五十五章 私が「あの頃」好きだったことを(13)
(あ、アレだ。子供みたいな笑い方なんだ)
子供が嬉しがっていた時の表情に似ているが、彼の素の笑顔はそれに似ているのだろうとマリアは推測した。
けれどそのロイドの笑顔が、なぜだかマリアの目に焼き付く。
少年のロイドが、少年らしくなくて気にかけたことだってあった。
あの頃には見られなかったその肩の力が抜けたような自然な笑みに、正直『よかった』という思いが、マリアの胸にぐっと込み上げたのだ。
今は彼を縛りつけるものは、何もない。
(父親のほうとも、うまく和解したのだろうか)
前ファウスト公爵。気難しそうな男だったが、マリアにはただ冷酷なだけの人だとは思えなかった。
彼とは、社交界で二回ほど顔を合わせた。いつか、また――と思っていたものの、間もなくオブライトは、最後の戦いに出たのだ。
「どうして笑っているんです?」
でも今はいいかと思えて、マリアはつられて笑った。
「今は、これでいいかもなと思えてな」
お互いまったく違うことを考えているはずなのに、同じ言葉が返ってきてなんだかおかしくなる。
「意味が分かりません」
「つまり、幸せだ、ということだ」
ロイドの変な回答に、マリアはきょとんとした。
じっと見つめていると、彼が突然「いや」と否定の言葉を口にして、手をそっと下ろしていく。
「これで満足したくない」
「はぁ……?」
何やらロイドの強さが戻った笑みに、胸がざわめく。
それは嫌な予感とか、そういうものではない。
なんだか、マリアの経験したことがない甘さを孕んでいる気がする。
「ところで休日でここに一人いるようだが、何をしているんだ?」
「えっ、えぇと、とくに目的はないんですけど、いろいろと王都を見て回ろうかなぁと。そうっ、つまり、ただの散歩です」
「そうか。俺も暇をしていたところだ。お前の散歩に同行させてくれないか?」
「え!」
「何かしたいことがあったのなら、付き合う」
予定が崩れてしまうと思っての『え』ではなかったのだが、あのロイドが前もって計画していたことがあるのならそれを尊重するという態度を示した。そこにも、マリアは動揺した。
「いえっ、したいことはほんとあまり考えないまま今を迎えていると言いますかっ。ロイド様を付き合わせるのもとんでもないですし」
「なぜだ」
「文句を言われたり切れられてもなんなのでっ」
思ったことが口から飛び出た。
ロイドが悩んだみたいに間を置く。
「文句? 切る? ……お前は俺をなんだと思っているんだ?」
「え? ドS野郎ですけど」
答えた瞬間、マリアの視線の高さからロイドが消えた。
「……何してんの?」
思わず素で尋ねてしまったのは、ロイドが急にしゃがんで驚いたからだ。
彼は口を手で覆っていた。マリアが確認するなり「ぐはっ」と妙な吐息をもらし、頭の位置がさらに低くなる。
「えっ、ちょ、本当に大丈夫ですか?」
「……なんだか今、忘れ去った少年時代に心揺らされたあの衝撃がきて……」
マリアはその返答に、何やらもやっとした。
「…………へぇ?」
自分が恋をしていたから察せた。
意外なことにロイドはあの当時の少年時代に、それなりに恋愛経験があるということだろうか。
「ん? マリア、どうした?」
ロイドが顔から手を下ろし、見上げてくる。
破壊神なのに、目の前の彼は気にしてちらちらとうかがってくるわんこみたいに見えた。
たが今は、そんなことどうでもいいくらいに、マリアは心が静まり返っている。
「ロイド様は意外にも純に焦がれ、心揺らされた少年時代があったようで」
ハッとしたようにロイドが口を手で押さえる。
「……俺、何か口走ったか」
「はい」
「違うんだ、誤解だ」
「何が誤解かは興味ないですので、説明は不要です。言い訳にしか聞こえなくなると思いますし」
「なぜ俺がお前を怒らせてしまったのか分からないが、とにかく謝る――ん?」
慌てて立ち上がったロイドが、突然首を捻る。
「これまでもたびたびそうだった気がするんだが」
「そうでしたか? ああ、そうだった気もしますけど、興味がないので内容は聞き取れていません」
自分でも驚くくらい、どうしてか分からないが子供じみた突っぱねる口調が出た。
「そうだよな、気に留めていないから聞こえていなかった感じだろうと俺も推測した――ということは今、マリアは俺の過去を含めて興味があるということか?」
マリアは沈黙した。
二人の間を穏やかな風が流れていく。
青い空で飛んでいく鳥の鳴き声が聞こえてきた。ロイドも付き合うように、じっとマリアを見つめていた。
「え」
ようやくマリアの口から、そんな声が出た。
けれど、考え事なんてできていなかった。思考が完全に停止してしまっていたのだ。
「分からないようなので、ヒントをやってもいいか」
「突然、なんですか」
「このまま待っていてもいいんだが、年下をいじめているようで気分はあまりよくない」
「ロイド様、いつもやっているじゃないですか」
マリアは思わずツッコミしたものの、次の彼の言葉に固まった。
「お前に苛立ったように言われた際、過去に付き合ったことがあるのかと、恋人に問い詰められている心地だった」
「……っ」
言われてみれば確かに、そうとも受け取れる。
(私は、私に求婚しておきながらあの頃に、とか思ってしまって――……)
ゆっくりと頭を整理しながら、マリアは自身の口元に手をゆるゆると持ち上げる。
隠そうとしたが、間に合わず赤面していた。
唇の下に触れた手に、熱くなった自分の肌の温もりを覚えて、マリアは一層真っ赤になってしまう。
「え――可愛い」
それは、ロイドからのほんの小さな声だった。
恐らくは独り言だろう。なぜだかタイミングが悪いみたいに周りを行き来する人々の話し声や足音が一瞬小さくなって、馬車の行き来が途絶えて、彼の呟きがはっきりとマリアの耳に触れたのだ。
赤面を正面から、はっきり見られた。
そう頭の中で状況を整理した瞬間、マリアは、気付けば彼に背を向け、それはもう全速力で駆け出していた。
「あ、待てマリア!」
女の子が爆走しているぞと視線が集ま目のを感じる。
けれど、相手がロイドであることをマリアはすっかり忘れていた。
「分かったわかったっ、今は考えなくていいからっ。だから離れてくれるなっ」
「ぐぇっ」
後ろから両手が伸びる。今の自分よりも太く、たくましい大人の男の手が見えた次の瞬間には、あっという間にマリアは後方へと腹を抱き寄せられていた。
(……い、今の身体の長さを忘れてたっ)
わきに抱えられて、呆然とする。
今のロイドから『マリア』の身体で、逃げられるはずもない。
「お前はほんと……ここまで俺の手を煩わせる女はいなかったぞ」
「えーと……なんか、その……すみません」
彼の周りというと貴族の令嬢、と思い浮かべて間もなく、マリアは詫びた。
確かにロイドの周りにこられる女性に、そんな相手というものなかなか稀有だろう。
「あ、言い方を間違えた。違うんだ、俺は、くそっ、お前相手だといつもうまくいかないな」
彼が片腕にマリアをぶらさげたまま、前髪をかき上げる気配がした。
(小さい自分が憎い……)
まるで成長が止まってしまったみたいだとは、使用人仲間にもジョーク交じりに言われたことがある。
それを述べる際、なぜだかフォレスやガスパーは少しだけ気にした目をしていた。
精神的な何かが成長を拒絶しているのではないか、と。
マリア自身はまさかと思っていることだが、アーバンド侯爵は身長の伸びに関しては言わないようにと静かな口調で、一度だけみんなに述べていたのは聞いたことがある。
そんなことよりも――気になるのは、ロイドの台詞だ。
(私相手にはうまくいかないというのは、私が、彼の知る女性たちとかけ離れているせいだろう?)
何やら気にして、マリアはロイドの顔をちらりと盗み見た。
彼は、女性の友人はいないのだろう。
だから、友人たちと何ら変わらない枠に入ってしまったマリアの扱いに、戸惑っているだけで――。
「何か、また変な勘違いをされていそうだな」
視線に気付き、ロイドが顰め面を返してきた。どこか困ったような感じがするなと、マリアは珍しいように思って小首を傾げたのだった。




