五十五章 私が「あの頃」好きだったことを(3)
結果として言えば、薬学研究に行くまでの間に懸念していたことは起こらなかった。
いや、ロイドを見かけてはしまったけれど。
あのあと隠し通路を出た先は、薬学研究所から遠回りの位置だった。
軍人も貴族も行き来している交差点上のフロアど真ん中だ。
そこに出た瞬間、マリアは『会いに行かなかったから嫌がらせで……?』とか本気で思いかけた。
遭遇率が上がる予感を覚えていたら、そこから見える二階通路を歩いていくロイドの姿を見つけてしまった。
ハッとしたマリアは、そこに変態の姿がないことに気付いてすぐ「よしっ」と小さくガッツポーズをした。
(これで気付かれる要素はなくなった!)
だが、そこで思いもよらないことが起こった。
こっちはオブライトでもないのに、まるであの当時察知したみたいな感じで――ロイドの目が、ばっと真っすぐこちらを向いたのだ。
(えっ、なんで!?)
今のマリアは、アーバンド侯爵家に育てられて気配を消す術も知っている。
普段から気配も抑え気味だ。使用人達も行き交っているし、自分で思いたくはないがマリアは小さいから、人混みだと余計に見えづらいはず。
だけどロイドは、間違うことなく一直線に、マリアの方へ顔を向けたのだ。
目が合ったのは、すぐ分かった。
彼の深い紺色の目もまた、こちらを見て見開かれたから。
長いようにも感じたのだが、それはほんの数秒のことだった。
唐突にロイドが、ふいっと視線を先にそらし、共に歩いていた貴族らしき男達と向こうへと流れて行ったのだ。
(……助かった、のか?)
そもそも彼も大人だ。
まさか誰かが一緒だとはマリアも当初思っていなかったが、今は貴族としても立場もある彼が、友人以外の連れがいる状態で勝手な行動は起こさないだろう。
――それは、常識的に考えても腑に落ちる。
(の、だれど)
なんだかマリアは、もやっとしてしまった。
今朝までずっと、こっちは悩まされていたというのに。
そう考えると腹が立たないだろうか?と、マリアは自問自答してしまった。
(つまり、その程度のこと?)
目が合った一瞬、驚きと同時にはねた胸を知らないふりをし、彼女も大きなリボンとメイド服のスカートを揺らして歩きだす。
もしかしたらマリアだったから、ロイドは気づいてくれたんじゃないかな、なんてことを思ったから。
昔、男だった頃、テレーサに自分がそうだったみたいに。
「とにかく、よかった。邪魔は入らない」
なぜだが歩きながら声に出していた。
あとはジーンからの知らせを待てばいい。そう思っていたのだけれど――………。
それから図書館へ本を運んでいる時も、薬学研究棟に戻った際にも、珍しい場所で偶然にもロイドの姿を見かけることになった。
視線を感じて目を向けると、彼がいるのである。
(……珍しいところを歩いているな?)
すっかりピリピリしていたマリアは、目が合っても「はあ?」とわずかに睨んだだけだった。
警戒されないよう、ルクシアの近くには、ロイドといった重要人物は近づかせないことになっていたはずだ。
そうは思ったものの、それ以外には何も勘繰らなかった。
「――というわけなんですが、彼、暇なんですかね?」
午後の休憩で、紅茶を並んだテーブルに最後に座ったマリアがそうもらした途端、向かいのルクシアが口から珍しくクッキーの屑をこぼした。
アーシュも「は」と声に出して、なんとも言えない顔をする。
「ロイド様の視線をもう数回感じているんだけど、なんなの?」
本日も密かに手伝いに入っていたライラック博士が、それを聞くなり、白髪交じりの眉を指でかいた。
「えーと……マリアさん、それは……」
「それは? なんです?」
ライラック博士が、持ち上げていた指を固まらせた。
「おいおいピリピリしてんなぁ。博士を困らせるなよ」
「ピリピリしてません」
「今にも噛みつきそう、というか女が出すオーラじゃなかったぞ。こう、……ああ、あれだ、『上官にすげぇひんやりと睨まれている感じ』だ」
なんだ、それは。
思わずマリアが隣を睨むと、向かいのルクシアがようやく「ぽりっ」とクッキーを再びかじった。
その音につられて目を向けると、彼の隣からライラック博士が言う。
「あのー、マリアさんはその視線をどうお思いで?」
「どうって?」
あの甘い感じではないので、半ばホッとしている。
とはいえ、とマリアは改めて冷静に思い返してみて、初めて疑問を抱いた。
「なんだろう、どんな視線、と言われると……二度目、三度目は変な顔してたかも」
「変な、顔……」
ルクシアが、だぼたぼの白衣の袖をテーブルに呆れたように乗せた際に、彼の大きな眼鏡ずるっと鼻の上を滑っていった。
「総隊長かわいそうだな……」
アーシュも言ってくる。
「失礼ね。だって、あいつ――違った。ロイド様が絶対しないような表情だったもの」
「こいつ『あいつ』って言い切ったぞ。とんでもねぇ度胸の持ち主だ」
「我々にはいつもの表情自体分からないのですが」
ルクシアが「ふむ」とテーブルに少し身を乗り出してくる。
「つまりどんな感じだったのですか? もしかしたら、ヒントを差し上げられるかもれませんよ」
何やら彼が優しい提案をしてきた。
出会った時と違って、ツンツンがなくなった第三王子は十五歳には見えないくらい、かわいい。
「お、マリアのピリピリが消えた」
「……これでも私も〝男〟なのですがね」
「ほっほっほ、大丈夫でございますよルクシア様。あなた様の父君は長身ですから、いずれぐんっと急に伸びましょう。私の息子がそうでしたよ」
ライラック博士が紅茶を飲んだ。
実のところ気にしていたらしいルクシアが、言い返せない苛立ちを抱えたみたいな顔で、珍しい感じに頬杖をついたままティーカップを持ち上げた。
(拗ねた感じが、またかわいい)
するとマリアは隣から、ほっぺたを強めにつつかれた。
「マリア、やめろ」
「うんごめん、でもねアーシュ、触って大丈夫なの――」
「おわぁあぁああ!」
こんなふうにはっきり頬を『ふにっ』と触ったことがなかったせいか、アーシュが立ち上がって、一人で騒いだ。
ルクシアが、今度は額を押さえて溜息を吐く。
「女性恐怖症、マリアなら出ないと言っていませんでしたか」
「保証はありません!」
「潔い言いっぷりですね」
「そうですよルクシア様っ、保証はないんですから気をつけないと!」
マリアはアーシュに加勢した。
「あっという間にあいつらが来て、あの激マズの気付け薬だけは飲んでたまるもんか!」
アーシュも本音をぶちまける。ルクシアは遠い目をして「ああ、あのアーシュ専用の」と言った。ライラック博士は仲がいいと言って笑っていた。
「あなた方のやりとりを見ているだけで、疲労感が飛んでいきますな」
「博士、これは大変ご迷惑を……それで何か説明できそうですか?」
ちょっと肘を曲げたせいか、指先が袖で隠れてしまった白衣で示される。
(うーん、かわいい)
相手は第三王子だ。アーバンド侯爵家の戦闘メイドとして、敬意を持ってきちんと考えようと、マリアは頭の中で自分に言い聞かせた。
「そうですねぇ……。二回目からは、目が合うとじっと固まって視線で追いかけてくる感じというか」
「お前がツンとして無視するからだろうな」
「こう、言葉が出ないような口元だったような」
「まさに言葉が出なかったんでしょうねぇ。彼からは想像もできませんが、それで何度も現れている、と……」
「睨んでいるわけではないんですが、何か、こう、捨てられたわんこっぽかったような……?」
「お前よくそれで気付かないなっ? 鈍いのもいい加減にしろよ!」
そこまで分かっっていながらどうして気づかないっ、などと言ってアーシュがテーブルを叩いている。
すっかり慣れたのか、ライラック博士がクッキーの乗った皿をひょいと持ち上げて、今日はやけに山盛りにされているそれが崩れないように死守してくれた。