十章 進む事態と、揺らぐ心(1)
昨日の賊の件で疲労が溜まっていたせいか、レイモンドは目覚めて早々、鈍い頭痛に悩まされて身体を起こした。
頭を起こし上げた一瞬、目覚める直前まで見ていた懐かしい情景が遠ざかっていき、目の奥がチカチカした。久しぶりに、馬鹿みたいに走り回っていた若い頃の夢を見たなと、思わず前髪をくしゃりとしながらかき上げた。
十六年前に死んだ【黒騎士】は、レイモンドの大事な友人だった。
初の登城で迷子になったらしい彼との出会いは、状況が特殊だっただけに、今でも印象的に記憶に残っている。
若きレイモンドは、どう反応して良いか分からず「もしかして迷子か……?」と尋ね、茂みに落ちていた彼は体中に葉っぱを付けたまま、レイモンドと同じ表情をして「多分、迷子なんだろうなぁ」と困ったようにぼやいた。
気が合いそうだなと思って手を差し出したのが、オブライトとレイモンドの初めての接触だった。彼がジーンの友人だと知って、一体何がどうなってそこにいたのか、という経緯を歩きながら訊いた事を覚えている。
その原因を作ったのは、当時まだオブライトと知り合ってもいなかったグイードだった。
オブライトはあの時、突然飛んで来たソファに押され、窓から外に放り出されたので何が起こったのか分からない様子だったが、レイモンドは彼の話から状況を察して「またあいつかよッ」と頭を抱えた。
迷惑な人物について説明しようとした矢先、ジーンが新しい騒ぎを後方に引き連れて「親友よ!」と笑顔で走って来た。ジーンは「さっきは見失っちまってごめん。もうちょっと付き合って?」と言い、レイモンドとオブライトは、訳が分からないまま一緒に走らされたのだ。
思い返せば出会い早々から、レイモンドはオブライトと、巻き込まれる苦労を誰よりも多く分かち合って来たような気がする。
一人、二人と、階級も出身も、所属部隊も飛び越えた友人達が集まり始め、実に騒がしい日々だった。血生臭く落ち着かない時代ではあったが、若さもあったのか、生きる事が辛いというような苦労は感じていなかったように思う。
友人であった国王陛下に「今すぐ行って来い」とニヤけ顔で一方的に指示され、部隊が違うにも関わらずそのメンバーで仕事にあたる事もあった。
――親友よ、見事に軍服の統一感がないせいで『敵さん』が絶賛動揺中だぜ。
――まぁ、そうなるだろうなぁ。
――だから俺、お前らに言ったろ? 沢山余ってるし『上着だけでもうちの部隊のやつで揃えようぜ』って。
――貴様らは緊張感がなさすぎるぞッ! いいかグイード、このポルペオ・ポルー、他部隊には跪かないからな!
――ははっ、その眼鏡叩き割って、今すぐヅラを引き剥がしてやりたいわぁ。
――僕も、騎馬隊のは美しくないから着たくな~い。
――俺としてはさ、なんでお前らみたいな凶暴な双子が司書枠なのか、心底不思議でならないんだが……
次から次へと思い起こされる過去の光景を拭うべく、しばし眉間の皺を伸ばしていたレイモンドは、妻のフィリナがまどろむように目を開けた事に気付いて、ハッとした。
「あなた、どうかされました……?」
「――いや、なんでもないよ」
レイモンドは、妻の額にキスを落とし「もう少し寝ているといい」と声を掛けると、身支度を整えて静かに部屋を出た。
※※※
夜明け前の起床は、もうすっかり身体に沁みついた習慣だった。
レイモンドの一日は、白み始めた空を眺めながら珈琲を飲み、今日の仕事の予定を確認するべく頭で組み立てる事から始まる。
普段であれば、こうして考える事で少しは心の整理もある程度はつくのだが、昨日賊が出た件については収拾がつかないでいた。昨日の僅かの間、レイモンドの意識は、完全に懐かしい過去に戻っていたのだ。
冷静ではなかったといえ、隣を走っているのが、かつての自分の友人であるとまで錯覚しきっていた。
ほとんどパニックになっていたから、あの時、自分がどんな事を口走ったのか、どんな会話が飛び交っていたのかは、正確には覚えていない。
それでも、レイモンドとかつての友人達でしか知りえない内容であった事は、理解していた。
――「野郎、させるか!」
あの時、吐き捨てるように叫ぶ声を聞いたレイモンドは、仕事を増やされては堪らないという顔をした友人の顔を思い浮かべてさえいた。
ああ、いつも苦労してるよなぁ、と目をやった先に、華奢な少女の背中で揺れるブラウンの長い髪を見て――ようやく我に返った。あの当時を錯覚していた自分に気付いて、レイモンドは酷く動揺した。
そう気付いたにも関わらず、真っ直ぐ前を見据える少女の青空色の瞳が、濁った赤だと嘲笑されていた友人のそれに重なった。
一気に離れていく彼女の背中を見て、切れたら鉄砲玉のように飛んでいく、かつての友人が思い起こされたが、レイモンドは彼女の行動力にも驚かされながらも、少し冷静になった頭でどうにか「マリア!」と制止の声を上げた。
初めて出会った時、ロイドから逃げるべく走っていた彼女を忘れていた訳ではないが、まさか、自分達を軽々と追い抜くほどだとは思ってもいなかった。
慌てて追いかけ出した矢先、普段は可愛らしいマリアの声が、「剣を貸せ!」と低く怒号するのを聞いた。
護身術の達人だとモルツには聞いていたが、躊躇なく騒ぎに突っ込んでいく少女の姿には、正直頭痛を覚えた。
色々と規格外なメイドだと思ってはいたが、ここまでじゃじゃ馬だとは思わなかった。彼女は侯爵家のメイドである。まだ結婚もしていない少女でもあるので、怪我でもされたら大変だと、騎馬総帥であるレイモンドの思考が警鐘を鳴らした。
「モルツ! 先にマリアを押さえて来い!」
「無理です。余裕がありません」
「おいッ、きれいに揃えた片手で眼鏡の位置を戻しながら言う台詞じゃないだろ! 余裕がなくなる時は、指も揃えくなるのは知ってるぞ!」
モルツの足であればマリアに追い付けるはずだったが、彼が非協力的だった事も、レイモンドの頭痛を増やした。
そうしている間に、マリアが足を止める事なく一瞬で敵の首を切り裂いた。
無駄も躊躇もない動きに目を瞠りつつも、レイモンドは、急く思いで目の前の敵を切り捨てた。どこか余裕すら感じさせるように、モルツが「最近の若者は腕が落ちていますね」と別の賊を絶命させ、レイモンドにぴったりと並ぶようなタイミングで走り出した時――
彼女が迷うことなく剣を捨てたのを見て、レイモンドは更に驚いた。
無駄のなかった先程の剣の構え方と、特徴のある闘い方が、僅かな差もなくかつての友人、オブライトのものに重なった。グイードがいつも「騎士としてアウトだって。剣は誇りなんだぞ、捨てんなッ」と指摘していた事が思い出された。
「それはこっちの台詞だ、この阿呆!」
マリアは、他の女子が見たら腰を抜かすだろう台詞を言い放ち、身一つで自分よりも大きな男を倒した。レイモンドは時折、彼女の口の悪さには軽くショックを覚えていたが――
オブライトも口癖のように「阿呆」と使っていた事を、遅れて思い出した。
これまでのマリアの行動を思い返すと、言いようのない違和感が、頭の中をぐるぐると回った。アーシュに説教をしていた台詞を思い返すと、オブライトが言いそうな言葉だとも思えて、――訳が分からなくなった。
年相応に震え出したと思った矢先、ガーウィン卿の声を聞いた途端、マリアが気圧されるような殺気をまとい始めた様子も、脳裏に焼き付いて離れないでいる。
以前ガーウィン卿の名前を出された時、全く思い当たる節がないという顔をしていたはずなのに……
※※※
結局、朝一番で頭の整理がつかなかったレイモンドは、王宮へ向かう馬車の中で再び頭を抱え、どうしよう、と呟いた。
同じ場所にいたはずのモルツは、賊の騒動に関するマリアの一連の行動と言動については一切触れていな。かなりの変態とはいえ、友人達の中では頭の切れる男である彼が、あまりにも普通にしているので、レイモンドも質問のタイミングを逃してしまっていた。
「いや、質問するとなると、それはそれで難しいんだが……」
そもそも、どう訊けばいいんだ?
レイモンドは、一番目に考えるべきだった問題にぶち当たった。自分に語彙力がない事は知っている。考えがまとまらない今、感じている疑問をそのまま彼なりに言葉にすると「よく分からんが、オブライトっぽいところがないか?」となる。
そんな事を口にしたら、ヴァンレット並みに馬鹿になったのかと疑いの眼差しを向けられそうな気がする。
「…………」
いや、確実に向けられる未来が容易に想像出来た。
グイードは相談に乗ってくれるようなタイプじゃないし、「疲れているのか、そうか」と適当に流されるに決まっている。モルツは、現実的な事と趣味の他は感心を向けない男だ。ヴァンレットは思考回路の構造がおかしいので、相談したらこっちの気が狂いそうになる。
残るあては、オブライトをよく知るジーンだろうか。
面白い事が大好きなうえ、わざと騒動に火種を投じるような男であるので、ジーンに言ったとしたら大笑いされ、しばらくは酒のネタにされそうな予感もある。こちらに関しては、慎重に考えたうえで相談するしかない。
ああ、どうしたらいいのかまるで分からない。
「畜生、俺の周りには相談に乗ってくれそうな、まともな奴はいないのか……」
レイモンドは、どうしたものかと頭を抱えて呻いた。思い返せば、いつもまともに話を聞いてくれて、同じ感性でものを答えてくれていたのは、オブライトだけだった。
結婚した二年目にして、ようやく妻が妊娠した喜びについて話した時は、「産まれたら是非抱かせてくれ」と自分の事のように喜んでくれた。頬をつついて抱き上げるのだと、まだまだ先の未来について微笑み語っていた、優しい友人だった。
この戦いが終わったら出産祝いを持って会いに行くよ、――オブライトは、レイモンドにそう言い残し、永遠に帰らぬ人となった。
戦場で遺体が発見された時、オブライトが抜刀していなかった事が、当時は揉めた。彼は抵抗した痕跡一つなく、猛毒が塗られた短剣を腹に真っ直ぐ受けて絶命していた。
ヴァンレットが泣きじゃくり、お調子者だったニールがピタリと悪戯を止めて、淡々と与えられる仕事をこなした。普段は騒がしい黒騎士部隊の他の面々も、不気味なほど静かにしていた。
――叶うならもう一度、あの四人組の新しい武勇伝が聞きたかったなぁ。
――俺さ、隊長と副隊長が、揃って暴れてる背中を見るのが好きだったんだ。
――ニールも、『もう一度二人の背中を追っかけて戦いたい』って言ってたよな。
――畜生、誰も死ぬなって言ってたのに、なんで隊長だけが死んじゃうんだよ……
友人の名を思い浮かべるほどに、辛い過去の記憶まで次々と引っ張り出されて、レイモンドは気分が沈んでいくのが分かった。黒騎士部隊の隊員達のそんなやりとりを、彼は何度も見掛けていた。
馬車が停まった事に気付いて、レイモンドは過去の情景を抑え込むように、眉間に出来た皺を親指でぐりぐりと押した。
今は、目先の問題に集中しよう。
やるべき事が多く待っているのだからと、レイモンドは、馬車を降りながらそう決意を改めた。昔から深く難しい事を考えるのは苦手で、複数を同時に考える器用さもない事は、友人達からも聞かされて知っていた。
どうしても考えてしまうようだったら、その時は、ジーンに相談してみよう。
この直後に緊急招集を受け、そこで衝撃的な内容と指示を与えられ、しばらくマリアの件を考える余裕がないほど頭を悩ませる事になろうとは、この時のレイモンドは、予想もしていなかった。