仕上げると、不思議と気持ちも落ち着いて来た。
「大丈夫。深く考えないわ、事細かく思い出さない……私は『マリア』だもの」
鏡に映った少女と手を合わせ、自分に言い聞かせるようにそう唱えた。
大きな水色の瞳が切なそうに細められて、マリアは、鏡に額を押し付けた。これまでと同じように、その感情と情景さえ閉じ込めてしまえば平気でいられるからと、時間を掛けて、それらを心の奥底へと隠した。
※※※
深く考えないという、元来のモットーは効果が出るのも早かった。昨日よりも軽くなった足取りで仕事に取りかかれば、いつもの調子が戻って来る。
使用人仲間達に「昨日は調子が悪かったみたいだけど大丈夫?」と聞かれても、マリアは笑って「平気よ」と穏やかな気持ちで答える事が出来た。そうして、朝一番にはリリーナとサリーと共に、迎えの馬車に乗り込んだ。
マリアは馬車の中で、リリーナを揃えた足の上に乗せた。
クリストファーとのダンスの練習について、嬉しそうに語るリリーナは非常に愛らしく、マリアは堪らず「可愛い可愛い」と抱き締めた。サリーがそれを眺めて、どこかほっとしたように「元気になって良かった」と微笑んでいた。
王宮でマリア達を出迎えてくれたのは、宰相のベルアーノだった。ひどく疲れ切った様子の彼は、どうにか笑みを張り付かせている状態だった。
案内されている道中、マリアは、何かあったのかと目で問い掛けた。ベルアーノは、ちらりと視線を返しすと「ルクシア様から、例の毒について報告を受けてな」と、周りに聞こえない声量で悩ましげに呟いた。かなり多忙を強いられているのか、声にも疲労が滲んでいた。
そういえば、あの毒をジーン達も追っていると言っていたな。
今朝まで自分の事で精いっぱいだったマリアは、あの日以来、顔を見掛けていない友人について遅れて思い起こした。
急な事だったから、ジーンも大変だったに違いない。数日前に思わぬ形で再会したニールは、『自分は大臣の手駒』と言っていたので、彼もめいいっぱい手伝わせられたのかもしれない。
マリアは、リリーナやサリーと共に、真っ直ぐ第四王子の私室に案内された。
第四王子クリストファーの私室には、護衛騎士としてヴァンレットが待機していた。ベルアーノは、リリーナがクリストファーと挨拶する様子を目に止めてすぐ、「後は頼む」とマリアに耳打ちし、早々に出て行ってしまった。
幼い二人は、挨拶を済ませてすぐ、本日のリボンについて可愛らしい会話を繰り広げ始めた。互いに見せ合い、お揃いのリボンを褒めて頬を染める。
マリアは先日の今日で気掛かりがあり、そこをサリーに任せて、情報収集すべくヴァンレットの隣に移動した。
「ベルアーノさん、忙しそうでしたね。何か聞いてますか?」
「びっくりする毒があったと朝から騒いでいたから、そのせいではないだろうか」
難しい話は分からないし、理解もしていない。一見してそう分かる呑気な表情で、ヴァンレットが朗らかにそう言いきった。
恐らく彼を含めたメンバーで臨時の会議が行われ、例の毒について報告がされたのだとは察せた。しかし、ヴァンレットが詳細内容について覚えている可能性はゼロに近く、マリアは、どんな話し合いが行われたのかという状況把握については諦めた。
クリストファーとリリーナが、リボンの話題に続き、先日習ったダンスのステップを踏む様子を微笑ましげに眺めながら、マリアは、現状について整理した。
例の毒については、昨日、自分が知っている全てを話し尽くした。ルクシアやアーシュの報告に不備はないだろうから、情報は正しく行き届いているだろう。
情報提供者を守るため、毒の報告に関しては個人名を伏せてくれているとも推測される。しかし、直前の賊の騒動で、モルツとレイモンドには会っているので、情報の提供元がマリアであると知られている可能性はあった。
マリアの身元は、アーバンド侯爵家が保証してくれているので強く疑われる事はないとはいえ、たった一人の少女の証言である事に変わりはない。個人的に、再度説明を求められる事も想定しておかなければならないかもしれない。
先日受けたショックの余韻が完全に拭えていないので、出来る事なら、追及されたくはないとは思う。その可能性を完全に潰すとしたなら、ロイド達に会わないよう策を取るべきだが……それは難しいだろう。
ロイドから呼び出されなくなって、もう三日が経っている。
このタイミングなので、必ず会わなければならないだろう。何故なら今回の協力依頼は、転落死したメイドを追うルクシアの動向を、探りつつも護衛し、周囲に怪しい動きがないか見る事だったからだ。
直接ルクシアと接触し、協力体制を取った事で、マリア達は早々に彼の目的を把握した。そして昨日、彼が追っていた毒の正体が、【リリスメフィストの蔦】であるとも分かった。
今後、ルクシアは【リリスメフィストの蔦】に絞って調査と研究を進めるだろう。問題が大きいだけに、恐らく宰相あたりと協力体制を取り、国王陛下と軍の動きを邪魔しないよう本格的に稼働するはずなので、相応の護衛も配置される。
つまり、当初の目的がほぼ完了した今、ガーウィン卿の件に関わっていないマリアが、ロイド達に協力を続ける理由はなくなっていた。
明らかに王宮のメイドでないマリアの恰好も、ここでは目立つだろう。ずっと協力させるには、少々都合が悪い。
ロイドは無駄な仕事はしない男なので、そう考えると、次が最後の報告会になるのかもしれない。そこで毒の件について触れられなければ、マリアにとって、もっとも良い形でこの仕事は終わる事になるのだろう。
後は全て、彼らに任せるしかないのだ。今のマリアには何も出来ないし、する資格もない。
そう考えて、マリアは、知らず拳を握りしめていた。
本当は、もし、許されるとしたならば。
あの日の時間に戻れるとしたならば、オブライトは……
不意に、強い感情が込み上げそうになった。マリアは、もう取り返しのつかない過去の話だと自身を抑え込んだ。きちんと見切りをつけて、これまでマリアとして、十六年生きて来たはずではないか。
「これで良かったのよ。……私は、そろそろ役目から外される」
それだけの話だ。元の生活に戻るだけ。今の立場から解放されれば、きっと以前のように心乱されない日々に戻れるだろう。そう無理やり開き直ってみると、少しだけ胸が軽くなるような気もする。
隣にいたヴァンレットに「何が?」と聞かれたので、マリアは「独り言ですわ」と取り繕い、愛想笑いの下で心を落ち着けた。
マリアは、アーバンド侯爵家の戦闘メイドだ。
許される限りリリーナのそばにいて、主人達の屋敷を守るのが役目である。アーバンド侯爵家が現在関わっている『仕事』で、今の状況があるというだけで、本来であればなかった『協力』なのだ。
オブライトであった時、アヴェインに伝えられなかった毒について、その子供であるルクシアに託せた。テレーサの仇が罰せられる事も知れて――……
これで良かったのだと、思えなければならないだろう。
※※※
しばらくすると、クリストファーとリリーナの、ダンスの講師が到着したと知らせがあった。
ヴァンレットと同じ近衛騎士隊の隊長のバッジを付けた男がやって来たのは、クリストファーとリリーナが、メイド達の手によって出る支度を始めてすぐの事だった。
「宮廷第四近衛騎士隊、隊長のアロー・ウィリアムスと申します。本日より、ヴァンレットと共に専属として、クリストファー様の護衛にあたらせて頂きます」
アローと名乗った男は三十代中頃ぐらいで、癖のない淡いヴラウンの髪に、頼りない光りを灯した濃い灰色の穏やかな瞳をしていた。軍人というよりは、学者か司祭のような雰囲気を持った男だ。
オブライト時代にも見た事がない顔だったが、グイードの斜め上にぶっ飛んだ妄想の哀れな被害者として、最近名を聞いた覚えがあった。マリアは思わず「彼が例のアローか」と、不躾にもまじまじと見てしまった。
既にアローとは顔見知りだったらしいクリストファーが、リリーナに改めてアローを紹介した。リリーナが、令嬢として礼儀正しくアローに自己紹介を行い、サリーと、続けてマリアについても順に紹介した。
専属のメイドだと紹介されてすぐ、アローが、マリアの頭のリボンに目を止めた。
「ああ、君が例のメイドか」
彼は視線をそこに固定したまま、正しく理解したと言わんばかりに肯いた。どこかのんびりとしたアローの視線と発言に、マリアは、久しぶりに愛想笑いのまま沈黙してしまった。
おいコラ、どこを見て人を判断してんだ。失礼すぎるぞ。
アローは頭の中を整理しているのか、マリアが冷やかな愛想笑いを真っすぐ向けても気付かず、特にこれといった悪意もない目をリボンに向けたまま、思案する声で「よろしく」と呟いた。
まるで『リボンが本体』のような扱いに、マリアは複雑な心境を覚えた。
彼の眼差しに意図的な意味合いがないのは分かるので、初めてのパターンとはいえ、完全にリボンだけで人物判断をされている訳ではなさそうだ。しかし、妙な方向に勘違いしてしまいそうになるので、リボンに目を止めたまま考え事をしないで欲しい、とも思った。
アヴェインもロイドも、大事な時期は特に信頼している人間にしか重要なポジションを任せないので、恐らくアローが言う『例の』とは、マリアが、ルクシアの件に関わっている事だとは推測出来る。
ヴァンレットも近衛騎士隊の隊長であるし、どうやら毒の正体が判明した一件で、クリストファーの護衛は、今日から近衛騎士隊が専任する事になったのだろう。
マリアはそう考える事で、リボンに対する新しい疑念を振り払おうとした。
これまで考えた事もなかった悩ましい可能性だが、まさか、リボンを解いたら誰もマリアが分からなくなる、なんて事はない、はず……
「マリア、お勉強頑張ってね」
これからダンスの授業に向かうリリーナが、マリアのスカートの裾をつまんでそう言った。
そういえば、リリーナ達にはそういう認識になっているのだったな、とマリアは改めて思い起こしながら「はい」と笑顔で答えた。思い返せばリリーナは、マリアが髪をセットしていなくても間違えた事はなかった。これは、安堵すべき喜ばしい事実である。
そう自己解決して立ち直ったところで、マリアは、新しい疑問に気付かされた。
毒の正体が判明した今、昨日と同じように、そのままルクシアの研究私室に向かっていいものだろうか。それとも朝一番に、どこか別の場所で話でも聞かされるのだろうか。段取りの方は、一体どうなっているのだろう?
指示を仰ぐようにちらりと目をやると、アローが途端に、戸惑ったような眼差しをヴァンレットへ向けた。
どうやら、マリアの行動指示について伝言を受け取っているのは、ヴァンレットらしい。確かに朝一番に出会うメンバーではあるが、マリアは、なんでヴァンレットにしたのかな、と額に手をあてた。
「……ヴァンレット様、私の事で、何か聞いておりませんか?」
「ん? ああ、そういえば、都合が整ったら迎えを寄越すかも、と聞いたように思う」
思うってなんだよ、しかも『かも』なんて曖昧な指示を出す奴は絶対にいないからな。
マリアが心底呆れて半眼で睨み見上げると、ヴァンレットが、きょとんとした表情のまま、首をゆっくりと右へ傾けた。アローが悩ましげに視線をそらし、「僕が聞いておけば良かったかな」と口の中で呟いた。




