九章 その毒の名は(2)
ロイドは、机の上で組んだ己の手を睨み、自身の執務室でグイードを待っていた。
先日、十六年という歳月が経った今頃になって、十六歳の初恋から十八歳の失恋、という二重の衝撃に悩まされた。自身に失望してしまうという最悪の結末を迎えないために、ひとまず急ぎ、自身が男が好きではない事は確認して来た。
衝撃の余韻は強く、うまく理解し割り切れていない部分も多々ある。
どうやら失恋の痛みとやらは、思った以上に重症になるものらしい。
オブライトの件について、どうにか一晩で無理やり落ち着かせたのはいいものの、今度は、幼女問題が浮上して彼の頭を痛めていた。
何故か、初めて見た時から、マリアの存在が脳裏に焼き付いて離れない。
宰相の執務室で、ダークブラウンの柔らかい長い髪を揺らめかせて、大きな空色の瞳で、こちらを真っ直ぐ見つめ返した少女。馬鹿な錯覚を払拭するため、手元に置いて観察する予定だったのに、時間を置くごとに気になって苛々した。
馬鹿ヴァンレットが頭を撫でられているのを見た時は、間髪置かずモルツに「行け」と命令していた。モルツを行かした直後、一人になった途端頭が冷えて「俺は一体何をしているんだ」と自分で自分が分からなくなり頭を抱えた。
最悪なのは、二回目に顔を会わせて早々、二人きりになった時だ。
マリアの表情を改めて近くから観察していた途中、プツリ、と何かが切れる音がしたところで意識が飛んだのだ。
「……ありえん」
よくは覚えていないが、――いや、思い出そうとするのを脳が拒絶している。
あの時、少女の凛々しい表情が、眼前に迫って来たところで我に返ったのだが、その一瞬後に、これまで味わった事もないぐらいの恐ろしい頭突きを喰らわされたのだ。
胸倉を掴み、自身の頭を凶器として使ってくるとは、実に漢らしい。
彼女が戦闘メイドだとは分かっている。その辺の軍人よりも使える人材である、というのも認識しているつもりだ。しかし、そこに辿り着く前に、最近は違う事が真っ先に思い浮かんでくるのである。
「イケメンで、可愛い……」
直近の黒歴史を回想していたにも関わらず、ロイドは、マリアから受けた印象を無意識に呟いていた。
数秒遅れて、唇からこぼれた自分の声に気付かされた彼は、「畜生またかッ」と十代にも感じた事がなかった葛藤のまま、机に頭を打ち付けた。
少女に対して、イケメンという評価はおかしいだろう。可愛いって何だ!
実に忌々しいが、衝撃的な初恋と失恋の発覚に続いて、十四歳にしか見えない少女が気になっているらしい、という有り得ない事態が起こっていた。
マリアは、幼さの残る少女らしい顔立ちをしたメイドだ。同じ年頃の少女よりも身長は低く、つい脇腹に抱え持ってしまう手頃な大きさをしている。主張の強すぎるリボンも似合う外見であり、背中に流した長い髪も違和感がない。
マリア本人は自信があるらしい愛想笑いは、確かに外見の幼さもあって、悪くはない。十五歳以下の令嬢にも劣るぐらい、色気は皆無だ。
それにも関わらず、ふとした時に思い出しては、マリアを可愛いと思い始めている自分がいる。
「俺はロリコンじゃない。アウトだろ色々とッ」
くそッ、オブライトの次はマリアか!
ロイドは、思わず忌々しげに机を拳で叩き付けていた。マリアは、彼の女の好みからは激しくかけ離れている少女である。自分は三十四歳だ、あんな幼い少女なんて犯罪だろう。
「……ん? …………いや、十六歳だから犯罪ではないんだが」
またしても遅れて思い出し、ロイドは、数日前から繰り返している台詞を口にした。物忘れなど滅多にしない彼が実年齢を忘れるぐらいに、マリアの外見は幼い。
しかし、そこで開き直ってしまったら、今度はオブライトの件とは別の違う意味で、何かが終わってしまうような気がしている。
人生で二度目の一目惚れ、などではないだろう。まさか、有り得ない。
浮かんだ可能性を即座に否定したが、ふと顔を上げた矢先、応接席のソファが目に止まった。そこに彼女を押し倒してしまった場面が突如として脳裏に蘇り、ロイドは「畜生、踏み止まれ俺ッ」と記憶を押し戻すように頭を抱えた。
常々ヴァンレットを鈍いと評して馬鹿にしてきたが、自分も感情には鈍い男であったらしいと、ここ数日、訳も分からない葛藤に襲われるたびに思い知らされる。
完璧な自分が、人生で最大の苦悩に陥っているなど屈辱である。勿論、誰にも知られたくはないし、見せられない。
しかも、関わるごとに問題が積み重なるという悪循環も続いて、余計にマリアが気になってもいた。
――このドS性悪師団長!
彼女を押し倒してしまったあの日、激痛に襲われて悶絶している中、マリアの声でオブライトの台詞が聞こえた。
きっと精神的なショックが大きかったせいだろうと、幻聴として忘れる事にした。気になったら絶対にマリアの事を考えてしまうだろうし、これ以上、幼女問題が悪化しても困ると思った。
しかし先日、ベルアーノから寄越されたとんでもない報告書を見て、ロイドは絶句した。昔を思い出し過ぎたせいで目がおかしくなったのかと思いたかったが、それは何度見ても、見間違うはずもないオブライトの字だった。
マリアが作ったらしいその報告書を、モルツにも相談せず隠してしまったのは、どうしてか分からない。
咄嗟に込み上げたのは、オブライトを知る人間には、今は見せられないという事だった。根拠もない不思議な現象について探ろうにも、アルプの果樹園で見た彼女の泣き出しそうな顔が、普段は容赦のないロイドを躊躇させていた。
泣いて欲しくない。
マリアの件に関しては、どうしたらいいのか分からず動けないでいる。こんな事を思う自分も、全くらしくない事なのだが……
それに、まずは先に片付けなければならない問題がある。
ロイドは今、またしても男としての自信が揺らぐような危機に直面しているのである。周りの者にこの異常事態が知られないよう、マリアを前にしても平気でいられるような、元の精神状態を取り戻すのが先だ。
「俺はまともだ。ここに来て、ロリコンに転じるような変態じゃない」
組んだ手を口元に引き寄せ、自身にしっかりとそう言い聞かせた。思い返せば、王宮にはあらゆる迷惑なタイプの野郎共が揃っているが、古く長い付き合いのある仲間の中に、幼い子供が好きだというような変態はいない。
自分がその枠に収まるなんて、考えるだけで悪寒を覚えるし、なってたまるかと思う。
「そう考えると、『ぼんやりオブライト』が一番まともだったのか……?」
あまりプライベートを共にした事はないが、問題があると見聞きした事はない。
ひとまずロイドは、仕事に意識を戻して私情を振り払う事にした。今は大事な時期なのだ。気を抜いた隙に仕掛けられて、こちらの予定が狂ってしまう事態は避けなければならない。
そこで現在の時刻を確認したロイドは、腹の中が黒く染まるのを感じた。
約束の時間は過ぎているが、グイードがまだ来ていない。
外に意識を向けると、騒いでいる声が聞こえて状況は何となく察せた。同時に、グイード絡みであった宰相室の騒動で、マリアの毅然とした表情が思い起こされて、今度はその顔を「可愛い」と思ってしまい――
その混乱によって、ロイドの怒りは、一瞬で我慢の限界を突破した。
「グイードの野郎……殺す」
今日の王宮での日程も頭から吹き飛び、ロイドはゆらりと立ち上がると、剣に手を掛けた。




