五十四章 それぞれの任務前(3)
誰もが天井を見上げ、聞き耳をしばし立てていた。
「終わったみたいですな」
グラスを拭きながら、マスターが言う。
「ここ、処理場だからなぁ」
「兼、処理場です。後任の無法地帯――ボロ儲けしてらっしゃるじゃないですか」
「マスター、言っとくけど情報屋がメインだからな」
若い彼は葉巻を取り出した。隣にいた、がたいのいい男が先端を斬り落とし、専用の強い火付けで火をつける。
「にしてもさ~」
彼は煙を二口ほど吐き出すと、目の前に寄せられた専用灰皿を前に、再び頬杖をつく。
「アレはひどいよ、毎回、ひどい。なぁマシュー君、あの人に銃とか持たせられない? 素手ってのが、えぐいんだよ。処理も大変」
「銃は持っていますよ。肉の感触が好きなようです」
「あー、骨が軋んで、折れる瞬間ってのはこの前聞かされたよ。なんつー怪力だよ」
「スマートなお仕事もできるお方ですよ」
マスターが口を挟む。
「私しかいない時は、何も壊さず、銃だけで綺麗に殺しておられました。実にあざやかな手口で、若い連中が集まって目を輝かせて鑑賞していましたね」
「何それ理不尽」
その時、再びテーブル席で始まっていた談笑が途切れた。
階段から落ち着いた歩調の足音が近付いてきて、間もなく、アルバートが階下へと降り立った。
「終わったよ。お待たせ、マシュー」
にこっと微笑んだその人は、顔の下から斜め上へと返り血を浴びていた。全身にも血を浴び、袖から覗く白い手からはぽたぽたと滴っている。
「情報はすべて引き出したから、予定通り仕事を一つ頼むよ」
言いながらアルバートがハンカチで手の血を拭う。
近くのテーブル席の男が、ペンと紙を「ん」と差し出した。
「ああ、ありがとう。今日は出勤日?」
「ただ飲みに来ただけっス。ついでにここへの誘導と客役を頼まれて、酒代が半分に」
「ふふっ、タダにしてくれればいいのにねぇ」
するとカウンター席にいた若い男が「こちとら商売だ!」と言った。
アルバートは気にしなかった。カウンターで紙に走り書き、その間に歩いてきたマシューに手渡す。
「ここへ行ってきて。直で取引をした情報を持っているのはこの男だ。彼も、引き出したら処分していい」
「かしこまりました」
マシューは黒い手袋をした手で受け取った紙を、綺麗に畳んでコートの内ポケットにしまう。そして「そこに置いていますので」とハット帽を指差すと、黒いロングコートの裾を揺らしながら出ていった。
いかつい男がカウンター席を降りる。
アルバートは、自分の店として中央を陣取っているその若い男へと近付いた。
「僕にも、くれるかな」
そう声をかけながら、彼の手ごと葉巻を引き寄せ一度短く、そうして今度は長く吸い込んで口の中で煙を転がした。
その形の美しい唇から、煙が吐き出される様子を若い男は見つめた。
「――ひゅー、かの有名なアルバート様との間接キスをもらっちまったなー」
アルバートがじっと見つめる。
テーブル席の方から、別の男が心配そうに首を伸ばして言う。
「やめろよ、首を飛ばされるぞ」
「俺、役に立ってるし」
若い男は、その時「あっ」と声を上げ、手元に目を戻した。
アルバートが葉巻をするりと取り上げると、グラスの中に突っ込んでいた。
「何すんだよ~」
「もっと美味しいのを吸いなよ」
アルバートは席に座りながら懐から専用ケースを取り出し、一本を彼へと手渡す。
「わざわざ持ってきたのか?」
「一本は君に」
「親父もここにいたかっただろうなぁ。仕事終わりが美味いって、俺にここ任せたばかりだった頃よく言ってた。今も言ってる…………へへぇ、これはまた上等だな」
煙を味わったのち、彼が満足そうに言った。
マスターが二人のために新しい酒を入れる。
「ローガ・クラブのものだよ」
「ははぁっ、どうりで女性みたいな香しい匂いなわけだ!」
「それ、もう一度言ったら殺すね」
「涼しい声色でやめて。というかなんだ? 最近ご無沙汰なのか? あ、ははーん、昨日にでもネイサンと会ったんだな? あの野郎、この前も俺の妹をくどきやがったからな。気持ちは分かるぜ。というかさ、最近よくあいつと会ってね?」
アルバートは何も答えなかった。
後ろで佇んでいるいかつい男が「坊ちゃん、質問が多い」と溜息をこらえる声色で言った。
ゆったりと過ごしているアルバートが乗せた腕が、カウンターテーブルに血のしみを作っていた。
相手の若い男は諦めたように葉巻をやった。
ほどなくして、アルバートがマスターの仕事ぶりを眺めながら言った。
「欲しんだったら行けばいい。部屋の奥で作ってる」
「この葉巻? いや~、そそられるが、あそこに集まるのは一級の殺人犯ばっかりだろ。へたしたら死ぬ」
「作法を守れば平気だよ。もしくは〝死ななきゃいい〟」
「はいはい、簡単なルールなこって」
アルバートが、葉巻を専用の灰皿に置いた。
「もうしまいか? もったいねー」
若い男は、灰の赤が静かに消えていくのをじっと見つめる。
「じゃ、血を洗い流させてもらうね。煙の匂いも持って帰れないし」
「まぁそうだろうな。それまで帽子は預かっとくよ」
店内にいた他の客達も、アルバートが動き出すと無視できないみたいに目で追いかけた。
それらを横目に眺めていた若い男が、「なぁ」とアルバートの背に声を投げた。
「あんた、最近珍しいくらい活発的だよな。何やってんだ?」
ただの好奇心、それでいて情報収集。
誰もが注視した。
店内の奥へと向かっていたアルバートは、振り返り――にこ、と返り血の似合わない紳士の微笑みを浮かべた。
――沈黙。
この世界で、それほど怖い回答はない。
つまり聞き出してはいけない〝とんでもない何か〟なのだ。
アーバンド侯爵家と言えば、血生臭いことであるのは確実。それでいてアルバートに誰も口封じなどされたくない。
ここにいるのは、沈黙の重みを知っている男達ばかりだった。なので若い男も含め、誰もが口を閉じて、アルバートが血を洗い流しに向かうのを見送った。
「――ははぁ、まったく」
アルバートの姿が消えてから、若い男が笑みと共に言葉をもらす。
「あれほど危険で、俺らにとって魅力的な男はいないよなぁ」
確かに、今日も最高にかっこいい、上の階の『現場』を見せてくれという声がこれまで黙っていた客達から上がり始めた。
「はいはい、いいぜ。んじゃ鑑賞料を払え、いつも通りの金額だ」
商売上手な若い彼は、またしてもちゃっかり稼ぎに使った。
◆
――そんな日中の活動も露知らず、マリアはアルバートから『リリーナの読み聞かせ』を教えられつつ、前もって就寝の挨拶をされたわけだが。
少々残業になったその日、女性専用の建物に戻ったところで、一階のラウンジを通り過ぎようとして空色の目をぱちくりとした。
「あれ? 姉さん達はまだ帰ってないの?」
「遅くなるんじゃないかしらね」
ナイトドレスを着たマーガレットが「うーん」と考えて、そう言った。カレンに加え、そこには他のメイド仲間達もいる。
「ホットミルク?」
「うふふ、すこーしお酒入りのね」
「マーガレットが旦那様からもらってきたのよ。そば仕えが少し時間を押したから、そのお詫びみたい」
「各所、ちょっと残業だったんだなぁ」
見習いコックのギースも、あと少しかかると話して別れたのをマリアは思い返す。
「マリアも飲む? 身体が温まるわよ」
「私はココアをもらったから」
ふるふると首を横に振ったら、メイド達が「そう」と笑顔で言った。
カレンがホットミルクを片手でぐびーっと飲み、組んだ足をちょっと揺らしつつ「マリア」と呼んだ。
「風呂あがったら髪はやってあげるわ」
「酔ってなければね」
「じゃ、一緒に入るわ」
「余計に酔いが回るから却下!」
敏感に何事か察したみたいに、マリアは「汗流してくる!」と走り出す。