五十五章 私が「あの頃」好きだったことを(8)
ロイドはやっぱりやめておくと言わんばかりに身を引き、顰め面を浮かべた。
だがそんなことで、この男がこの手の話から引くはずがない。
今や娘バカもひどいグイードが、察知したみたいに「何々っ」と書斎机へ両手をつく。脇に挟んでいた書類がバサリと落ちていった。
「おい、機密文書を落とすな」
「んなのは今はいいんだって! すげぇ面白そうな話じゃんっ、つまりマリアちゃん関係で、なんか『やせ我慢』したんだろ? めっちゃ知りたいっ」
「……言わなきゃよかったな」
「もう聞きました! ばっちり記憶に刻んだぜ後輩!」
身を乗り出し、親指を立てたこの一児の父をぶっとばしたい――とロイドは思った。
ツンを発揮しているルルーシアが、実のところ大好きでもあるパパと例の舞台を見に……と思うとできない。
ロイドは彼らの子供には『とってもいい人』と思われている。
嫌がらせの材料に、そう仕組んでいるのだが。
(デレに対して、ツンの娘)
そんなことをロイドがつい考えているとも知らず、グイードは勝手に喋りまくっている。
「いや~、お前が我慢って! いいね、恋だな、俺もアリーシアちゃんと結婚する前は、そりゃ楽しかったもんさ。毎日彼女のことで頭がいっぱいだった」
うんうんとグイードが言う。
――あ、これは長くなるな。
そうピンときた途端、ロイドは聞くのをやめることを決める。
悶々としていたせいでとうとう誰かに言いたくなってしまったわけだが、相手を確実に間違えた。
(いや、こいつ以外に言えそうにもない……のか?)
はっきり言ってくれる分、まぁ、助かる。
とはいえ何も、解決はしない。
(はぁ……ちくしょー、好きすぎる)
ロイドは腕を抱え、椅子の背にぎしりともたれかかる。
彼は朝からずっと悶々としていた。
正確に言えばマリアを見た時から、というべきか。
――大人ぶって、我慢しなければよかった。
ロイドは、マリアにいいところを見せたくて〝きちんとした〟ことは自覚していた。
(俺だけが彼女をすごく好きすぎるんだよな)
溜息と共に、いつも彼女関係だとままならない自分を思って、前髪を書き上げる。
目の前のグイードのアリーシアとの結婚前の話は、いまだ終わる様子がない。
マリアに会ったとしても、またすぐに会いたくなる。昨日も仕事が忙しくて見られなかったら、その気持ちはますます強い状態だ。
今日にでも、すぐ会いたくなった。
顔を見て、喧嘩みたいなやりとりでもいいから話せないかな、……とか考えた。
(乙女か、俺は)
溜息をこらえる顔で、思う。
だが仕方がない。自分だけが好きなせいで、いつもの余裕なんてない。
いつも追い駆けてしまうので、たまには彼女から追ってこないかなとか、意識してくれないかなと思って期待してしまった。
それで朝、強がって何も反応を見せないまま去ったわけだが。
(――失敗した)
彼女を好きすぎるのはロイドだけなのだと思い出した。
気になりすぎて見に行ったら、案の定マリアに『はあ?』という顔をされた。
声をかけてくれないだろうかと思っていたものの、とくに関心もなく、顔を見られただけで終わってしまった。
「……なぁ、無理に声をかけるより待った方がいいのは正解だよな?」
「まーなー」
グイードが書類を拾い上げる。
「でも時と場合によるかな、お前も知っているだろ」
身体を起こした彼が、書類で肩をとんとんと叩きながら言う。
「というかさ、ハニートラップも全然引っかからないうえ、かえってそういうの得意なお前が全然たちうちできないって」
「笑うな殺すぞ」
「表情と言葉が合ってないのよ後輩……何考えてんの?」
「そこまで教える義理はない」
調子に乗るなという口調でロイドは話を終わらせる。
「とっとと行け、ルルーシアを待たせることになったらどうする」
「めちゃくちゃ気になるけどそうするわ」
グイードが軽やかに扉へと向かう。その背中で軍服のマントが揺れていた。
今のロイドと同じ銀色騎士団のマントだ。
昔、グイードのそこにあったのは、見栄えがいいことでも知られた目立つ騎馬隊のものだった。
それを、ロイドはよく覚えている。
「アリーシアにもよろしくな」
つい、声をかける。
グイードが肩越しに振り返ってニッと笑った。
「おう、ありがとよ。喜ぶと思うぜ」
彼は「じゃーなー」なんて、ロイドに対してもとくに平然と言ってのけて出ていく。
(これまでなら、――見かけただけでも満足できたのにな)
ロイドはもう訪問予定がない執務室で、ぐっと腕を伸ばした。
無自覚だった頃はそうだった。そして自覚してからは一層、マリアを見かけるたび、つい目で追いかけた。
けれど、隣にいても逃げてくれなくなって、気軽に言葉を交わせるようになって。
そうして彼女が、真っすぐロイドの目を見てくれるようになり、髪にも触らせてくれるくらいまで許してくれたと思うと――もう止まれないのではないかと思う。
彼女が、欲しい。
もう少し触れたい。欲を言えば触ることを許して欲しい。
その心にも触れたいのだ。自分のことを意識してくれないだろうかと、ロイドはもっと欲深くなる。
(その俺が……髪に触れるだけでも慎重になるとは)
こんな感覚は、いつ以来だろう。
ロイドは、昔にもあった気がした。
たとえば――オブライトだ。手を引かれた際、つん、と触れた初めての指先を意識した。
「総隊長、よろしいでしょうか」
その時だった。
ノック音がして、過去の光景が一気に頭の中から遠ざかる。
何か急ぎだろうか。ロイドはもう予定はないはずだがと思いつつ、今の状況であればどんなことも可能性があると判断し、入室の許可を出した。
すると、入ってきたのは騎士だ。
「大臣様からだそうです」
その報告に、ロイドは訝って顔を顰めた。
(ジーンから?)
騎士の話によれば、衛兵が警備が敷かれている廊下のすぐ手前まで持ってきたそうだ。どうも『急ぎである』、とか。
何か進展か、またはイレギュラーでも発生したか?
ロイドはその紙を持ってこさせたのち、騎士を早々に出した。その間に考えていたものの、どれにも予感に的中するものではなさそうだと判断に至る。
(とすると――社交関係か?)
貴族の、パワーバランス。
今夜参加する貴族会関係だろうかと勘ぐりつつ、ただたたまれただけの紙を開く。
用心のなさからすると、もっと別の可能性がした。
すると――案の定、そこにはまったくプライベートな伝言があった。
「…………なんだ?」
つい、姿勢を崩し、前のめりになって読み込む。
どうやらマリアは明日の休みを使って、王都を少し散歩でもするそうだ。
ジーンは簡単にその予定を記したのち、
『お前なら情報網を駆使して、偶然を装って顔を出せるだろ』
――ということをジーンは書いていた。
つまるところ、一人歩いている彼女のもとに顔を出せ、という用件のようだ。
(いや、意見か)
そんなことのために〝ロイドが持っている権限や人を使え〟というのも、随分な言い方だ。
とはいえそれは、マリアが相手であればロイドも話が変わる。
今日はもうマリアに会えない。明日も会えない……という事実に打ちのめされていたところだったロイドは、なんだか気が抜けるように感じた。
「あいつには反対されているかと思っていたんだが……」
ジーンは、自分の親友なのだと、マリアが初めてロイド達の集まりに参加した際に自慢した。
ことあるごとにマリアを擁護するのを見ると、本当に友人認定しているらしいとは分かった。
(――いや、そもそも)
ジーンは、ロイドが知らないマリアの秘密の、何か一つでも知っているのだろうか。
ロイドは不意にそんな勘ぐりをする。
『私に、言えないことがあっても?』
アーバンド侯爵が開いた集団見合い会で、マリアが苦しそうに口にしていたのを思い返す。
今は、言えない。何も語れない。
あの強いマリアが、今にも泣きそうになっていた。