九章 その毒の名は(1)下
「総隊長は随分苦悩していたようでしたが、疲労もあって『よくは覚えていない』そうです。時々頭を抱えたり、何やら用紙を眺めては慌ただしく隠したり、とまだ本調子ではないようですが」
モルツの話を聞いて、マリアは「ふむ」と腕を組んで思案した。
ここ数日は呼び出しもなかったので、もしかしたら、頭突きが効いて記憶が定かではないとも推測していたのだが、全部とはいかなくとも作戦は成功したようだ。
とはいえ、彼が慌てる様子は想像も付かないが……
見られたくないような用紙とは、『裏』に関わる事でも記載されているものだったのだろうか?
「まぁ私も、経過報告は前半で手短に済ませましたし、後半は、いつもの鬼畜野郎じみた台詞のオンパレードだっただけなので、痛みで吹き飛んでも問題ないかと」
か弱い少女に暴力を働こうとしたのだから、少しぐらい、らしくない様子で苦悩でもすればいい。元ゲス野郎の鬼畜少年師団長とはいえ、彼は軍人としては頼りになる男であり、オブライトが認めていた一人なのだ。
投げやりに言葉を口にしたマリアは、ふと、こちらを見つめるモルツの興味深い視線に気付いた。
背を屈めて覗き込んで来る碧眼は、瞬きもせず眼鏡越しにこちらを凝視した。マリアが、顔を引きつつ「なんですか」と問い掛けると、モルツは「ふむ」と身を起こし、実に不思議だと言わんばかりに少し首を傾けた。
「お前は面白いですね。総隊長を良く知っている、とでもいえばいいのでしょうか」
そう言いながら、彼は少しだけマリアから視線をそらした。数秒の逡巡の後、思考を切り替えたように顔を戻す。
「まぁ今はいいでしょう。さぁ、それではご褒――」
「宰相様に呼ばれたので、モルツさんは黙っていて下さい。ややこしくなります」
瞳をギラリと光らせた彼の、続く台詞を察したマリアは、言葉早くモルツの台詞を遮った。
マリアは、不満そうなモルツを一睨みした後、ベルアーノへと向き直った。モルツは表情の変化が少ない男だったが、長い付き合いなので、一見すると冷酷に蔑むような表情も、ただ面白くないと思っているだけだと分かっていた。
「大変申し訳ございません、宰相様。それで、ご用件はなんでしょうか?」
「ああ、そうだったな、用件……」
少し驚いたように目を瞠っていたベルアーノが、思案するように机の上へ視線を落とし、眉頭に薄らと皺を刻んだ。
ふうっと疲労の窺える吐息をこぼした彼が、「実は」と改めて口を開いた。
「こちらがマークしている者達が、三日ほど前から動きを潜めている部分があってな」
恐らくは、ルクシアが他に目も向けない勢いで、タンジー国に絞りこんで調べ始めてからだろう。ジーンの話から考えると、【謎の毒】がタンジー大国に関わるというルクシアの着眼点は、間違っていないとは分かる。
マリアは、どうしたものかな、と頬をかいた。
ロイドに報告した時点では、【謎の毒】の調査の件に関して、マリアはタンジー大国の名前は告げてはいない。
わざわざ呼び出したという事は、ベルアーノは、ルクシアがタンジー大国に絞って調査を行い始めた事を、最近になってどこからか知ったのだろう。恐らくは、と推測される事はあるが、本題を聞くまではベルアーノの立ち位置を正確には掴めない。
判断が付くまでは安易な対応は出来そうにないと考えて、ひとまずマリアは、彼が既に掴んでいるらしい内容で相槌を打つ事にした。
「……えぇと、もしかして、ルクシア様がタンジー大国の事を調べ始めてから、ですかね?」
「どこからどう導き出されたのかは知らないが、その国名が出るとは思わなかった」
理解し難い、とベルアーノが深い溜息をこぼした。
テレーサとの思い出で、その国をルクシアに気付かせてしまったのはマリアだ。彼女は「そうなんですねー」と言葉を濁し、うまい返答を考えながら視線を逃がした。
「その、調査は手探りですし、ルクシア様は『怪しい』とおっしゃって調べているだけと言いますか……資料も少ないので難航している事も、アーシュから報告されているとは思いますが」
「報告……」
すると、ベルアーノが、ふと何事か思い出したように沈黙し、組んだ手に額を押し付けた。
「どうかされましたか、宰相様?」
「…………君の『報告書』とやらを見た」
「…………あの、すみません……?」
「あんなにひどいのは初めてだ。グイードも、珍しく言葉を失っていたな」
あいつ、またこっちに押し掛けたのか。
迷惑な友人が、また下らない妻子の惚気話か、ぶっ飛んだ被害妄想で泣き付く様子が容易に想像出来て、マリアはベルアーノに同情した。
「お前がどれほど酷い代物に仕上げたのか、興味があります。昔、白紙に書かせると、とんでもない報告書を作る男が一人だけいましたが」
「へぇ、そうなんですね。――というか、ややこしくなるから黙っていて下さい」
何だ、自分だけじゃなかったのかと安堵しかけたマリアは、すぐ我に返ると、モルツを言葉だけで黙らせた。友人達といて、脱線せずに話が進められた覚えがない。
ベルアーノが長椅子の背持たれに身体を倒し、長い吐息をこぼした。
「毒に関して、私はなんとも言えんが、相手の大きな後ろ盾がタンジー大国なものでな。あまり刺激しないで欲しいとも思っている」
マリアは、ロイドでなくベルアーノに呼び出された意味を、ようやく正しく察せたような気がした。
ベルアーノはアーバンド侯爵家の秘密は知っていても、ジーン達のように【謎の毒】には関わっていない。何かしら毒について確信ある推測に至ったロイドとは違い、彼は今のところ、ルクシアの憶測には重きを置いていないのだろう。
ロイド側からは、調査について止めに入るような圧力はかけられていない。
邪魔になると判断されれば、アーバンド侯爵が真っ先にマリアに指示し止めているだろうから、賢王子の知識と推理力は期待もされているのだろう。彼らは造られた毒の現物を追い、マリア達は、その毒の正体を探る役割がある。
忠告もしてこないという事は、上手く動けという意味合いがあるに違いない。
そういう事は、昔もよくあった。現場に立つ人間の判断によって、どれだけ事がスムーズに運べるか変わってくる。少しでも早く問題の解決に乗り出すのであれば、情報を得る手足を止めてしまう方が致命的だ。
自由に動けない友人の為に、今行える最善の事をする。
マリアは一度目を閉じた。すーっと頭が冷えて行くのを感じながら、そっと目を開ける。
「今あるタンジー大国の資料は調べ尽くしましたから、ルクシア様も、今はその国から少し離れていますし、きっと大丈夫でしょう」
そう告げると、ベルアーノが「そうなのか?」と訝しげな視線を向けて来た。
マリアは嘘が苦手なので、ぎこちない笑みを浮かべてしまったが、ベルアーノの不安を払拭するように、労いも兼ねてしっかりと頷き返した。
「おそばにある限り、ルクシア様は私が守ります。ですから、宰相様はどうぞ、安心してご自身のお仕事を進めて下さい」
守るべく剣を握る。昔からずっと変わらない、唯一自分がしてやれる手助けだ。
とはいえ、これぐらいしか出来ないのは申し訳ないけれど……そう思って、マリアは困ったように笑った。
マリアを見つめていたベルアーノの目が、僅かに見開かれた。彼は少し背もたれから身を起こすと、口を開きかけて閉じ、戸惑うように机の上へ視線を落とした。
「不思議なものだな、君を見ていると、まるで。そう、まるで――……」
遠くから見かける事しかなかった、陛下と話していた彼を思い出す、という声が、ベルアーノの口の中に消えていった。
マリアは聞き取る事が出来ず、ベルアーノの様子を不思議に思って首を捻った。モルツだけが、二人の様子をじっと窺っていた。
「心配されているんですか、宰相様? 大丈夫ですよ、ルクシア様も考えて動いていらっしゃいますから。記録保管庫へ通う振りはやめましたが、立場ある人間との接触は引き続き避けているようですし」
「……まぁ、だろうなとは思っていた。実に賢明な人だよ」
「はい、それは同感です。伝言役なら私でぴったりだと思いますけれど、何か伝える事はありますか?」
どうやら、ベルアーノは疲れているらしい。そう勘繰ったマリアは、気遣うべく呑気な素振りで続けて尋ねてみた。
ベルアーノがようやく顔を上げて、質問に答えるべくマリアと目を合わせた。
「ありがとう……。アーシュの方から、殿下には、あまり無理はしないよう以前から伝えてもらっている。君が加わってからは、きちんと食事もして下さっているし、とても助かっているよ」
ベルアーノは、思い出すように目尻を和らげ、頼もしそうにマリアを見据えた。
「今のところ騎士団は多忙だ。アーバンド侯爵からも宜しくと言われているから、何かあれば私のところに来るといい。君は、どうも敬称呼びも合わないようだから、ベルアーノと呼んでくれてもいい。私も『マリア』と呼ぶ事にしよう」
「えぇと、私の事を名前で呼んで下さるのは構わないのですけれど、宰相様を名前呼びは……その、まぁ確かに、気を抜くと言葉使いがなってない自覚はあるんで…………気を使わせてしまって、どうもすみません」
数々の暴言等を思い返すと頭を抱えたくなるが、かしこまっていられない事態が、続けて起こるのがいけないとも思う。
ベルアーノには、出会った当初の騒ぎで見離されたあげく、剣を寄越されたという印象強い一件もあって、つい気が緩んでしまう部分もあった。ニールのせいで、友人達と揃って説教を受けた事でも、更に距離感を覚えなくなっている。
今世では使用人として身分差を一から学んだので、頭ではどうにか理解はしている。
しかし、どうもオブライトであった頃から、実感を持てないでいるのだ。身分や上下関係については口酸っぱく耳にしてきたが、心からそれを実行する事は出来なかった。実感が伴わないからこそ、自分は王宮に合わないとも知っていた。
陰口を叩かれ、叱られるたびに、オブライトは面倒だなぁと感じていた。
それでも離れ難かったのは、大切な友人が多く出来過ぎたせいだ。
とりあえず、相手は宰相なので気を付けよう。マリアがそう考えをまとめたところで、ベルアーノが、苦々しくモルツを見やった。
「……そうだな。ついでに頼まれてくれるのなら、問題を起こされる前にモルツを連れ出して欲しい。彼との話はもう終わっている」
「……まぁ、ついでですし、そうします」
「随分な扱いですね。私がいつ問題を起こしたと?」
モルツが秀麗な眉を僅かに顰め、顎先を上げた時、執務室の扉が激しく叩かれ、ベルアーノの返答も待たずに勢い良く開かれた。
慌ただしく駆け込んで来たのは若い文官で、彼は、室内の三人を見て目を瞠ったが、すぐにベルアーノへと視線を向けて「大変です!」と叫んだ。
「宰相様! とうとうグイード師団長が、アロー隊長を襲撃しました!」
「――ッ」
絶句したベルアーノが、激しく机を叩きながら立ち上がり、長椅子を倒した。
そういえば、以前グイードが『アローの次男坊』と娘の仲を疑っていたなと、マリアは、数日前の記憶を掘り起こした。なんて迷惑な男なんだろうか。視察から戻ってきたアローという見知らぬ男には、強い同情を覚える。
騒ぎの目撃者であり、通りすがりに伝言を頼まれたらしいその青年は、切羽詰まった様子でこう続けた。
「隊の全員で、どうにかグイード師団長を抑え込もうと頑張っていますが、もう色々と壊滅状態ですッ。別の者が、バルツファー師団長へ応援を頼みにも向かいましたが、その」
語る青年の表情が、途端に蒼白になった。
彼は、ガタガタと震えながら、助けを請うようにベルアーノを見据えた。
「さ、さささっきそこで、……ッ騒ぎを聞きつけた総隊長が、色々と壊しながら走っていくのを見ました! グイード師団長、どうやら総隊長との面会の時間をすっぽかしたようで……ッ!」
廊下を駆け抜けた魔王の呟きは、地を這うように耳に入り込んで来たのだと、文官の彼は悲鳴のような声でそう告白した。
「――……あ、あんの馬鹿野郎がぁぁああああ!」
ベルアーノが服の上から胃を押さえ、ありったけの怨念が詰まったような怒声を上げた。




