五十五章 私が「あの頃」好きだったことを(9)
泣くな。頼むから――ロイドは、そう強く思った。
どうも彼は、マリアの涙にはこれまで感じたことがないほど心を揺さぶられた。
泣かないでくれ、という言葉が真っ先に頭に浮かんだ。守りたい、と。どうしてか、これ以上つらい思いを今はするなと、――ロイドの心が彼の身体と本能を突き動かすのだ。
「――まぁ、あいつがそうしろと言うのなら、するべきなんだろうな」
ロイドは思案顔で、椅子にぎしりと背をもたれて紙を口元でとんとんと揺らす。
そうでなければ、急ぎ伝言など持ってこさせない。
ジーンは、とにかくマリアを一人のままでいさせたくないらしい。
だから、ロイドに、偶然を装って交流しろ、と。
明日、探す時間を取って王都を出歩けということか――。
「ふっ、ジーンはまだ甘いな」
ロイドは、少し前の打ちひしがれていたことも忘れて、ニヤリとする。
「そもそも偶然も、こちらで作って操作すればいいだけだ」
モルツは忙しいし、邪魔もされたくないのでこれから自分で動くことにした。
モルツもモルツで、なかなかマリアに懐いている。
そこも不思議であるし、ふっと何かを思い出されそうな気がしたのだが――出るため扉を開けたところで、ロイドはそれをいったん忘れることになる。
「やぁ。こんにちは。君の優しーい司祭様だよ」
語尾に、音符マークがつきそうな台詞。
ロイドに対して天使みたいな笑みを浮かべて、軽く右手を上げている聖職者。
ジョナサン・ブライヴス。くすんだ金髪を持った、黙って微笑んでいると確かに天使みたいにも見える美しい男だ。
「そんな優しい司祭など、いない」
ロイドは、数秒後に扉を素早く閉め直した。
すると『鋼鉄かよ』と感じる音を上げ、ジョナサンの神父靴が扉の隙間に素早く差し込まれた。
「やだなぁ、久しぶりなのに楽しい反応してくれるね」
「去れ、疫病神」
「あはは、それ、君が言う?」
にこにこしたジョナサンが、ロイドの怪力に対してギリギリ音を立てながら徐々に扉を開けていく。
「何の用だ。俺は忙しい」
「知ってる。だから手短に済ませたいんだ」
「なんだ、お前も何か用が?」
「うん、陛下からの」
意図的に短く返された回答に、ピタリとロイドは手を止めた。
廊下を歩いている者たちをちらりと見やり、彼はジョナサンを誘って人々と同じく歩く。
「それで、誰を探している」
「ミゲル」
小さな声で尋ねた途端、同じく前を向いているジョサンから返ってきた名前に、ロイドは眉を寄せた。
「あいつなら今は軍籍ではない。今のお前とは同業だろう」
彼は家督を継いだ。ロイドは同時期に去っていった、いつも愉快そうに大笑いしていた大男と一緒に、彼が王宮から出ていった最後の後ろ姿を思い出す。
「王都内にいるのは分かるんだけど、どこを任されてるのかな~と思って」
「……教会側には知られたくないことか」
「まぁね」
なんの用かは知らない。だがアヴェイン関係なら、問うのはご法度。
「探す手間もはぶきたくて」
「分かった。教える」
これ以上説明は不要だと言わんばかりに、ロイドは答えた。
そもそも話しを楽しむつもりはない。彼は歩きながら小さな声で、手短に、ミゲルが現在いる教会をジョナサンに教えた。
◆
それから少し経った頃。
まだ、リリーナ達が帰宅する前のことだ。
アーバンド侯爵は社交から帰宅したのち、フォレスを同行したまま二階の書斎へと入った。届いていた手紙を確認する。
「おや、面白い手紙が来たね」
黒い包みなので〝裏〟軽油だと分かるが、そのうちの一つを手に取って開いたアーバンド侯爵は、まさかの内容で笑ってしまった。
「珍しいですね、何が書かれておいでなのですか?」
「ロイド・ファウストから、父親としての私宛てへの手紙さ」
そう彼から回答を受けたフォレスは、細い顎に手をあて「ふむ」と言う。
「確かにそれは珍しいですね」
「ふふふ、だろう?」
「かなり愉快そうでございますが、どのような内容が書かれておいでなのです?」
「協力しろ、だと」
アーバンド侯爵は、その手紙を差し向ける。
見ていいようだと分かったフォレスは、その短い文面――というか要求文を覗き込んだ。
「はぁ。旦那様に、よくもまぁこのような要求を」
「ふふっ、マリアの求婚者は面白いねぇ。友達も面白いけど。もちろん娘のことになるのなら、私は喜んで協力するよ」
フォレスは少し考え、同意の顔で頷く。
それを見て、アーバンド侯爵はとても若々しい笑みを浮かべる。
「今回も合格点かな」
そう言って彼は、至急返事をしようと言ってフォレスに用品を揃えることを指示する。
フォレスが「かしこまりました」と答え、頭を下げた。
だがそこで二人は、同時に『おや』という顔を扉の方へと向けた。
「――急ですが、よろしいでしょうか」
一つの声が扉の向こうから上がる。
王宮からの〝急ぎの知らせ〟だ。
「まったく、また新しい手紙かな。こうも続くのは珍しいよねぇ」
「タイミング的に催促が浮かびますね」
「ああ、例の?」
だから〝急ぎ〟か、と口にしながらアーバンド侯爵は訪れた〝使者〟を入れる。
その者は、扉から入って数歩で足を止める。
やや影になったその人物から、フォレスが「本日もご苦労様です」と言って手紙を受け取った。
「申し訳ございません。追加のご連絡を届けに来てしまい」
「いいよ、君の仕事は大丈夫だったのかな?」
「もちろんです。〝私の〟管轄案件と人物であったため、お王宮から〝ひとっぱしり〟を」
「あはは、君も足が速いものねぇ。ちょうどよかったよ、持たせたい返事もあった。それも頼んでもいいかな」
相手は笑いにつられることなく、ローブから手を出して左胸に添え、恭しく頭を下げる。
「おうかがいをする必要などございません。どうぞ、ご命令を」
アーバンド侯爵は、やはり読めない微笑みを浮かべる。
相手の〝若い彼〟は無表情だったが、その指先が僅かに緊張を見せた。
書斎机にゆったりと腰かけたアーバンド侯爵が、鼻歌でもうたうみたいに手紙を開封する。
間もなく、手紙が開かれる音が静かな室内に上がる。
「フォレス、見てごらんよ」
にこやかに見せられたフォレスは、溜息をこらえる顔をした。
「そうほいほい見せていいものでもないでしょうに」
「家族じゃないか。だめ?」
「ふぅ――いえ」
文面をフォレスは確認する。
「ははぁ、やはりまたアトライダー閣下ですか。どうされます? 彼、また来ますよ」
「そうだねぇ。国王陛下のアドバイザーにして、第一守護者はほんとに諦めが悪くて、そのうえ目敏いねぇ」
アーバンド侯爵は書斎机に肩肘をのせ、頬杖を軽くつく。
「私の方で〝警告〟でも入れておきましょうか」
「いや。ここは情報を一つくれてやろうか」
軽い口調でそう言い、手紙の返信用具を引き寄せたアーバンド侯爵に、フォレスはそっと眉を寄せる。
「よろしいので?」
「欲は一つ、満たせるだろう。相手も納得する。それでいて今はそれ以上深く探らない方がいいと相手も警告を理解する」
待っている若い〝使者〟が「欲」と繰り返す。
「どうして欲しいみたいでね。でも、今陛下に話してもらっても困るし――これでしばらくは、彼の方もこのことで探りを入れる動きはさすがにやめるだろうさ」
◆
ややあって、アトライダー侯爵邸に一人の訪問者が現れる。
「ごめんください――」
対応に出た使用人は、旦那様の知り合にしては若すぎることに目を丸くする。けれど語られた用件を聞いて、仕事の衣装からも納得した。
「まぁまぁ、忘れものをわざわざ届けに?」
「近くに立ち寄ったものですから。袋の中にアトライダー閣下への言伝も入れていますから、私はここで失礼します。王宮に戻らないと」
「ご苦労様です」
目尻に優しい皺を刻んだメイドは、旦那様の知り合いとはいえ名前は聞いておこうと思う。
けれど、そう思って荷物から目を上げ、不思議がった。
「……あら? もう帰ってしまわれたみたい」
そこに、使者の姿はもうなかった。
早めに帰宅した旦那様ことジェラン・アトライダーに報告をする際、とても驚かれることも知らずに彼女は建物の中へと戻る。
そして――
「ああ、旦那様、ちょうどよいところに」
彼女は玄関ホールを横切ろうとした主人を見つけ、声をかけた。