八章 錯乱した魔王と、再会した親友(3)上
マリアは薬学研究棟を出て、まっすぐ図書資料館へと向かった。
どうせ重い物を抱えているのだから見逃してくれるだろうと考え、歩く使用人や軍人の間を小走りで駆け抜けていたのだが、「あの子、確か第四王子の婚約者のメイドらしいよ」「昨日も見たな」「一昨日、グイード師団長に抱えられてたな」と交わされる言葉が聞こえた。
王宮に通い始めて、まだ三日目だと言うのに、既に顔を覚えられてしまっているらしい。
メイドにしては異なった制服と髪型をしているので、印象に残ると考えれば何も問題は無い。しかし、騒ぎの中にいたメイドだ、と認識されてしまっている可能性が非常に高いような気がして、マリアは「勘弁してくれ」と泣きたくなった。
気のせいか、近くを通り過ぎる人々が、若干距離を開けるよう道を譲ってゆく。
移動中の若い衛兵たちが、マリアを指差して「ほら、あれが例のメイドだよ」とあっけからんとした声を上げた。どこからか、女の子ような可愛い声を上げる美少年たちの「やだっ、相手は男じゃないのに何だかドキドキするッ」という、理解し難い妙な感想まで聞こえてきた。
全く、どこの噂好きの少年共だろうかと、マリアは舌打ちしかけて――
……あ、昨日サロンにいた連中の一部か。
遅れて思い至り、一体どういう事だろうかと思って、ちらりと振り返った。すぐに人混みの向こうで「きゃーっ」と黄色い声が上がり、のろのろと走り遠ざかってゆく華奢な少年達の後ろ姿だけが見えた。
何故か、理由も分からず背中がゾワッとした。
マリアは思わず、生理的な悪寒を覚えて全力疾走していた。
※※※
図書資料館へ到着すると、マリアは、長いカウンターに本を置いて返却をお願いした。
カウンター内に複数ある席のうち、マリアの前にいたのは、丸眼鏡をかけた女性司書員だった。彼女はこちらに気付くと「あら」と表情を綻ばせて、「可愛らしいメイドさんねぇ」と随分年下に接するように、にこやかに対応してきた。
多分、また十四歳あたりに見られているのだろうなとは思ったものの、警戒されてもいない母性的な笑顔は優しげで、精神的に疲弊した心が癒されるのを感じた。
うん、こういうのも、たまにはいいかもしれない。
マリアは、勘違いさせるままに黙っている事を決め、あざとく小首を傾げてにこりとした。カウンターに積み上げられた本を目で数え始めていた女性司書員が、それに気付いて、同じように微笑みを返してくれた。
「そういえば、三日前から人を探している方がいらっしゃる噂、聞いたことはある?」
返却された本の状態確認を行いながら、女性司書員が、マリアの暇を潰すように話しを振った。
身体のラインがほんのりとわかる程度の淡い緑の司書服でも、女性司書員の豊満な胸元が形よく浮かび上がっていて、なんと素晴らしい胸だろうと見つめていたマリアは、少し遅れて顔を上げた。
「聞いた事はないですね……」
「そうよねぇ、あなた、ここでは見ない顔ですものね。実はその人、夫の上司にあたる人なのだけれど、いつも突拍子もない行動する方らしくって。仕事の合間に、何度も逃げ出されて困っているらしいのよ」
その人物は、昨日「なんであいつが先に会えてんだよぉおおお!」と脈絡不明な叫びを上げ、悔しそうに泣いて、書類を進める手を完全に止めたらしい。
彼女の夫達が必死になって仕事を進めさせたが、途中、窓から身を投げる振りをして逃走されそうになったりと、大変苦労したと夫からは聞いた、と彼女は手元の作業を続けながら語った。
かなり迷惑な人だな、とマリアは思いながらも、溜息を吐いた際に上下に動いた大きな胸――ではなく女性司書員を心配した。
「最近からということは、近頃出入りしている誰かを捜している、という事ですかね?」
「恐らくそうなのではないかと言われているけれど、友人だとおっしゃるだけで、誰も詳しい事は聞いていないのですって。よくは分からないけれど、友人なのだから自分の手で探す、と部下の話しを一切聞いてくれないらしいわよ」
昔と変わらず、王宮には迷惑な人間が多く集まっているらしいな。
愛想笑いの下でそう思っている間に、本の確認作業が終わり、女性司書員が「ご褒美よ」とマリアに飴玉を握らせた。
得をしたようで気分が良くなり、マリアは、図書資料館を出て早速飴玉を口に放り込んだ。しかし、癖ですぐに噛み砕いてしまい、飴玉は楽しむ余韻もないまま口の中から消えてしまった。
※※※
飴玉には勿体ない事をした。
マリアはそう思いながら、王宮の中央広間を横切るように歩いた。そこには、先程よりも多くの貴族や軍人が行き交っており、十六年前と変わらない各所属軍の制服を、マリアは何となく目で追ったりした。
人の少ない回廊へと進んだ時、ふと、正面から歩いてきた一人の青年と目が合った。こちらを見た彼が、「あ」と口の形を作って足を止める。
細い眼鏡に大きな灰色の瞳、どこかのんびりとした空気をした白衣の青年の腕には、『救護』の腕章があった。マリアは、アーシュが倒れた際に見た男だと気付いて、立ち尽くした彼の前で歩みを止めた。
マリアは、激不味の気付け薬の製作者だという、実に印象的で覚えやすい青年を見つめ返した。
確かラジェットと呼ばれていた男だった、と記憶を辿ったところで、彼が先ににっこりと愛想笑いを浮かべた。
「こんにちは。今の時間だと、おはようがいいのかな。君ってアレでしょ、昨日アーシュを気絶させた子だよね?」
「はぁ、こんにちは。その言い方だと誤解されます。気絶させたのではなくて、彼が一方的に気絶したのですわ」
呆れ返りそうになったが、マリアは途中で、持ち前の愛想笑いに切り替えた。しかし、次の彼の台詞を聞いた瞬間、顔面が引き攣りそうになって笑顔が固まった。
「ちらりと聞いた噂なんだけど、宰相様のところで騒ぎを起こして、師団長たちと総隊長様に追い駆けられて、昨日は衛兵もぶっ飛ばしかけた『リボンのメイド』って、君の事だよね?」
「…………」
うわぁ、嫌な覚えられ方をされている。しかも、噂になっているなんて最悪だ。
頭を抱えたくなる気持ちを押し殺し、マリアは「お、おほほほ」と口に手をあてた。
「多少の不幸と偶然が重なりまして。あの面々を知っているのであれば、私が騒ぎを起こした訳ではないとお分かりでしょう?」
「まぁ、その辺はどっちでもいいや。君ってさ、大臣とは知り合い?」
「はぁ?」
思わず素で返したマリアを見て、ラジェットが目を瞠った。
マリアは「おっと」と再び口に手を当てると、咳払いを一つし、あなたの見間違いですよと言わんばかりに、あざとい角度に首を傾けて微笑んだ。
「そんな身分高い方に、知り合いはおりませんわ」
「そうなの? 宰相室を破壊したあげく、派手な逃走劇を繰り広げて、人間嫌いの第三王子をその日で友人枠に埋めて、暴走しかけた総隊長補佐を殴り飛ばしたメイドって噂も立っているから、あの中に知人でもいるのかと思ってたよ」
……人目の多い王宮が恐ろしい。
三日目にして、色々と突っ込みどころ満載の、真実と食い違う過激な内容で噂が出回っている。そもそも、まるで、あの問題児組と同類枠に扱われているような内容もあって、マリアは「解せん……」と口の中で本音をぼやいた。
暇潰しで流れる王宮の噂話しほど、あてにならない作り話もないと改めて実感する。
「大臣が、そのメイドを探しているらしいって噂もあるんだ」
「はあ。それって『ただの噂』ですわよね? 人違いです、私は大臣様とは全く縁がありませんし。……ん? もしかして、知り合いかもしれない誰かを捜してる人って、大臣……?」
思わず思案を口にしたマリアを見て、ラジェットが「それは君も聞いているんだね」と、どこか感心したように言った。
「うん、そうだよ。三日ぐらい前から、元々の逃走癖に拍車が掛かって悪化してる感じかな。うちの大臣って変な人で、権力や人間を使わずに『友情レーダーで探す』って宣言してたみたい」
「え。何ソレ怖い」
「うんうん、気持ちはよく分かるよ。変人は結構よく見て来たけど、あれは僕にも理解出来ない。というかさ、救護室の窓の木の上にもよく現れるんだけど、愛想笑いすればいいのか、あの人の部下を呼べばいいのか、助けるために僕らが動いた方がいいのか、毎度すごく悩むんだよねぇ」
それ、本当に大臣なのか? 大臣って太ったおっさんとかじゃないのか?
マリアが悩ましげに考えていると、ラジェットは、出来の悪い妹を見るように目元を和らげて眼鏡を押し上げた。
「ちなみにさ、無精髭に焦げ茶色の上品なローブを着ているのが大臣だって事は、教えておくね」
それじゃ、僕の幼馴染のアーシュをよろしく、と言って彼は去っていった。
マリアは、問題児だという大臣について引っかかりを覚えながら、廊下を歩いた。不意に、やたらと友情を口にする男がいたなと思い出してしまったが、「まさか、ないだろ」と頭を振った。
彼は貴族らしかぬ、庶民寄りの軍人だ。
頭脳派ではあったが、机に向かってじっくり何かをするには向かない男で、書類処理も数分で根を上げて「もう無理ッ」と飛び出して行ったぐらいだ。きっと今も、王宮から離れた場所で剣を振っているに違いない。
マリアは離れへと向かうため、回廊の途中から中庭へと降りた。
サクサクと踏みしめる草音を聞きながら、人のいなくなった芝生道の周囲に並ぶ、小振りな木々を見上げる。今日もいい天気だった。王都は、本当に驚くほどに雨の日が少ない。
マリアが知る国境沿いの寂れた町では、周に二回以上は必ず雨が降っていたというのに――
そう想いを馳せた時、独白する男の声が耳に飛び込んできた。
「うーん、どうしよっかなぁ。運命的な出会いもありなんだが、こうなったら、ルクシア様のところに押しかけるしか……いやいや、もし違ってたら大問題だし? 興奮のあまり困らせちまうのは、親友としてはアレだしなぁ」
若干渋みが増しているが、ひどく聞き覚えがある声に、マリアは咄嗟に木の後ろへ身を隠した。
進む先の芝生道をそっと覗き込むと、そこには、ゆったりとした明るい茶色いローブを纏った男の後ろ姿があった。赤み混じりの焦げ茶色の短髪には白髪が混じり、痩せ形だが肩幅が広く、背丈もかなり大きい。
男が何かに気付いたように、「ん?」と声を上げて、辺りを見回す仕草をした。
覗いた横顔は肉付きが悪くて彫りが深く、無精髭を生やし、肌は太陽にすっかり焼けていた。目頭の谷間が深く、不健康にも思える目下の膨らみに入る深い皺と、髪と同じ色をした眼付きの悪い双眼――
マリアは、瞬時に木の後ろへ頭を引っ込めた。
野性の勘のように人の気配を敏感に察して、辺りをきょろきょろと見回す男が、とっとと通路先から去ってくれる事を祈った。
そこにいたのは、黒騎士部隊の副隊長、ジーン・アトライダーだったのだ。
彼は黒騎士部隊の頭脳だった男で、オブライトが入隊するまでは、彼が隊長を務めていた。出会い頭にオブライトを親友認定し、空白のままだった副隊長に喜々として就いた変わり者でもある。
侯爵家の末子でありながら、縛りを嫌って家を出ると、騎士となって黒騎士部隊で活躍した。本人曰く「俺は隠れ参謀なの。永遠の副隊長なのよ」と王宮に直接深く関わる事を拒み、黒騎士部隊がなくなったら町の警備隊に新人入団する、とまで言っていた妙な男である。
というか、お前が大臣になってるとか誰が想像できるか!
ジーンは、自由奔放な男で、剣を振り回して白か黒を付ける事を好んだ。出会い頭で突然「今日から俺達は親友だ!」と宣言されたが、彼がどうしてそこまで、オブライトを「一番の親友」に置いたのか、未だに謎である。
自分の勘をどこまでも信じているような、不思議な男だった。
マリアは思い出しながら、どうしたものかと目頭を強く揉みこんだ。ふと、目の前で立ち止まる足音に気付いて、ハッと顔を上げる。
十六年前と変わらない、彼の赤み混じりの茶色い瞳と、バッチリ目が合った。
腰を屈めてこちらを覗きこんでいるジーンを見て、マリアの思考は、数秒ほど完全に停止した。
 




