五十五章 私が「あの頃」好きだったことを(15)
「僕、まだ数歩分しか入ってないけど?」
「ここは神聖な場だぞっ、悪魔は、去れ!」
うーん、相変わらず潔癖っぽいというかお堅いというか、とジョナサンは密かに思ったりする。
「あはは、ひどいね~。僕も関係者なのに~」
ねっ、とジョナサンからウインクをされた聖職者が、「はぁ」と困ったように返事をする。
「ミゲル様、彼は同じ聖職者です。身分証もお待ちでしたし、あなた様とは『深い仲』だと」
ジョナサンに向かって指を向けているミゲルが、そう言われた途端に吐き気をこらえたような顔をする。
「うっ、おぞましい言い方をするな……」
「あはは、作戦成功だ。君のおぞましがる様子を見られて、満足」
「相変わらずいい性格をしている……とすると、絶対にジョナサンのほうだな……」
ぴたりとジョナサンの笑顔が止まる。
「――まぁ、そうだね」
そう口した彼は、げんなりとしたミゲルに顔を寄せた。その端正な顔に浮かんでいた自愛溢れる笑みが、ニィッと脅迫じみたものに変わる。
「よく、分かっているじゃないか」
囁き声を聞き取れなかった聖職者が「美しい顔同士が、近いっ」と言いながら、一歩後退する。
途端、ミゲルはすんっと真顔になった。
「彼は分かっていてやっているし、お前の勘違いも心の中で大笑いしているところだぞ」
「えっ」
「いいから、お前は下がりなさい。この悪魔は私が追い払うから」
「ご友人なのでは……? だって、深い仲だと……」
聖職者が戸惑ったように両者を見比べる。
ジョナサンは、彼にもにっこりと微笑み返した。その聖職者は頬を染めたものの、ミゲルが警告するようにすぐ肩を小突いた。
「お前よりもっとずっと年上だぞ」
「なるほど、神は素晴らしい芸術をこの世に――」
「バカなこと言ってないで、早く行きなさい。休憩はしっかりとるものだ」
「は、はい」
聖職者が気にしつつ、礼拝の場に二人の男を残して、ぱたぱたと去っていく。
「いや~、なかなか素直そうな子だったね」
「お前はどうしてここに来たんだ」
「休みにしたから、来ちゃった」
「帰れ」
ミゲルは舌打ちして容赦なくそう告げ、背を向けた。
「私はお前を相手にしているほど暇ではない。私は――あいつとは、違う」
祭壇までの赤い絨毯を、コツコツと歩いていくミゲルの背をジョナサンは「ふうん」と見つめる。
少し遅れて、ジョナサンも足を進めた。
「いまだ、あなたは当然のように〝その人〟のことが、口から出るんだね」
「…………失言だった、忘れろ」
「いいよ」
ジョナサンがあっさりと答えてやると、ミゲルが足を止めて疑い深そうに見てくる。
目が合ったジョナサンは、――ただにんまりと笑んだ。
祭壇まであと三割、ステンドグラスからこぼれた光に、ジョナサンの美しい笑みは神秘的な雰囲気まで帯びる。
だが、ミゲルは「今にもゲロを吐きそうだ」と呟いた。
「悪巧みする顔だ」
「ひどいな、心外だよ」
「お前、そうしていると聖職者の欠片もないな。普段から聖職者らしいものを着ようとは思わないのか?」
「最近は、爪の先くらいなら神を信じようという気持ちが湧いたけどね」
「なんという奴だ」
信じられないというミゲルの気持ちは、ジョナサンは理解できる。
(昔から、こういう環境で育てばそうなるか)
家など継ぐ予定はないと言っていた。
そんなミゲルが、例の筋肉バカと共に、剣を国王陛下に〝預けて〟王宮を去った。
(そう、預けた。それが重要だ)
ジョナサンはにっこりと微笑みかけた。
「なんだ、気持ち悪い」
ミゲルが後ずさりする。
「僕だけじゃないよ。王宮に若い解剖のプロが再教育を受けているんだけど」
「解剖のプロという言い方も意味深だな」
「彼も僕と同じで、少しなら神を信じてもいい、と。外に出られなくてもいいから、早く仕事をさせてくれと懇願して、彼の闇医者としての腕をどれほど護衛力にもいかせるか検証と、訓練を僕が進めているところ」
どんな刃物でも扱えるジョナサン。いてちょうどよかったと、引き受けてくれないかと指名を受けた。
何せ騎士たちは、暗殺の仕方とは無縁だから。
「さきほどからベラベラと、いったいなんの話しをしている?」
「機密情報」
「なんとなくそうだろうとは思ったがっ、お前はっ、ほんと最悪だな! 用件がないのなら帰るがいいっ」
ミゲルが、ジョナサンの後ろにある扉を力強く指差す。
「あるよ」
直後、ジョナサンはミゲルと一瞬で間合いを詰めていた。
ミゲルが、ハッとして聖職者の衣服に隠していた法具を取り出す。一瞬の間に、剣の代わりに構える。
だが、距離がほぼなくなった時、ジョナサンは法具を美しく指でつまんだだけだった。
「ほらね。あなたの本質は、騎士だ」
「……誤解するような殺気はやめろ、ほんとに根が悪い」
「あははは、警戒しすぎ。僕は暗殺部隊じゃないんだよ? それに〝友人〟は傷つけない」
「ふん。さっさとその用件とやらを言え」
「うん。陛下からの頼まれ事でもあるから、ちゃんと聞いてね」
ミゲルの気が一瞬で引き締まる。
「なんだと? 陛下?」
「ミゲル、確実に戦争になるよ」
「…………」
長い沈黙ののち、ミゲルは動くことを思い出したように法具を下ろした。
「……それは、確実なのか」
「参加するのなら身体の準備もいるでしょ?」
ジョナサンは剣の返却についての、アヴェインからのメッセージをそのままミゲルの耳元で囁く。
ミゲルは胸にも刻むように、ただただ静かに聞いていた。
間もなくジョナサンは、ミゲルから距離を取る。
「まっ、参加するしないは勝手だよ。ただ、陛下はできるだけ死者を出さないためにも、強い者たちには一時、復帰してもらいたいと考えている」
「お前はどうするのだ?」
「僕? もちろん、参加するよ」
ジョナサンは「当然でしょ」と言って、声を上げて笑った。
ミゲルはたったその返答内容だけで察したようだ。あれほど警戒していたというのに、今度はしんみりとした様子で見つめてくる。
「あなたのそういうところ、僕、大嫌い」
「笑顔で言うか? 照れる方向性まで歪んでいるな、まったく……お前が代表になることを家族は知っているのか?」
「その時がきたら話すよ。ブライヴス家の代表として、僕が行く。弟には、奥さんのそばにいてもらわないと。一人にはできないでしょ?」
ジョナサンはにっこりと笑うと、彼に背を向けて扉へと向かって歩き出す。
「はぁ。愛の理解はあるのに、どうしてそう歪んでいるんだ……」
「理解しているだけマシじゃない。僕、親孝行のうえ、家族孝行だし」
「里帰りしたお前がさっさと帰って悲しかったと、社交界でご両親が話して回っていたと噂を耳にしたが?」
「あれは、ほんと忙しかったんだもん」
そのあと――運命の再会が待っていたのだから。
ジョナサンは上機嫌に扉から出る。
後ろからミゲルの「いい年齢をした大人が『もん』と言うとは――」と久しぶりの説教が続いていたが、もちろん怒らせると分かって、ジョナサンは鼻歌をうたいながら扉を優雅に閉めてやった。




