一章 アーバンド侯爵家の使用人(3)
ダンスレッスンを終えたリリーナが、他のメイド達に身体を清められて一階へ降りてきた時、珍しく夕食の席に間に合ってアルバートが帰宅した。
「僕の可愛いリリーナ、ただいま」
「おかえりなさいませッ、アルお兄様!」
アルバートが駆け寄り、すかさず片腕でリリーナを抱き上げた。
鍛えられている細身の美丈夫が、女性であれば赤面してしまうほどの優しげな微笑みを妹に向ける光景を前に、マリア達は使用人として相応しい立ち位置で控えた。
今年で十九歳になったアルバートは、アーバンド侯爵家の長男だ。リリーナと同じ蜂蜜色の髪と藍色の瞳をした、誰もが認める美しい青年だった。少し垂れた瞳がとても優しげで、顔は奥の間に飾られている亡き母親にそっくりである。
ゆくゆくは侯爵家を継ぐ人間として、アルバートは幼少より英才教育を受けていた。最近は近衛騎士の第三副部隊長としても忙しく、彼と婚姻を結びたいとする多くの令嬢から知らせが届いているが、まだ婚約の予定はない。
「僕の小さなお姫様、今日はどんな事をしたんだい? ああ、とてもいい匂いがするね、お風呂に入ったのかな」
「ダンスの授業がありましたのよ、アルお兄様。お話を聞いて下さる?」
兄が大好きなリリーナは、片腕に抱えられたまま今日一日の事を話し始めた。それを、アルバートは蕩けるような笑みで見つめていた。
実に仲の良い兄弟である。
普段のアルバートを見聞きしていれば、何ら疑う事もないその溺愛ぶりな光景だった。彼が妹に向ける愛情は禁断のものではないし、彼の父親も同じぐらい高確率でリリーナを抱き上げたりするので、溺愛親子とも言えなくもない。
リリーナが、サリーを練習相手に完璧に踊れた曲があるという下りを話したところで、アルバートが堪らずといった様子で彼女に頬ずりした。
「可愛いなぁ、僕のリリーナ。どうして君はこんなに可愛いのだろう」
「アルお兄様、くすぐったいですわ」
「今度は僕と踊ってくれる?」
「ええ、そのために頑張っていますもの」
下心がないリリーナの無邪気な笑顔は、破壊力抜群だ。
マリアが、どうして今自分が彼女を抱き締めていないのだろうと、心の中で悶絶する中、アルバートはゆっくりと口許を押さえた。唐突に、ぎゅっと強くリリーナを抱きしめると「こうして大きくなっていくんだねぇ」と、十九歳とは思えない台詞をしみじみと呟いた。
いずれこのような触れ合いが恥ずかしくなる年頃までは堪能しようという気持ちは分かるが、一歩間違えれば危ないシスコンか、ロリコンに見えなくもない。
アルバートと共に帰宅した、彼の侍従であるマシューが、普段は冷静な面持ちを若干引き攣らせていた。
灰色の髪は邪魔にならない程度にセットされているが、童顔のせいで二十三歳になった今も男臭くないため、マシューはアルバートと並ぶと爽やかな好青年として映える。
「……アルバート様、旦那様が書斎でお待ちなのでは?」
「マシュー、僕は今、可愛い天使に癒されているんだよ?」
とはいえ、リリーナも風呂を済ませたばかりだ。夕飯前には少しの休憩を挟むのが幼いリリーナの日課でもあるので、アルバートは、名残惜しそうに彼女を降ろした。エスコートするようにとサリーに目配せし、その手を取らせる。
リリーナが「ありがとう、サリー」と微笑むと、サリーが恥ずかしそうにうつむいて「はい、お嬢さま」と消え入りそうな声で、もじもじと答えた。
愛らしい二人が並ぶと堪らない光景に仕上がるため、マリアは、ぐらりと揺れる理性が決壊しないよう踏み止まった。
というより、リリーナと並ぶサリーは、もう女の子にしか見えない。
アルバートも、その光景を見てうっとりとした表情を浮かべていた。彼の恍惚とした表情を見たマリアは、下心があってサリーを彼女の侍従につけたのでは、という憶測に頭が冷えて、若主からそっと視線をそらした。
場が落ち着いたのを確認した執事長フォレスが、自然な流れでリリーナを促した。
「アルバート様は、これから旦那様と少しお仕事の話がありますので、お嬢さまは、どうぞこちらへ」
「じいや、マリアがまだ後ろにいるのはどうして? マリアは一緒じゃないの?」
「今日はアルバート様もご夕食を共にされますので、厨房の方が少したてこんでおります。マリアには、そこを手伝ってもらう事になっておりますので、どうぞご了承下さいませ」
リリーナは寂しそうに逡巡したが、「終わったらすぐに来てね、絶対よ」とマリアに言い、フォレスに促されるまま、サリーと共に歩いていった。
幼い彼女の視線が外れてすぐ、マリアは、リリーナ達を見送るアルバートの横顔をチラリと見上げた。そのような予定は聞いていないが、フォレスは先程まで侯爵のもとにいたので、恐らく何らかの指示と話があるのかもしれない、と推測する。
リリーナ達の姿が完全に見えなくなったところで、アルバートが、マリアを振り返り柔らかく微笑んだ。
マリアはスカートをつまんでメイドの礼を取り、「お帰りなさいませ、アルバート様」とまずは形式的ないつも挨拶をした。
「うん、ただいま、マリア。いつも御苦労様。ギース辺りにセクハラはされなかった?」
「どうしてそこでギースの名前が出てくるんですか」
ギースの女好きは知っているが、使用人仲間にそのような感情を向けないぐらいは信頼がある。マリアは、アルバートの意図が分からずマシューに目を向けたが、彼はぎこちない愛想笑いを浮かべただけだった。
分からないならいいんだよ、柔らかい声が耳に入り、マリアは視線を戻した。
アルバートは、独り言のように呟きながら、たくましくなった長い指でマリアの髪を梳いた。後頭部から首まで撫で降ろすように堪能し、すくいとったうちの一房が、彼女の肩に落ちてパサリと音を立てた。
髪を降ろした方がいいと提案したのは、幼き日のアルバートだ。
どうやら柔らかい手触りが気に入っているらしいと、マリアは、いつも彼の好きにさせていた。
「マリア、新しいリボンを買ってきたよ。勿論リリーナとお揃いだから、気に入ってくれると嬉しいな」
「まぁ、そうなんですか。ありがとうございます」
マリアのリボンは、全てアルバートが用意した物だった。リリーナは、マリアを姉のように慕っているところがあり、服がダメならせめて髪留めぐらいは、と兄にお願いしたのが始まりらしい。
幼い女の子にリボン、というアルバートの発想は素晴らしいと思う。
マリアとしても、可愛らしい主人とお揃いなのは嬉しかった。可愛いから個人的にも気に入ったおり、いずれリリーナがリボンに満足出来なくなるまでは、毎日、彼女と合わせた同じ柄を付けるつもりでいた。
満足したアルバートが手を下ろして歩き出したので、マリアは、マシューと並んでアルバートの後ろをついて歩いた。
※※※
辿り着いたのは侯爵の部屋だった。そこには、書斎机の長椅子に腰かけるアーバンド侯爵の他、ズボンの裾に土汚れをつけた庭師のマークが、ソファで胡坐をかいて座っていた。
マークはマリアに気付くと、「今度は俺とお前か」とおどけたように眉を上げ、アルバートには素早くへりくだる笑みを浮かべて、使用人としてはありえない姿勢のまま目礼した。
「こりゃあアルバート坊ちゃまじゃないですか、お帰りなさいませ。俺と会うのは三日ぶりぐらいですかね」
「ただいま、マーク」
アルバートは、従えているには軽い使用人の態度を咎める事もなく、家族に向ける暖かさで庭師に微笑みかけた。いつもの光景ではあるが、マリアは、ソファの後ろに回ってマークの頭を軽く叩いた。
「マーク、少しは姿勢ぐらい整えたらどうなの?」
「お前もさ、先輩の頭をポコポコ叩くのやめない? 暴力的で貧乳とか誰が得す――」
「今すぐ沈めてやろうか」
咄嗟に素で拳を握りしめたマリアは、こちらを見つめるアーバンド侯爵の視線に気付いて「あら、口が滑りましたわ、オホホ」と取り繕った。
いかん、メイドとして相応しくない口調には気をつけよう。
アーバンド侯爵は、困ったような笑みを浮かべて「今日も仲良しで何よりだ」と口にした。一見すると、身体は大きいが人畜無害の文官か司書のような、柔らかな空気を持った男だ。
騎士学校で高い成績をおさめたアルバートと違い、アーバンド侯爵は、平均的な成績で貴族学校を卒業していた。短い王宮勤めで平均的な功績をおさめ、先代から領主を引き継いだというのが一連の経歴である。
誰よりも信頼されている領主としての肩書きの他に目立ったところもなく、財力を持った貴族から一瞥されても言い返す事をしない温厚な人だと、多くの人間には認識されていた。
マリアとマークが言葉を待っていると、アーバンド侯爵は気の弱そうな顔に微笑をたたえ、僅かに首を傾けた。
「明後日の夜に奇襲があるから、マリアとマークで片付けなさい。既に知りたい情報は得ているから、一人も残さないでいいよ」
殺気もなく、いつもと変わらない穏やかな表情で彼はそう語った。
腹の中でどんな事を考えているのか相変わらず分からない人だ。敵に回すと一番厄介なタイプだなと思いながら、けれどマリアとマークは、恐れも危機感も覚えずに「了解」と答えた。
アーバンド侯爵は、雇用主と雇われという関係ではなく、使用人を家族として大事にしていた。信頼を置ける者だけを手元に残し、マリア達にとっても、アーバンド侯爵一族は良き親友であり仲間であり、家族だった。
父の説明を引き継ぐように、アルバートが「時間がないから手短に話すけれど」と前置きして続けた。
「ある『不正』を行っている貴族がいて、それが陛下を困らせている。一掃するついでに、面倒事を増やしている彼らが持つ隣国の暗殺集団も邪魔だから消す。向こうだと『処理』が面倒だから、ウチでやるから」
アルバートが、男女共に魅了する優しげな笑みを浮かべて、そう語る。
なんとも面白い関係だよなぁと、マリアは話を聞きながら改めてそう思った。王族との強い繋がりがあまりないと思われていた、古い歴史と名ばかりのアーバンド侯爵家が、どの貴族よりも深く国王陛下と結びついているのだ。
国王陛下のためだけに動き、身動きが取れない国王陛下のために歩く毒剣となって、影から支え続ける【国王陛下の剣】。
裏切り、欺き、必要のない組織や人間を王の代わりに処刑するのがアーバンド侯爵家の実態だった。一族の人間は、国の暗殺部隊をとりまとめ、その使用人は、主人と屋敷を守るためだけに存在する戦闘使用人である。
戦争で荒れていた時代だろうと、王都に不穏な火種が飛ばなかったのは、彼らが暗躍していたおかげだ。
貴族社会は面倒そうだと思っていたが、もっと複雑だったらしい。国政にも『表』と『裏』があったという事実は興味深く、あの腹黒い友人である国王陛下の後ろで、どれほどの事が動いていたのだろうかと、想像すると興味は尽きない。
マリアは、オブライトとしてずっと表舞台を進んでいたから、影の戦いがどんな風であったのか知らなかった。今世で少しその実態に触れて、個人的には興味もあり、面白いとも感じていた。
「君たちの標的が望むとおりに動いてくれるよう、僕が直接ちょっかいをかけてあげているから、安心してここで『処理』するといいよ。僕も父も、別に相手をしなければならない方達がいるから、彼らの事は任せたよ?」
「随分楽しそうですね」
父親ほどではないが、うまく能力と才能を隠しているアルバートが、対象相手に直接関わるというのも珍しい。
マリアが思わず小首を傾げると、アルバートは、愉快そうにニッコリと笑った。
「マリアに陛下の話をした事はなかったね。陛下は実に面白い人で、二人でどれぐらい『キレイに』掃除出来るのか、賭けているんだよ」
「……なるほど」
あいつならやりかねないな、と、マリアは思わず、見目だけは王子然としていた国王陛下を思い起こした。
彼は面白い事が大好きで、相手の秘密を暴き、青白く震えていく様を目にして楽しむような男だった。「偉そうな男がいる。プライドをへし折ってやりたいから協力しろ?」と爽やかな笑顔で語り、オブライトを「とりあえず暴れて来い」と管轄外の戦地に送った事もある。
とはいえ、一介の使用人にあまり情報の詳細は必要ない。アーバンド侯爵家の使用人は、屋敷と、そこにいるリリーナを守るのが役目だ。
それは執事長や料理長だけが把握していればいいので、マリアは、とりあえず、ここに追い込まれる哀れな害虫を駆除する事を考えた。
腹の探り合いといった事が苦手なマリアにとって、だからこそ今の立場は、オブライトであった頃と同じように分かりやすくて性に合っていた。組織の中の頭脳ではなく、その手足として動く事を好んでいる。
「僕と父上は、その日の夜は不在になる。一緒に連れ出すフォレスの代わりに、屋敷の中はガスパーとエレナが、リリーナにはサリーについてもらう」
アルバートはそこで、確認するように二人を見つめた。
マークが小さく手を上げ、微笑む若主人に質問した。
「相手の人数にもよると思いますけど、俺とマリアだけでいいんですか?」
「それだけでじゅうぶんだよ。相手は多くても二十人いかないから」
「ああ、それなら『畑道具』だけで問題ないっすね」
マークの納得した様子を見て取ると、アルバートは「よろしくね」とにっこり笑った。