九章 その毒の名は(3)中
猛然と走るマリア達を見て、先の回廊にいた数人の若い男が、何事だという顔で慌てて道を開けた。「例のリボンの子じゃないか!?」「足見えてるからッ」という彼らの悲鳴は、あっという間に通り過ぎて行ったマリア達には届かなかった。
マリアとモルツより、やや先頭を行くレイモンドが「このタイミングでってのは信じたくないが」と苦い声を上げた。
「実をいうと、茶会に参加した令嬢達は、会場を抜けてから第二東庭園を通る事になっているんだ……」
「阿呆かッ、よりによって警備から一番遠い四番区かよ!」
誰だ、そんなルートを考えた奴は!
嫌な予感で心臓が煩いぐらい鼓動音を上げ、マリアは冷静でいられず悪態を吐いた。最悪だった王妃の茶会の他にも、過去に起こった様々な騒動が脳裏を過ぎり、馴染みの友人がいる事もあってオブライトの記憶と現在が混同した。
マリアは、レイモンドとモルツと共に軽々と回廊の塀を飛び越え、彼らにぴったりとついて走行した。
耳に馴染む罵倒を聞いたレイモンドが、若き当時のようなパニックを起こし、冷静さを殴り捨てて「ピンポイントで俺を責めるなよ!」と忌々しげに頭をかきむしった。
「仕方ないだろッ、今はフロネルの花が見頃で令嬢には大好評なんだ! 終わってすぐ『はい帰って下さい』になる訳がないだろう!?」
「王宮の土でしか育たないとはいえ、社交シーズンのたびに咲いてるだろう! 内部がごたごたしてる時に危機感がなさすぎるんじゃないのか!?」
風を切る音に負けないよう、マリアとレイモンドは前方を睨み据えたまま荒々しく言葉を交わした。十六年前と変わらない罵倒に言い負かされ、レイモンドが、「ぐぅッ」と声を詰まらせる。
「考えてみると、ルートを提案したのは、ガーウィン卿の息がかかった奴の意見だったような……」
「この阿呆! せめて二番区を推奨しておけば良かったんだ、ご自慢のメイン園とやらで、年がら年中庭師が植え替えしてるだろうッ」
「おまッ、いつも二番区を『ご自慢の~』とかこけおろしてくるけどな、あそこは警備の配置とか色々難しいって、俺、毎回毎回口酸っぱく言い聞かせてるよな!? 地形的に狙い撃ちにされる場所でもあるんだってッ」
その時、隣り合うレイモンドとマリアの横から、一つの声が割って入った。
「憶測は多々あるでしょうが、責任者は何もレイモンド騎馬総帥だけではありませんし。ひとまず、マリアもレイモンド総帥も落ち着いて下さい」
モルツは、夢中になって言い合う二人に冷静な意見を述べた。しかし、彼は涼しげな表情で、レイモンドを追い詰めるようにこう続けていた。
「とはいえ、確かに平和ボケを逆手に取られたとなると厄介ですね。こちらが第三、第四王子への警備を強めている事で、向こうは人員が不足していますから」
冷静さを欠いていたレイモンドは、モルツの嫌味口調を流すだけの余裕がなく、頭を抱えて「うわぁ」と情けない声をこぼした。
「ますます嫌な予感しかしない……今の時間に限って、あの場所に配置されている人間に空きがあったような、詰まっていたようなッ」
「つまりアレか。お前らは揃いも揃って、すっかり嵌められたわけだな」
「ぐぉおッ、冷静に追い打ちを掛けるのはやめてくれ! 俺のハートはガラス細工なんだぞッ。なんでお前は、いつもここぞとばかりにそうやって俺の傷口を抉るんだ……!」
仕方ないだろう、お前たまに重要なところで鈍さを発揮するじゃないか。
マリアは、苦悩するレイモンドの横をしれっとした顔で走り続けた。彼にもうっかりした部分があると知っているモルツも、マリアの意見に同意するように頷き、揃えた手で眼鏡を押し上げた。
「というより、勝手に絶望しないで下さい、実に羨ま――鬱陶しいです、レイモンド騎馬総帥」
「鬱陶しい!?」
「羨ましいの間違いだろ」
「茶会が終わってからを計算すると、既に後半組の令嬢達が庭園に入った頃でしょう。最悪、もし奇襲があるとすれば、私なら死角になるサザンの花木辺りで、最後列の令嬢を確実に仕留めますね」
物騒な見解だが正しいだろう。マリアが刺客だったとしたら、彼と同じ行動を取る。
「――だろうな。その方が確実にイける」
「――ええ、確実にイけますね」
「畜生ッ、こういう時に限って何でお前らは、協定組んだみたいに俺への精神攻撃を開始するんだよッ」
風のように駆けた三人は、あっという間に辿りついた第二東庭園の柵を、勢いのまま一跳躍で飛び越えた。
その時、甲高い若い女性の悲鳴と喧騒に混じり、剣がぶつかりあう音が三人の耳に飛び込んで来た。
モルツが小さく舌打ちし、マリアも音の方向へ目を凝らした。サザンの花木に沿った庭園の日陰で、倒れ込んでいる令嬢を衛兵が助け起こし、走り出す姿がある事に気付いた。
現場では四人の近衛騎士が、片刃の剣を持つ黒いターバンを巻いた五人の男を、令嬢達の方へ行かせないよう応戦していた。暗殺者の方が動きに無駄がなく、怪我を追った衛兵と近衛騎士が地面の上で苦痛に呻いていた。
刺客もとどめを刺すまでの余裕はないようだ、とマリアは推測した。暗殺者というよりは、荒事向けの傭兵に近い男達なのかもしれない。
敵に狙いを定めたレイモンドとモルツが、眼光を鋭くし、腰の剣に手を掛けた。
五人の刺客の一人がこちらに気付き、近衛騎士の一人の剣を打ち返して、衛兵と共に走り去る令嬢の後を追うように駆け出した。
「野郎、させるか!」
マリアは腹の底から吐き捨て、一気に地面を蹴り上げた。ようやく我に返ったレイモンドの制止の声を振り、先陣を切って飛び出す。
猛然と駆けながら、地面から起き上がろうとしていた近衛騎士に向かい、マリアは「剣を貸せ!」と大きな声で叫んだ。
荒々しくはためくスカートを、気にもせず向かって来るメイドに気付き、近衛騎士が驚いたように目を瞠った。距離が縮まったマリアが「早く寄越せ! 阿呆!」と怒鳴りつけると、彼は気圧されたように上半身を起こし、「ど、どうぞッ」と剣を掲げた。
奪い取るように剣を受け取ったマリアは、走りながら、目先で苦戦する別の近衛騎士の様子を見ても思わず舌打ちした。
「これぐらいで押されるとは呆れる……そこのお前ッ、ちょっと退け!」
「えぇッ、メイド!?」
「いいから、そのまま伏せろ!」
両手で剣を突きの姿勢に構えたマリアを見て、近衛騎士は、彼女が何をするのか早々に察し、「うひゃあッ」と頭を抱えてしゃがみこんだ。
マリアは飛び上がりざま、刺客の喉元を一気に切り裂いた。
宙でふわりとなびいたダークブラウンの長い髪と、大きなリボン。
そして、可愛らしい顔に不似合いな鋭い殺気をまとわせた少女を、すぐ下から見ていた近衛騎士が目に止めて、鳶色の瞳を大きく見開いた。
絶命した男から上がる血飛沫をくぐり抜けるよう、マリアは着地と同時に走り出した。
噴出した男の血に、思わず腰を抜かした近衛騎士に目も向けないまま、彼女は、後方にいるであろう他の仲間達に聞こえるよう「残りは任せたぞ!」と指示して、令嬢達のもとへ向かうターバンの男を追った。
※※※
姿の見えなくなった令嬢を追っていたターバンの男が、不意に後方の異変に気付いて振り返り、マリアの殺気立つ表情を見て「ひぃッ」と喉を鳴らした。緊張感で研ぎ澄まされた冷静な少女の表情には、一切の迷いもない。
一番に集団の中を飛び出したという事は、この男が刺客の頭である可能性も高い。
マリアは「殺すのはまずいか……」と冷静に考え、剣を逆手に構えた。走る足に力を込め、逃げに入った男の背後に迫ると、勢いを付けたまま飛び掛かり、剣の柄で男の後頭部を打ちつけた。
男がくぐもった声を上げ、バランスを崩して足を止めた。
しかし、少女の身体では威力が足りなかったようだった。男が剣を取り落としながらも危うい足取りで体制を整え、こちらの剣を奪うような気配を見せたので、マリアは、敵を鋭く見据えたまま躊躇なく剣を後方へ投げ捨てた。
どうせ一対一だ。武器の取り合いになるぐらいならば、捨てる。
マリアは、体術戦に持ち込む事を伝えるべく、わざと大きめに身構えた。男が一瞬、動揺したように僅かに動きを鈍らせたが、相手が自分よりも小さい少女だと認識し、同じように両手に拳を作った。
「くそッ、女のくせに何なんだ……お前一体何者だよ!」
マリアは男の右拳を避けると、全身を大きく回し、男の脇腹に強靭な蹴りを叩き込んだ。
「お前こそ誰だよッ、この阿呆!」
受けた衝撃に堪らず身を屈めた男の襟を、マリアは素早く掴んだ。引き寄せ、体重を掛けて一気に背負い投げて地面に叩き付る。そして、痛みで動きが鈍くなった男の背中に素早く跨り、彼の手を背中で固めた。
マリアは男の抵抗力がないうちに、彼のズボンのベルトを引き抜いて、素早く男の両手に巻きつけて拘束した。身体の下で痛みに悶絶する男が、逃げ出せない状況であることを改めて視認し、ようやく一息吐いた。
片手で男の両手を押さえたまま、胸の前に落ちた髪を後ろへ払ったところで、マリアは、「ん?」と顔を顰めた。
先程、ぐるぐると定まらない思考で、よからぬ事を口走ったような気がする。
落ち着き始めた頭で考えてみたのだが、夢中で走っていた間の記憶は曖昧だった。走っていた途中で、モルツが持ち前のウザさを発揮したので、「こいつの隣を走るとか嫌だな」と思った覚えはあるのだが……
その時、男が苦しそうに身をよじったので、マリアはそちらへ注意を戻した。
マリアは、敵の顔を確認していなかった事に思い至った。衛兵を引き連れたレイモンドとモルツが、「マリア!」と呼んで駆け寄ってくる中、構わず男の顔を覆い隠すターバンを剥ぎ取ってみた。
男は三十代ほどで、無精髭を生やし浅黒い肌をしていた。
焦げ茶色の短髪に、全体的に四角い顔、目鼻立ちは見慣れた国内の人間のものだった。彼はターバンを取られた事にも気付かない様子で、脂汗を浮かべながら、唇を口の中に埋め込むほど強く噛みしめて、苦渋の表情を浮かべていた。
内臓は傷つけないようにしたが、そんなに痛かったのだろうか……?
マリアは疑問を覚え、動けそうにもない男の上から退いた。改めて男を見降ろすと、やはり男は唇を引き込んだまま「うぅ」と呻くばかりで、こちらを睨み返して来る様子も見せなかった。
不意に、男の口許から、すうっと赤い雫がこぼれ落ちた。
マリアは、男が吐血をしている事に遅れて気付き、目を丸くした。
「お、おい……ッ。お前、大丈夫か――」
思わず素で声を掛け、しゃがみ込もうとしたマリアは、喘ぐように解放された男の唇を見て身体を強張らせた。
男の腫れぼったい唇は、まるで紅を塗った女の唇のように真っ赤だった。
男が身を僅かによじり、苦痛で淀んだ深い茶色の瞳が、早急に潤みを増していった。そこからパタリ、パタリと涙がこぼれ始め、ヒューヒューと苦しそうな呼気をこぼす口許からは、溢れるように血が流れ出す。
……これ、見た事がある。
古い記憶の底で、最期に口付けた彼女の、血をこぼすふっくらとした蕾のような深紅の唇が、マリアの脳裏に蘇った。
「マリア!」
一瞬、過去に意識が飛んでいたマリアは、強い呼び声に現実へ引き戻された。
モルツがマリアの腕を掴み、美麗な顔に珍しく険しい表情を浮かべて立っていた。マリアは、数秒ほどモルツと目を合わせ、半ば茫然としたまま視線を向こうへと戻した。
倒れている男の状態を確かめるべく、レイモンドが身を屈め、衛兵達もそばに立った。男の茶色い目は既に虚ろとなっており、一同が沈黙して見守る中、しばらくもしないうちに呼吸が完全に止まった。
「……私、殺してない」
頭の整理が追いつかないまま、マリアは、ゆっくりと首を左右に振り、どうにかそう口にした。
軍服と頬に血を浴びた近衛騎士が、その少女らしい弱々しい声と、震えるような吐息を聞いて、先程の殺気も忘れて痛々しげに眼を細めた。遅れて駆け付けていた周りの衛兵も、気遣うように目配せする。
ああ、どうして忘れていたのだろう。
マリアが凝視する中、倒れていた男の肩のあたりから血が細く伸び始めていた。対峙していた時、彼が無傷である事を確認していたマリアは、そこが、彼の毒の刺し傷なのかと察してしまい、更に強く緊張した。
掴んでいた細い腕から強張りを感じ取ったモルツが、崩れ落ちそうになる彼女の腕を引き上げて「しっかりなさい」と声を掛けた。
「それぐらい、見ていれば分かります」
「違う、そうじゃなくて、これ…………」
男の頸動脈に触れたレイモンドが、背後にいるマリアの声を聞きながら、苦しそうに眉を寄せて首を左右に振った。
「こいつは毒だろうな。――……おいッ、ルクシア様を呼んで来い! 今すぐだ!」
レイモンドが、後方に待機していた別の衛兵に声を張り上げた。「早くしろ! 直後の状態をお見せするんだ!」続けてそう指示された衛兵が、慌てたように踵を返して走り出した。
マリアは声を発する事が出来なくて、片方の手でモルツの腕を軽く叩いた。
普段の冷静な表情に戻っていたモルツが、合図の意図を察して、マリアの腕から手を離した。彼は親指と中指で眼鏡を力強く押し上げると、彼女の隣に立ったまま改めて死体へと目を向けた。
絶命した男の口から溢れ続ける血は、波紋を作るように地面を染め上げて、それは、やけに鮮やかで赤い色をしていた。




