五十五章 私が「あの頃」好きだったことを(12)
馬車でしばらく走ったのち、マリアは王都の中心街で降ろされた。
(高級な店も多い場所……私には不似合いなんだが?)
下車を手伝い、馬車の中へと戻っていくフォレスをじとっと見つめた。気付いている様子だが、彼はわざと涼しげな微笑を浮かべて、何も言わない。
(財布の金を使えと? いや、無理)
好きなだけ興味があるものを食べたって、ほとんど減らないだろう。
気に入ったもの、目に留まったものは購入するといいとアーバンド侯爵は車窓越しに告げた。重ければ侯爵邸へ届けるように言えばいい、と。
「買い物の風景は見ているから、その手順は大丈夫だね?」
「………はい」
いや、買いませんからね? とマリアは視線で強く訴えた。
アーバンド侯爵は、馬車を拾う気分にならなければ、数時間後であれば自分が迎えて帰れるとも提案された。その際にいる場所を教えられて、何かあれば知らせを持たせるように近くの騎士にでも伝えなさい、と。
帰宅時間の制限さえ言われなかった。
自由ということだろう。でも、マリアはリリーナがいる夕刻には屋敷に帰りたい予定だ。
(よし、分かった。とりあえず、何か食べよう)
巡回の時もそうだった。
走り出した侯爵家の馬車をしばし見送りながら考えていたマリアは、よしと決めて、王都の町並みと向き合う。
改めて見ても、何もかも美しい場所だった。
そしてそこは――一瞬、胸が切なく締めつけられるくらいに、当時と変わらない。
(あそこで確か、パーティー用の服をみんなと揃えたんだったか)
マリアは思い返しながら、ゆっくりと足を踏み出した。
思っていたより足は軽かった。
いや、以前アーシュたちとメイドとして歩いて時とも違っている。驚くほど軽やかで、これは、まるで――。
(こうして歩いていたら、テレーサに偶然、よく会ったな)
マリアは普段のメイド服とは違う、柔らかで長いスカートの感触を覚えながら、ゆったりと歩く。
普段とは違って、財布や小物が入るくらいの最小限の、腰に巻いたお洒落で小さなポーチを少し揺らしながら。そして年頃の裕福な少女の衣装に合う金糸入りの、大きなリボンを揺らして、たまに近い年頃の子たちや男性たちの視線を集めながら――。
その視線を察知できないくらいに、マリアは落ち着いていた。
ただただ純粋に、見るもの、匂いを感じながら、今とあの頃に思考は行き来する。
(今思えば、それが彼女の『仕事』だったからだというのは、分かる)
当時の自分もよく気づかなかったものだなと、今さらになってマリアは自分にちょっぴりだけ呆れてしまう。
でも、なんだっていいのだ。
知ってあとに当時だって同じことを察した。
だが、あの時でさえそんなささやかなことは、どうでもいいのだと思えた。
関係ない。だって、会えるだけで嬉しかったから。
何も知らなかった当時、オブライトは偶然にもテレーサに会えないものかと、休日も出歩いたものだ。
軍服だと見回りだと勘違いされるし、私服だと彼女に気づかれないのではないか。
そう心配しながら、目印になるようにと軍服で歩いた。
一回目、二回目――そして三回目でようやく、偶然の再会を作ることができた。
(ああ、私から、彼女を捜してもいたんだな)
マリアは小さな笑みをもらす。
けれどその横顔には、少し寂しさが漂う。
もう、手が届かない時間。思い出。食べ物屋も混じる大通りへと足を進めたマリアは、その風景に当時の思い出を重ねた。
マリアは、もうオブライトではない。
終わったことは自覚している。相棒のおかげで、友人たちのおかげで。そしてマリアとして出会った人たちのおかげで、ようやくそう理解できるようになった。
(もう私は、侯爵家に拾われた頃のように、捉われてはいない)
それでも当時テレーサを愛していた気持ちは、自分のことのように鮮明に思い出せる。
だから、どうしていいのか分からなくなるのかもしれない。
(そうだ、この道だった)
恐れもなく、マリアの足はある場所を目指す。
そこは風景を見ていて蘇った記憶の一つだった。会えないかと密かに期待して歩いていたオブライトが、テレーサに声をかけられたところだ。
マリアの歩調は、当時と同じようにリズムを刻む。
そこにマリアはほっとした。ようやく、ここまでこれたのかという実感が湧く。
(懐かしいな。何度かは、ここで会ったんだ)
記憶がどんどん鮮明によみがえってくる。
こうして歩いていたら、どこからかテレーサが自分を見つけてくれて、『オブライトさん』と呼んで――
「あ、マリア」
聞こえたのは彼女ではなく、〝彼〟の声だ。
頭の中が十六年前に戻っていた一瞬後、マリアは、大人になった少年の声にハッと現実の自覚軸へと引き戻される。
振り返ると、人混みの中にロイドがいた。
人が多くいようが、すぐに捜し出せてしまう美貌が彼の存在を際立たせる。ほとんど黒に近い髪も目印になっているだろうか。
彼は珍しく色の明るい貴族衣装を着こなしており、そこもまたロイドのあまりない髪色を目立たせているようにマリアには感じられた。
「……なんで」
なぜ彼が、ここに?
マリアはその空色の目を、静かにゆるゆると見開いていく。
「お前こそ、どうしてここにいる? 珍しいな」
気付いて歩み寄ってきたロイドは声が拾える距離まで入ったようで、そんなことを言ってきた。
彼が珍しがるのも当然だろう。
マリアも、前世みたいにこうして用もなく歩くことは、ないだろうと思っていたから。
「私服で何をしている? 誰かのお供か?」
「ち、違う、いえ違います。私……休みなんです」
へぇ、という感じでロイドの目がちょっと開かれる。
その態度にマリアは少し肩の力も抜けた。
(この反応からすると、ロイドは知らない、のか……?)
彼のほうも、今日は様子がガラリと違っている。
マリアは、なんとも見慣れないロイドの私服へと視線を下ろした。
黒い軍服のイメーシが強いのに、今日の彼は青味を帯びた明るい服に、組み合わせも上品だと思える高級そうなジャケット。白い手袋も似合っていて、頭の先から靴の先まで貴族感が漂い、マリアはついしげしげと観察してしまう。
「よし」
何やらロイドのほうから声が聞こえて、我に返る。
(やべ、黙って見過ぎたことにいつもの嫌味がくるぞっ)
パッと彼の顔へ視線を戻したマリアは、直後に『はて?』と首を傾げる。
(……相変わらず愛想もない無表情だけど、怒ってはなさそう?)
じーっと見つめていると、ロイドが腕を組む。
「お前が休日なのは理解した。しかし、それなら一人でどうしてここへ?」
よく分からないらしい。同じく首を傾げてきた様子が、何やらいけしゃあしゃあというか、どことなく真似をされているみたいでもやもやしたものの、破壊神が素直に不思議がっているせいだろうと思い直した。
そもそもロイドが殺気もなく、落ち着いてただ疑問を問いかけているなんて、彼も大人になったものだ。
「私は……ん? 待ってください、ロイド様こそ、お供もつけずどうしてこちらに?」
「急に警戒するなよ」
彼が呆れたように息を吐く。
「俺だって、ずっと『総隊長』でいるわけではない。公爵でいる時間も、長い」
あ、とマリアは思い出された。
あの頃と違って、彼が今は『ファウスト公爵』なのだ。
「用事が終わったので、久しぶりに歩いてみようと思っただけだ」
「そう、だったんですか……なんか、すみません」
あのロイドが散歩なんて、と一瞬でも考えたのは失礼だった。マリアは素直に謝る。
オブライトも、大人になってからはとくによく歩く時間を持つようになった。
年齢を重ねれば分かることというのは、確かにあるのだ。
「それで、誤解は解けてくれたかな?」
「まぁ、はい」
彼の柔らかな問いかけには慣れなかったものの、マリアはこくりとうなずく。
そう答えたところで、急に何やら落ち着かない気持ちになってきた。
偶然、テレーサに合えた場所。そこで偶然ロイドに会えたことに、何やら自分の胸が甘く騒ぎだしているのが分かる。
会えたのが、声をかけてくれたのがロイドでよかったと思っている自分がいるからだ。そう自覚していたからこそ、どきどきしている己の鼓動にわけが分からなくなって頭の上に疑問符をいっぱい浮かべた。
「――ふっ」
その時、小さな笑い声が耳に入る。
ふっと見上げると、何やらロイドが手の甲で口元を隠して、笑っている。
嬉しがって、つい口元が緩くなってしまったみたいな。そう、これは、まるで――




