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九章 その毒の名は(3)下

 しばらくもしないうちに、先程レイモンドに指示を受けて走って行った衛兵が戻り、ルクシアを背負った屈強な騎士と、アーシュが慌ただしく現場に駆け付けた。



 騎士に背負われたルクシアは、赤みかかった栗色の髪を揺らし、半ば不服そうに男の背中にしがみついていたが、現場の様子を見て取ると、表情を引き締めて辺りに視線を走らせた。



 ルクシアは、地面に下ろされてすぐ、マリアの異変に気付いて目を止めた。しかし一瞬の逡巡の後、ギョッとするアーシュを制止するべく鋭い視線を投げると、大きな眼鏡を掛け直し、金緑の瞳を問題の死体へ向けた。


「彼の死因は、怪我によるものではないのですね?」

「はい。脇腹を一打し、背負い投げて全身を叩きつけられてはいますが、骨に異常を起こす威力でもありませんでした」


 死体のそばで待機していたレイモンドが、緊張で顔を強張らせたままそう説明した。ルクシアは、素早く周囲の状況を見やり、物言いたげな衛兵と近衛騎士の視線の先にいるマリアを認めて、至った推理に僅かな戸惑いを浮かべた。


 マリアの方へ駆け寄るのは待て、とルクシアに目で指示されたアーシュは、訳が分からないまま改めて死体を確認し「血が……」と口許を押さえた。

 


「……なるほど、女子の力で骨や内臓を潰すのは不可能でしょう」



 ルクシアは独り言のように呟いた。レイモンドが、視線を死体へと戻しながら「そうでしょうな」と曖昧に答えた。


 他に否定の言葉も返ってこない意味を察し、ルクシアは、悩ましげに目を閉じた。優先順位を間違えないよう己に言い聞かせて死体へ向き直ると、用意していた手袋をはめてしゃがみ込み、男の口内を確認した。


「――臓器が切られた訳でもないのに、既に口内まで、壊れた血管の欠片まで上がって来ていますね。他の男達の死体も口からの流血が見られるようですが、あれは、検死しないと判断が難しい可能性があるでしょうから……私も医師免許は持っていますから、一緒にあたります」


 レイモンドは、マリアとモルツの様子を一度確認した後、ルクシアと話すべく腰を曲げて「はい」と答えた。


「すぐに運ばせます。一人は喉を切り裂いているため口からの流血が多くありますが、他には外傷がないので、内臓の検分は問題ないかと思われます」

「一突き、ですか……そうですね、そちらは内臓の状態を先にみてみましょう。こちらの死体を一番、それを二番にみますから、その通りに運んで下さい。検死に関しては、第二班を手配して下さい、彼らであれば融通は利きますから」


 二人のやりとりを耳にしながら、マリアの様子を窺ったアーシュが、やや釣り上った目を心配そうに細めた。


 マリアは、向けられる視線や気配にも気付けないでいた。自分がひどい顔をしているのはどうにか理解していたが、取り繕う事も出来ないまま、死んだ男の真っ赤な唇と、流れ続ける血に釘付けになっていた。


 伝えなければ、と思った。必死に考えをまとめながら、唇と喉の震えを抑え込もうとした。



 だってマリアは――オブライトは、その毒を知っているのだから。



「お伽噺の、蛇の悪魔が……そそのかした…………メフィストの蔦……」


 ぽつりと、どうにかこぼした呟きは細かった。辿った記憶の先で蘇った単語が、緊張と共に震える呼気の上をぎこちなく滑る。


 マリアの呟きを拾い上げたルクシアが、「メフィストの蔦」と口の中で反芻し、ピタリと動きを止めた。


「……何かご存じなのですか?」


 ルクシアが、立ち上がりながら手袋を外し、気に掛けるように眉を顰めながらマリアを振り返った。


 混乱で言葉が上手く出せなくて、マリアは「気付いて」という思いで彼を見つめ返した。推理するように目を細めたルクシアの顔に、「まさか」という言葉が浮かんだのを見て、マリアは慎重に頷いた。


 毒の調査を始めてから感じていた引っ掛かりの正体を、ようやく思い出した。


 そう視線で伝えたものの、マリアは、どう説明したらいいのか思考が定まらず、混乱のまま視線を落とした。



「おやおや、一体何が起こったのでしょうねぇ」



 その時、どこか金属的な甲高さを含むような、特徴的な濁声が場の沈黙を破った。


 ある古い記憶を思い起こしていたマリアは、当時と同じ声を聞いて、心臓が大きく震えた。嘘だろう、と思考が数秒ほど完全に停止した。


 マリアの肩が、ビクリと震えるのを見たモルツとレイモンドが、表情を冷静に取り繕い、登場した男から彼女を隠すように前に進み出た。すぐにルクシアも、普段の張り付いた無表情に戻して、濁声の男を振り返った。


「――あなたでしたか。最近はお見かけしませんでしたね」

「殿下、ご機嫌麗しゅう。こちらには、少々用があったものですから。いやはや、それにしても大変な事があったようですねぇ。無事に賊は始末されているようで安心致しました。さすがは、優秀な王宮の騎士です」


 マリアは地面を見つめながら、ずっと忘れられなかったその声に拳を強く握りしめた。体中の血が沸騰するように鼓動が耳元で煩く鳴り、固めた拳が震えた。



 顔も姿も見た事はなかったが、偶然通りかかったテレーサの部屋の下で、最後は毒を飲んで死ねと冷酷に告げた男の声だけは覚えている。



 モルツが、細い眼鏡を正面から押し上げて、現れた男に向かい合った。


「これは、ガーウィン卿。こちらは仕事の直後だったもので、あまりお見せ出来ないような光景で申し訳ございません。これから速やかに後処理に入りますので」

「いえ、私も偶然通りかかりましてね。ご令嬢の方から物々しい話を聞いて、無力ながら気になって駆け付けてしまった次第なのですよ。モントレー総隊長補佐殿もいらっしゃるとは、心強い限りです」


 十六年前は名前さえも知らなかった男の名を、改めて頭の中に刻み付けながら、マリアはゆっくりと視線を上げた。


 レイモンドとモルツの向こうにいたのは、見覚えのない細い顔をした老年の男だった。不健康そうに痩せた身体には大きな襟のついた上質な赤いコートを着込み、頬骨が大きく出た顔は浅黒く、鋭く細い茶色の目は、形ばかり弓のような線を描いて愛想笑いを作っていた。



 ああ、こいつがテレーサに、死ねと言った男だったのか。



 マリアは、生まれて初めて感じる激しい感情の揺らぎに、頭の中が真っ赤に染まりそうになって、顔を伏せて彼の姿を視界から追い出し、洪水のように押し寄せる感情の波に耐えた。


「おや、そちらのお嬢さんはどうされました?」

「偶然居合わせてしまったようです」

「おぉ、それは怖かったでしょう。あんなにも震えて、可哀そうに」


 モルツが平然と答えたところで、ルクシアが、一同を代表するようにガーウィン卿に向かい合った。


「ガーウィン卿、こちらの賊は、騎士の粛清によって死亡しました。私も偶然居合わせてしまった身ですが、これから速やかに処理しなければなりません」


 例の男の死体はうつ伏せの状態で、肩口からこぼれ出した血は既に大きな血溜まりを作っており、一見すると刺し傷による死亡だと勘違いしてくれる状況だ。それを利用するべく、ルクシアは、調査の必要がないものだと安易に告げた。


 ルクシアの考えを察したモルツとレイモンドが、そばで確認されては面倒だと、部下たちに顎で指示した。衛兵と騎士が、無言のまま手早く死体の回収作業に入る。


 ルクシアの言葉を聞いたガーウィン卿が、どこか満足げに「そうでしょうな」と嗤った。


「それでは、私はこれから用事がありますので、失礼しますよ」


 踵を返して去っていく足音を聞きながら、マリアは、知らず唇を噛みしめた。どうして忘れていたのだろう、と、握りしめた拳の痛みに顔を歪めた。




 もし運命を変えられるのなら、抗える運命だったとしたのなら、彼女にひどい運命を押し付ける一番の悪を、この手で切り裂いてやろうと考えた事がある。




 けれど、オブライトはそうしなかった。

 殺し続ける日々に、苦しみ続ける彼女の今に、終止符を打つ道を選んだ。


 彼は結局のところ失望し、全てを諦めたのだ。


 オブライトの始まりは、目の前に広がる小さな平和を守ろうと、剣を手に取った事だった。平穏な心を望んでそれを振るい、己が剣の腕を磨き続け、いつの間にか彼の剣に敵う者はいなくなってしまっていた。

 


 テレーサはそんな彼を、どうしようもないくらい強くて悲しいと、泣けないオブライトの代わりに涙をこぼしてくれた、優しい人だった。



 愛していたのだ、失いたくなかった。


 彼女が望んでくれるのであれば、そんな事のために剣を握ったのではないと泣き叫ぶ本心を殺してでも、よく陰口を叩かれた恐ろしくて冷酷な、歴代の中で最悪最凶の【黒騎士】となり果ててでも、あの男と関わった全ての人間を殺していたかもしれない。


 けれど、テレーサは、それを望まなかった。

 貴方はこちら側に堕ちて来ては駄目よ、と微笑んだ。



 だからオブライトは、テレーサの決意を前に、チラリと脳裏を掠めた殺戮や負の感情を全て捨てて、それならば、彼女が愛してくれた自分のままで共に逝こうと決めた。



 愛していたのだ。本当は、叶うならば共に生きたかった。


 洪水のように押し寄せる感情が、あの頃の悲しみと痛みも伝えて来て、マリアは地面を見つめたまま顔を歪めた。



――俺は君と、本当の家族になりたかったんだよ……



 その時、固く握った拳を、そっと包み込みこむ熱があった。


「傷になってしまいますよ」


 ここ数日で聞き慣れた落ち着いた少年の声が聞こえて、マリアは我に返った。


 殺す事にまるで罪悪感も感じたことがない自分の手を、幼い手が労わるように開いてく。ゆっくり顔を上げると、自分よりも少し低い位置にある、美しい金緑の瞳と目が合った。


 ルクシアが、ひどく心配した表情でこちらを覗きこんでいた。



「ひどい顔してる……」



 子供らしい表情じゃないと言いたかったのに、ポツリとこぼれたのは、直球な感想だった。


 すると、友人と同じ金緑の瞳を持ったその子供が、泣きそうな顔でぎこちなく微笑んだ。マリアは、喉がカラカラに乾いている事に気付いたが、それでも何か言わなければと鈍い思考を働かせて、力なく唇を開いた。



「私、思い出して……だから、ルクシア様に伝えなきゃいけない事が」



 どうしてだろう、まだ言葉がうまく出て来てくれない。


 マリアの困惑を察したように、ルクシアが諭すような微笑を浮かべて、手を包み込んだまま「分かっていますから」といつもより穏やかな声で告げた。


「用事を済ませたら、すぐに向かいますから、アーシュと一緒に研究室で待っていて下さい。まずは落ち着きましょう、いいですね? ――アーシュ、彼女をお願いしてもよろしいですか?」

「はい、分かりました」


 モルツとレイモンドの脇から、アーシュが慌てたようにやって来てマリアを引き受けた。



 アーシュに手を引かれて、マリアは、薬学研究棟へ向けて歩いた。



 離れの草地を踏む足音が聞こえ始めた頃になってようやく、マリアは、ぼんやりとした頭で「なんだ、手を握っても平気じゃないか」とアーシュに対して思えるぐらいには落ち着いて来た。


 アーシュは、こちらを振り返る事なく進み続けた。


 マリアは彼の背中をしばし眺め、こんなのは自分らしくない、深く考えるなんて性に合わないと、呪文のように心の中で唱えた。



 いくら仇だからって、殺してやりたいなんて考えるものじゃないと、マリアはそう思って、強く目を閉じた。

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