五十三章 マリアと彼と彼らと(4)
その翌日。
マリアは『臨時班』の知らせかあると呼び出しを受けた。
ニールは来ていないし、場所は薬学研究棟に近い外通路前の段差だ。てっきりジーンあたりがいると思っていた。
「え……? ロイド様?」
廊下からそこを見下ろして、マリアは驚いた。
「少し遅かったな」
そう言って肩越しに見上げてきたのは、総隊長のロイドだった。軍関係の会議からそのまま来たのか、段差に腰かけた彼は黒いマントを踏んでいる。
デートの日以来、実に数日ぶりに顔を見た。ちょっと困惑した。
「あ、の、ジーンとかニールさんとか――」
「あいつらも多忙だ。例のガーネットへの協力の件でな。とにかく、座れ。人通りは少ないとはいえ、立っていると向こうからでも目立つ」
ロイドがそうやって楽に座るイメージもなかった。
マリアは少しためらったのち、人目を考えてとんとんっと段差を降りた。ロイドと同じ段に、スカートをならして座る。
「……なんで同じ段に座った?」
中が見えないように足を延ばし、スカートを引っ張っていたら、ふと妙な質問をされた。
「え? あ、もしかしてだめでした?」
「いや、だめじゃない」
無意識だったので確認したら、ロイドが「そこにいろ」と早口で言ってきた。視線をそらして、頬を袖でこする。
(なんか、目元が赤い……?)
じっと見つめていると、彼がじろっと目を向けてきた。
「この前のことがあったから、避けられていると思っていた」
そういえば、姿を見た時にはかなり驚いた。
だというのに、マリアは今、言葉を交わしたら普通に居座れてしまっていた。
「なんででしょうね」
確かに昨日、ニールと遭遇するまで悩みまくっていた。
案外、話してみると普通だった。
そんな拍子抜けみたいな気持ちがある。
うーんと考えるマリアを見て、ロイドが「そうか」となんだか機嫌のいい声を出す。
「そういうことなら。まぁ」
「そういうことって、どういうことですか」
座っていても、肩の位置がだいぶ違う彼をぐいっと見上げる。
その視線を横顔に受け止めたまま、先程よりも余裕がある顔でロイドがしばし考える。
「――いや、教えたら不利になりそうなので、言わないことにする」
不利?と思った時だった。
「ところで、今回の任務は俺も参加する」
彼の目が戻ってきた。覗き込まれる近い距離をマリアは意識せず、言葉の内容の方に驚いてしまった。
「えっ、ロイド様も現場に入るんですか!?」
「なんだ、ものすごく意外そうだな」
「だ、だって、マ、マフィ……」
言っていいのか分からず、言葉を濁す。
「相手は、向こうの世界の上流貴族みたいなものだ。そのうえ、プロの暗殺者もごろごろいる敵地みたいなものだぞ。それを精鋭の少人数で、とすると俺が加わらんでどうする」
「と言われましても……」
現場型、というイメージがないのだ。
「じゃあ、モルツさんも?」
「モルツはこっちに置いておく」
「なんか、そういうのも珍しいですね」
以前は、ロイドの飛び込みであったことだった。だが特攻タイプでもあるので、グイードに続いてモルツが不参加というのも馴染みがない。
「モルツは――することがある」
ロイドは詳細を言わなかった。別の会議を出た足で来たのか、段差の縁近くに置いてある書類を意味もなく確認する。
(十六年経って、そのへんも色々と変わったのかな……?)
当時の『総隊長』が、臨時任務で現場に突入することはなかった。
前総隊長は、ロイドの父が勤めていた。顔を合わせたのは数回程度で、軍人としては城にも滅多に来ない人だった。
オブライトはあまり王宮にいなかったので、顔を見る回数はもっと減った。
――ぱさっ。
その時、書類を戻す音につられて目を向けた。
「また、集まりか何かですか?」
「この任務とは別件の、正規の仕事でな」
つまりアヴェイン関係ではなく、軍事の、ということだろう。
そう推測して分かったのに、マリアはスカートを巻いた足を引き寄せて、なんとなくロイドの顔を見つめてしまっていた。
「なんだ」
ロイドもまた、マリアから視線をそらさなかった。
顔をこちらにむけて、ただただじっと見てくる。
(とても、落ち着いている顔だ)
会議やら集まりやらでせかせかしておらず、楽な姿勢で段差に腰かけている。
そんな姿が、なんだか目に新鮮だった。
「隣に座っているなんて、変な感じです」
マリアは、小首を傾げた。
「――そうか。実をいうと、俺もだ」
言いながら、ロイドがそっと手を伸ばした。
風で大きく揺れたマリアのダークブラウンの髪を、彼の指先がさらりと触れる。
「やっぱりこんなふうに座っていることって、あまりないですか」
尋ねたマリアの反応を見ながら、ロイドが手をひっこめないまま「そうだな」と答えた。
「なんだ、公爵だから地べたに座らないとでも思っているのか? 俺は、そうだな、マリアがそうやってそこにいてくれているのが……」
呟きのように声が小さくなる。
風がまた大きく吹き抜けて、ロイドの声を攫っていった。
「私が、なんですか? ちょっと、何をしているんですか」
彼が試すように手を動かして、続いてマリアの大きなリボンの先を引っ張る。
「ふむ。なるほど」
「なほどじゃないですよ。角、いじわるで曲げたりしないでくださいよ?」
「リリーナ嬢とお揃いだから、か?」
彼が、同じように首を傾けて尋ねてくるのが、なんだかおかしく感じた。
「分かっているじゃないですか。そうですよ」
「ふうん」
ロイドが、いったん手を下げる。
風がそよそよと流れていく音が、よく聞こえた。
ふと、マリアは彼の用件が終わっていることに気付く。
「お仕事中なので、これって結局サボりなのでは」
ロイドにしては珍しい。いや、イメージがない。
すると彼が、フッと笑った。
「そういえば、息抜きは必要だという連中が周りに多いが――確かに、なるほど。こういう『息抜き』は悪くないと、マリアのおかげで思えた」
心臓がはねた。
急に、彼の空気が変わったみたいに感じる。いや、二人のいる場所に漂う空気が変わったのだろう。
周りには誰もいなくて、二人きりだ。
それを、ロイドの台詞一つに意識させられた気がした。
「マリアと初めての船上パーティーだというのに、任務とはな」
ロイドが覗き込んで手を伸ばした。形のいい唇を引き上げ、指でそっとマリアの頬をなでる。
マリアは、そそそ、と彼から距離を置いた。
「え、と……勝手に触らないでください」
「手厳しいな。だが、そこがいい」
なんだかロイドが、とても楽しそうにくつくつと笑っている。
(距離を置いたのに、いい反応でもされたみたいな顔だ)
そんなことないのになと、マリアは疑問に思う。彼のなぞられた頬も触らず考える。
「残念だ、そろそろ時間だな」
ロイドが書類の束を持って立ち上がった。彼のマントが揺れる。
「ちなみに、この任務の責任者はジーンから俺に移行される」
「えっ。あ、そうか!」
ジーンよりも、軍のトップが入るのならそうなる。
無茶な指示が出されたりするのだろうか。
「現場で、命がいくつあっても足りない指示だけは勘弁――」
「そんなことをするボスがいるか。任務の成功と、仲間を全員生きて帰還させるのが俺の義務だ」
まさか、ロイドの口から聞くと思わなかった言葉に胸が熱くなった。
「ところでだが、もし俺が任務を成功させたら、ご褒美をくれたりするのか?」
「え」
マリアは、ニヤリとしたロイドを茫然と見上げる。
オブライトだった時のツンツンしていた少年と違いすぎて、ペースが狂いそうになる。
「ご、ご褒美、ですか……?」
「ヴァンレットの頭だって撫でているだろう」
「いや、それとこれとは話が別――」
「同じだよ。俺は、嫉妬した」
「え゛」
次の段差に片足を乗せた彼が、不意に頭を屈めてくる。
「今回は、嫌なやつにも頭を下げているんだ。考えることもたくさんでな。〝恋人〟からの甘いご褒美でもあれば、全部チャラになるうえに頑張れるんだけどな」
顎を軽く掴まれ、唇を親指でなぞられた。
軽く往復させる指の感触に、マリアほんの少し遅れてかぁっと頬に熱が上がった。
「あ、甘いご褒美とかあるわけがないでしょうが!」
咄嗟に振り払おうとしたが、先に彼がひょいとよけてしまった。
ほんの少しだけ撫でられた唇が、じんっとしている。顔の下を腕でかばったマリアは、じわじわと頬が染まっていく。
ロイドが、艶っぽい笑みを浮かべた。
「何か、いやらしいこと想像したんだ?」
こ・い・つ――!
「し……してない阿呆!」
思わず言ったら、余裕ぶった態度で先に踵を返し、次の段差を進んだロイドが踏み外しそうになった。
彼の身体がぐらっと傾いて、マリアは慌てて支えてあげた。
(疲れては、いるみたい……?)
そう思ったら説教も文句も言えなくて、彼女は渋々彼の背中を押して、段差の上の王宮の建物まで上げてあげたのだった。