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九章 その毒の名は(4)上

 友人達が語るような、燃えるような恋は知らない。


 焦がれ狂いそうなほどの恋や、葛藤や嫉妬を抱えて強く求めるような恋。一分一秒も離れがたいとするような激しい恋や、理性よりも感情が勝るような熱い恋も知らない。


 オブライトにとって、それは優しくて暖かで、穏やかな『恋』だった。


              ※


 出会った時、彼女は二十三歳、オブライトは二十六歳だった。


 テレーサは、オブライトが一人でいると行く先々に現れた。自慢の黒髪をいつも背中に流し、年下とは思えないほど仕草も大人びていたが、勝手にオブライトの手を取り、半ば強引に町中を連れ回すような一面も持っていた。


 オブライトは嫌ともいわず、いつもテレーサに付き合った。


 彼女と過ごす二人きりの時間は不思議と心地が良くて、気付くと、自分から声を掛けるようになっていた。過ぎていく季節ごとに、彼女との思い出が増えた。



 そうやって、二人が出会ってから一年が過ぎようとしていたある夜、いつものように彼女を部屋まで送り届けたオブライトは、唐突に、テレーサに胸元を掴まれて引き寄せられた。


 前屈みになったオブライトは、目を丸くして、近い距離にある彼女の漆黒の瞳を見つめ返した。テレーサの眉間には珍しく皺が寄っており、何か怒らせるような事を口にしただろうか、と彼は悩んだ。


 すると、ぐっと彼女の顔が近づいて来て、ほんの一瞬、触れる程度の口付けがされたかと思うと、すぐに離れていった。オブライトが呆気にとられていると、テレーサがどこか悲しそうに微笑んで「おやすみなさい」と部屋に戻っていった。


 数日間、触れられた唇の感触を思い起こしていた。


 ふと唐突に、最近の彼女が自分に向けて来る感情と、自分が彼女に抱いている親愛よりも暖かい感情の名前に気付いた。



 ああ、俺は、彼女が好きだ。



 唯一彼女の事を知っていたジーンに、「好きなら花でも買ってやれよ」とアドバイスされて、執務室から外へ放り出された。オブライトは、初めて町の花屋を訪れて、そこで小さな花束を買った。


 今日、好きだと打ち明てみようかと、そう思っていた。


 しかし、彼女の部屋からこぼれる複数の声に、扉をノックしようとした手が止まった。そこから聞こえた話の内容を理解して、これまでの彼女の苦しみと努力を知って、手に花束を持ったまま立ち尽くした。


 

――これ以上ヘマをするようなら弟を殺すぞ。


 

 特徴的な濁声がテレーサに告げた。彼女は強気な声で、相手が舌を巻くほどの嘘を塗り固めて言い返し、弟の解放の約束を改めて確認して取り付けてから、最後の仕事の指示を受け入れた。


 花束を、どうしたのか覚えていない。


 戻った時、執務室では引き続き書類業務にあたっているジーンがいて、「どうだった?」と訊かれた。


「――花は喜んでくれたけど、告白は、まだだ。次の機会を窺うよ」


 オブライトは、いつもみたいに困ったように微笑んで見せた。答えながら、自分はこんなにも嘘が上手い人間だっただろうかと、頭の片隅でぼんやりと考えていた。



 後日、オブライトは、テレーサから秘密の全てを打ち明けられた。彼は「どうしてこれまでの任務を失敗させていたのか」とは尋ねず、彼女も「どうして私を怒らないの」と尋ね返すような事はしなかった。


 互いの手を取ったまま指先の熱だけを分かち合い、結局その日、二人は必要以上の言葉を口にはしなかった。

 

 共にそれぞれの決意を隠し潜めて、残された一ヶ月間を思い出にするように普段と変わらず笑って過ごし、最後に町で顔を会わせた時も、別れの言葉さえ口にはしなかった。


              ※

 

 最期の日、――二度目の口付けは、オブライトから彼女へした。


 血をこぼす彼女の真っ赤な唇に、愛していると伝わりますようにと想いを込めて、そっと触れるだけのキスを送った。微笑みかけると、テレーサの顔がくしゃりと歪んだ。


「どうして来たの、どうして、剣を抜いてくれなかったの…………」

「テレーサ……」

「オブライト、あなたが来たら、私はあの子のために殺さなくちゃいけない。もしくは、あの子のために、あなたが私を殺さなくてはいけなかったのに」


 堪え切れず彼女が泣き出して、オブライトは、どうにかその涙を指で拭ってあげた。


「愛していたの。愛してしまったのよ。ごめんなさい、ごめんなさい……」


 ごめんなさい、と彼女は何度も謝った。オブライトも、彼女が前もって伝えてくれたにも関わらず、何もしないという選択を静かに謝った。


「俺だって、君を愛してた。……ごめん、君を一人で逝かせたくなかったんだ」


 オブライトは、愛しい人を抱き締めた。抱きしめ返してくれる彼女の温もりと、その感覚が分からない事を悟られないように、テレーサの身体をぎゅっと抱き込んで気持ちを告げた。


 愛してる、好きだ。


 いつからか、自分だけの家族を欲しいと思った。

 俺は、君と家族になりたいと、心からそう思ったんだよ。


 だから君が逝くのなら――……


               ※


 ふっと意識が浮上して、マリアは顔を上げた。


 自分の最期を夢に見たのは久々で、今の状況を把握するのにしばらく時間がかかった。ぼんやりと頭を持ち上げて、机に伏していた腕をのそりと引いた。


 持ち上げた視線の先には、ここ数日で見慣れたルクシアの研究私室にある作業台があった。カップの中で冷めた珈琲、積まれた本、隣には難しい本を広げて読み進めているアーシュの目付きの悪い横顔がある。


 彼はこちらに気付くと、片眉を上げてふてぶてしそうに目線を合わせてきた。



「気分はどうだ?」



 仮眠をとったおかげで、頭の方はどことなくスッキリとはしていた。しかし、気持ちを切り替えるには、少々時間が掛かりそうだ。


 マリアは二、三回頭を左右に振った後、椅子に腰かけたまま肩の強張りをほぐすべく腕を回した。ここが黒騎士部隊の執務室ではない事に若干違和感を覚えている自分に、思わず深い溜息が口からこぼれ落ちて、悩ましげに首の後ろを撫でさすった。


「……どうしたもこうしたも、勤務中の寝落ちかと思ったぐらいだ――」


 それぐらいに、見た夢は生々しかった。


 どうして忘れていたんだろうなと思うものの、テレーサと過ごした中で、一番受けた衝撃が強かったからだろうとも半ば理解していた。普段は見せない真剣な表情で、テレーサが「よく聞いて」と語った秘密よりも、本人の口から改めて死の覚悟を知らされた事がショックだった。


 ああ、これ以上鮮明に思い出してはいけない。


 整理のつかない感情で混乱しそうになる気配を覚え、マリアは、必要な要点だけを拾い上げて過去の記憶を胸の底に押し込んだ。こんな事では、また話せなくなってしまう。


 マリアは、スカートの下で足が開いている事に気付いて姿勢を正した。肩にかかった髪を背中へと払い、後頭部のリボンに触れて特に問題がない事を確認し、普段の自分通りの調子を思い出して「よし」と意気込んだ。



 その様子を見ていたアーシュが、しばしの観察を終えて「おい」と心底呆れたように唇を尖らせた。

 

「自分の姿勢の悪さに気付けたのは大目に見てやるけど、口の悪さはどうにかしろよな」

「おほほほほ。失礼、口が滑りましたわ」


 自分の中に『マリア』としての余裕が戻ってくるのを感じて、マリアはにっこりと笑い掛けた。すると、アーシュが心底嫌そうな顔をして「うげ」と身体を引いた。


 ……ちっ、相変わらず失礼なやつだな。


 結構評判の良い笑顔なのだが、と思ったマリアは、ふと部屋の主の存在を遅れて思い出した。


 いつもルクシアが占領している作業台の上座へ目を向けると、先程まではいなかったルクシアがそこにはいて、切れのいいところで本を置いてマリアを待っていた。マリアと目が合うと、彼は冷静な表情のまま、丸い大きな眼鏡を掛け直した。



 ここで言い訳をするのは漢として――いや、メイドとしてならない事だ。



 幼い彼の顔を見たマリアは、気持ちを引き締めるように一つ頷いた。

 

「すみません、ルクシア様。いらっしゃっている事に気付きませんでしたし、うっかり存在を思い出すのも遅れました」

「……正直な口ですね。相変わらずで逆に安心しました」


 ルクシアは、若干の拍子抜けもあって、口許を引き攣らせた。


 マリアは気持ちを切り替えるように、一度大きく深呼吸をして、改めて二人に向き合った。ルクシアが話しを聞くように作業台に両肘をついて組んだ手を口許にあて、アーシュも本をおいて姿勢を直した。


「ずっと引っ掛かっていたのですが、以前に私は【謎の毒】について見聞きした事がありました。先程、全部を思い出しましたので、ここで全てお話したいと思っています」

「どうして貴女が、――と聞きたいところですが、今はいいでしょう」


 ルクシアが静かに頷き、話しを促すように「それで?」と告げた。マリアは、有り難いと思いながら言葉を続けた。


「毒の素になっているのはタンジー大国の、ある雪山で春の短い間だけ姿を表す『リリス』と呼ばれる希少花の根です。その地方の人には【メフィストの蔦】と呼ばれていますが、体内で分解されてしまう毒であるため、現地では毒としては認識されていません」


 すると、ルクシアが顔を顰めた。


「『毒として認識されていない』というのは、おかしな話ですね。私が知る【メフィストの蔦】は、悪魔の悪戯のような、微弱な幻覚作用を引き起こす弱性の毒のはずですが……それに、【メフィストの蔦】はアバラ草種の『デビル』の根毒であるはずです」

「【メフィストの蔦】は『リリス』と『デビル』の二つがあるのです。毒として認知されているのは、ルクシア様がおっしゃるように『荒野に生息する幻覚作用のあるデビル』です。けれど、今回の【謎の毒】に関しては『リリス』が使用されています」


 つまり、とマリアは二人を順に見てこう断言した。


「『リリス』から調合に成功したのが【リリスメフィストの蔦】と呼ばれている、全く新しい毒なのです。これが、国によって存在を伏せられている悪魔の猛毒になります」


 ルクシアが僅かに目を見開いた。アーシュが「猛毒……」と呟いて、背筋を更にピンと伸ばした。


 マリアは、自分の頭がひどく冷えてくるのを不思議に思いながら、彼女が死ぬ前に教えてくれた猛毒について思い返しつつ、話を進めた。


「少し長くはなりますが、【リリスメフィストの蔦】を理解して頂くためにも、始めから説明します。タンジー大国には、一つだけ雪山が存在しますが、そこは春の一ヶ月間だけ雪が解けます。死んだ人間の血を吸ったような美しい赤い花が山頂を赤く染める事から、現地の人々は、見る者を魅了する赤い蛇の悪魔リリスに例えて、花を『リリス』と名付けたそうです」


 記憶するようにルクシアが思案顔で顎に触れ、アーシュは、腕を組んで「まずは名前の由来か」と了承するように相槌を打った。


「『リリス』の毒は、体内で分解されてしまうぐらい脆くて、口にしてもせいぜい数分ほど舌を痺れさせる程度なので、まるで『悪戯のような毒』だといわれています」

「それでもじゅうぶん毒なんじゃね?」

「味覚が消える訳ではなくて、ちょっとピリピリするぐらいらしいわよ?」

 

 マリアが苦笑して補足すると、アーシュは、途端に悟ったような遠い目をした。


「あ~……俺が飲まされる気付け薬よりも、全然害がなさそうだな」

「そうなるわね……。――その地方では、悪魔リリスは『アルプは果実ではなく、根が食べられるのだ』と人間をからかったとも伝えられている悪戯好きの悪魔で、『悪戯のような毒』という内容もあって、『リリス』の名が相応しいと、正式に図鑑にも採用されています」


 大事な部分の話だったので、マリアはルクシアに、「そこまではよろしいですか?」と確認を取った。ルクシアは顎に触れながら、「ふむ」と思案するように眉を寄せた。


「『リリス』の花名の由来は、悪魔リリスであるとは頭に入れました。外見の色と、お伽噺の二点で結びつけられて名付けられた、という事ですよね?」

「はい、そうです」


 ルクシアとアーシュは、長い前置きのような話を、ひとまずは急かさずに聞いてあげようと気遣うような空気も漂わせていた。マリアも、同じようにテレーサの話を聞き始めた覚えがあるので、そうなるよなぁと思った。


 けれど、省く訳にはいかないのだ。タンジー大国で語られる『例え話』や『お伽話』は、深い意味が隠されている物が多い。



 希少花である『リリス』の名前の由来である、悪魔リリスの話もそうだった。

 


 語る事を不得意とするマリアは、話上手なテレーサが語ってくれた通りに進められるよう、今一度頭の中を整理した。彼女の声を思い出して胸が締め付けられ、自分を落ち着けるため、一度深呼吸をした。


 そして、マリアは、彼女が知る悪魔の猛毒の全てを話すため、再び口を開いた。

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