九章 その毒の名は(3)上
宰相の執務室を出たマリアとモルツは、文官の青年とベルアーノが走って行く姿を見届けた後、彼らとは反対方向へと足を進めた。
「モルツさんは、宰相様と一緒に行かなくても良かったんですか?」
「バルツファー師団長が向かったのなら問題ないでしょう。彼は剣で語る男ですし、総隊長のガス抜きも必要です」
そのガス抜き一つでさえ、周りはとんでもない迷惑を被る訳だが……
マリアは、グイードのぶっ飛んだ被害妄想による二次被害、三次被害について考えながら、脇を駆け抜けて行く若い騎士達の姿を目で追った。
彼らの後ろから、『救護』の腕章をつけた白衣の男達も次々と続いたが、人選はされているようで、体格の大きな男ばかりだった。通り過ぎていくざわめきに混じって、「またグイード師団長が」という声も聞こえた。
近くに居合わせると、オブライトも高い確率で助けを求められて引っ張り込まれたが、切れない物は避けるしか方法がない、という助言しか浮かばない。
マリアは、心の中で若い男達に「頑張れ」と声援を送った。
しばらくすると、擦れ違う軍人が一人もいなくなった。
近くにいた全員が、グイードとロイドの騒動に回されているのだろう。そう思いながら中庭に面した回廊に出たマリアは、そこに見知った後ろ姿を見付けて「あ」と声を上げた。
前方をのんびりと歩いていたのは、騎馬総帥として普段通りしっかりと着込んだレイモンドだった。
モルツも少し遅れて気付き、「おや」と片眉を引き上げて、マリアの隣で足を止めた。
後方でピタリと止まった軍靴の音に気付いたレイモンドが、こちらを振り返った。彼は「モルツとマリアじゃないか」と目を丸くしたが、ちょうどいいと言わんばかりに歩み寄って来た。
「騒ぎがあったらしいが、何か聞いているか?」
「グイード師団長が、アロー隊長に襲撃をかけたそうです」
モルツの淡々とした報告を聞くなり、レイモンドが、げんなりしたように片手で顔を覆い、回廊の天井を仰いで「またか……」と呟いた。
「アローも災難だな。あまり優秀な人材を苛めて欲しくないんだが……。それで、お前達は今戻りか?」
「はい。総隊長もグイード師団長の元へ向かったそうなので、おろそかになっている書類を、私の方でやっておこうかと思いまして」
「うげっ。じゃあ俺は、向こうには近づかないようにしよう」
むしろグイードがいるなら絶対に行かない。そう口の中で呟き、レイモンドが小さく身震いした。
常々グイードに巻き込まれていた友人を思い、マリアは小さく苦笑した。騎馬隊の時代から、グイードとレイモンドは同部隊の先輩後輩の関係で、ロイドが関わると、グイードは逃げるために彼を生贄にする事が多かった。
王宮では、レイモンドといる事が多かったオブライトも、当然巻き込まれたものだ。
そう思い返していたマリアは、自分もレイモンドと変わらず、かなり可哀想な立場だったんじゃないだろうかと察して硬直した。
グイードに「後は頼んだぜ、後輩達!」と、笑顔でロイドを押し付けられるたび、本気で殺してやろうかと何度思ったか分からない。あの少年師団長は、いつも当初の目的を忘れて、オブライトだけを殺しにかかってくるのだ。
数は少ないが、ジーンも、ロイドが最高潮に怒り狂った時は同じ事をした。彼は「すまんな、親友。お前なら死なないからさ」と根拠のない事を口にして逃げたが、『薔薇園事件』は洒落にならなかった。
あれは、本気で死にかけた。
あらゆる不運と不幸が重なった大惨事が、『薔薇園事件』だった。
あの日のロイド少年は、離宮の一部が崩壊しても止まらなかった。原因はグイードで、彼の怒りを煽ったのはジーンらしいが、ロイド少年は、途中で転倒したレイモンドを無視し「勝負しろ!」と、オブライトにしつこく切りかかり追い回したのだ。
途中でモルツが加わった事で、騒ぎは更に拡大した。彼を毛嫌いするニールが「それならば俺もッ」と参戦して来たのも、良くなかった。
ニールがモルツを排除すべく、仲間達と協力して薔薇園に先周りにし「隊長から離れろ変態めッ」と爆弾に点火したが、排除する気持ちが強すぎて爆薬の量が過剰だった。変態に対して耐性のなかった黒騎士部隊の男達も、それに気付かず同時に点火した。
その結果、全員が合流する形となった薔薇園が派手に吹き飛び、煤と土と花弁みまれになったのだ。無傷だったのは、モルツだけだった。
「…………」
マリアは、思わずレイモンドから視線をそらした。
思えば、登城した黒騎士部隊の面々は、いつもレイモンドと苦労を分かち合っていたような気がする。
深呼吸をして自分を落ち着けたレイモンドが、気を取り直して、遠い目をしているマリアを改めて見降ろした。
「朝振りだな、マリア」
そうですね、と答えようとしたマリアは、ふと込み上げた疑問に口を閉じた。
レイモンドは基本的に、友人や同僚以外に、こんなに砕けた口調で話す事はなかったような気がする。リリーナやサリー、アーシュと話す時も、出来る上司のような余裕を持った表情と話し方をしていたはずだ。
マリアは思わず首を捻ったが、レイモンドが、生粋の貴族にしては細かい事を気にしない男であった事も思い出した。しばし考え、「まぁ、いいか」とレイモンドへ視線を戻す。
「はい。朝振りですね、レイモンド様」
「今の間ってなんだ? 俺、おかしな事言ってないよな?」
「いいえ、別に」
「ふうん? マリアは今から第三王子のところか?」
「まぁ、ちょっと宰相様に呼ばれていまして。状況確認と報告を行っていました」
マリアがそう告げた時、思案するように顎に手をあてていたモルツが、レイモンドへ視線だけを流し向けた。
「レンモンド騎馬総帥は、これから第二王子のところですか?」
「ああ、第二師団との合同演習についてちょっとな。王妃様の茶会も、さっき無事に終わったらしいから肩の荷は降りたよ。ラインベルク公爵令嬢から、狼公の一人娘までいらした豪勢な茶会だったろ? ジークフリート様には、案の定顔さえ出して頂けなかったが」
レイモンドが、困ったように肩をすくめて見せた。
この国の第二王子であり、第一王位継承権を持つ二十歳のジークフリートには、婚約者がいない。国内の有力な娘たちが勢揃いという事は、王妃としては、息子に婚約者をと望んでいるのだろう。
第二王子は女嫌いで有名なので仕方がない、という噂を、マリアも王宮で耳にした。しかし、幼少の頃は女性嫌いなど見られなかったので、不思議でならない。
どこで女嫌いになったんだろうなぁ、とマリアは首を傾げた。
再び視線を下げて深い思案に入ったモルツが、床を睨み付けるように切れ長の碧眼を細めた。彼から険しい雰囲気を察したレイモンドが、「心配はいらないさ」と続けて声を掛けた。
「大丈夫だ、帰りの警備も万全だからな。白百合騎士団に加えて、第四宮廷近衛騎士隊があたってる」
「いえ、そうではなく……」
そう呟いたモルツが、珍しく言葉を濁して考え込む。
ロイドの書類作業が、予想以上に滞っているのか?
マリアは、変態さを完全に潜めたモルツの横顔が久しぶりで、急ぎの書類でも思い出したのだろうか、と物珍しく思った。
王妃たちは、城内の不穏な騒がしさを知らないのだから、茶会を望まれれば開催されるのも仕方がない。その件で警備や護衛等が回されているというのに、想定外に勃発したグイードの方も同時に、となると、一時的に組織側の動きが止まってしまう事もあって、確かに中々大変で――……
そこまで考えた時、マリアは、不意に背筋が冷えるような既視感を覚えた。
脳裏に掠めたのは、以前にもあったある出来事だった。急ぎ古い記憶を引きずり起こしてみると、あの日ジーンが『偶然にしても、一度に全部重なる事なんてないッ』と切羽詰まったように告げていた言葉も蘇った。
「……レイモンド様、一つ、よろしいでしょうか」
「ん? なんだ?」
「アロー様という方は、どこの部隊なのですか?」
「ああ、そうか、教えていなかったな。彼は、第四宮廷近衛騎士隊の隊長なんだ」
アローが隊長だとすると、茶会が解散の運びになった後を部下に任せて、彼は王妃の護衛として共に退席するだろう。そして、一旦執務室に戻った絶妙なタイミングで、彼はグイードに襲撃された事になる。
切れたグイードを押さえるには、必要以上に人手が掛かる。
近衛騎士隊は、騎士専用の第二サロンに近い場所に部屋を構えている。腕に覚えのある近くの騎士達は、グイードの襲撃を受けたアローを救出すべく働きかけるだろう。
そこにロイドも飛び込んだとなると、近くの師団長クラスとその部下も加勢に入り、こちら側は完全に手薄の状況になる。
「レイモンド様。第二王子との面会ですが、なぜ茶会直後に設定されているのか窺ってもよろしいでしょうか? それは、レイモンド様と殿下が、直接話し合われて決めた事なのですか?」
マリアは強い眼差しでレイモンドを見つめ返し、どうにか頭の中で情報を整理しながら、急く思いで質問した。
「いや? 俺は知らせを受けただけだな。殿下としても、どうせ茶会には出席されないつもりだったんだろう。もしくは、参加しても途中退席するかで、誰かとその時間を設定したんじゃないか」
ああ、やはりな、とマリアは揃った条件に眩暈を覚えた。
国内でも有望とされる、第二王子の婚約者候補が揃う茶会であれば、相手にとって都合も良かった事だろう。
大きな問題から目をそらさせるとしたら、恰好のタイミングだ。
昔あったのだ、全く似たような事が。
マリアは、思わず「畜生」と口の中で呻いていた。あれは個人が狙われた訳ではなく、こちら側に傾いていた人望に、揺さぶりを掛けようとして起こされたものだった。
あの頃、国王陛下アヴェインは、元老院にとって都合の良い法律を改正すべく臨んでいた。彼に協力してくれる貴族や権力者が団結を強めた頃、王妃になったばかりのカトリーナが主催した茶会で、オブライトは、それに遭遇したのである。
多分、モルツもそこに気付いたのだろう。
マリアが視線を投げると、モルツもしっかり頷き返した。彼は鋭い視線をレイモンドに向け、揃えた手で眼鏡を押し上げた。
「コレも気付いているようですが、誰かが第二王子に面会の時間について助言し、同じようにグイード師団長にアロー隊長の事を告げたのでしょう。集っている令嬢の半分が、ここ数年でようやく陛下が引き入れた派閥の人間で、もし何か問題が起これば、こちら側の計画に遅れが出る可能性もあります」
「え、つまり……?」
「ここまで言っても伝わりませんか、鈍いですよ、レイモンド騎馬総帥。昔、王妃の茶会が狙われた一件をお忘れではないでしょうに」
「……王妃の…………。はぁ!? マジかよッ」
レイモンドが、まさか、という顔をした。
「可能性は高いですよ。随分な荒技ですが、実際、令嬢の一人が軽傷を負った事で、少なくとも当時の陛下の動きに打撃を与えていましたからね。まぁ転倒した際の怪我で、誰かに切られた訳ではないので、問題は小さくて済みましたが」
モルツから続けて厳しい指摘を受け、レイモンドの顔から血の気が引いた。ようやく危機感を覚えたのか、彼が慌てたように踵を返し「こっちだッ」と手で合図をして走り出した。
マリアとモルツは、茶会後の令嬢達のルートを知る彼を追って、共に駆け出した。




