五十三章 マリアと彼と彼らと(1)
「それでは、失礼いたします」
受け取った書類を持って、アルバートは上官の部屋をあとにした。
こんなに陽が高いうちに帰るというのも、少しだけ変な感じだ。
騎士としても仕事が減り、手続きに一部時間を割くことになっているので仕方がない。今日はリリーナを出迎える側になりそうだ。
「あなたの可愛い〝家族〟が、あちらへ走っていかれましたよ」
擦れ違いざま、暗殺部隊の聞き慣れた一番隊長の声がした。
「――知ってる」
足音で、誰だかは分かっている。アルバートは目も向けずに答えた。
王宮ではむやみに接触しない取り決めだった。マシューだって気になっているだろうに、マリアのことはたまに遠目から見に行くに留めている。
「そうですか。それは良かった」
廊下の向こうに、白衣の裾がひらりと見えなくなる。
それと入れ違うように角を曲がったアルバートは、騒がしい声を聞く。
「ラスキ――――ン!」
「またネガティプで倒れたぞぉおおお!?」
介抱されているのは、胃がとても弱くて、ネガティブでいっつも仲間達に心配され、助けられている〝ラスキン〟だ。
相変わらず賑やかだ。いや、他の人からいえば『騒がしい』というやつなのか。
アルバートはそういったものが分からないから、ただ笑顔を張り付かせるだけだ。
「うぅ、甘いものがあれば、復活しそう……」
「ちょっと待ってろよっ、俺らが取ってきてやるからなっ」
「また昼飯食べ損ねたのか!? 世話が焼ける同期だなぁもう!」
その時、向かってきた二人がぶつかりそうになった。彼らが目を向けたところで、ハッと身をかわす。
「こ、これは申し訳ございませんっ、第三宮廷近衛騎士隊副隊長殿! 少々急ぎで――」
「ううん、別に構わないよ」
アルバートは、にこっと微笑んだ。
通り過ぎていく彼らが「相変わらずお優しい」と言葉を交わしていくが、彼は興味がなかった。
(ふふっ――優しい、だって)
なんだろうな、それ、と思う。
表情が出る前に考えるのをやめた。声がどんどん遠くなっていって、近くには人がいない。
アルバートは、ただの興味本位で真っすぐラスキンへと近付いた。
「それ、楽しいかい?」
彼は立ち止まると、温度のない仮面の笑顔で尋ねた。
するとラスキンが見上げて、とっても愉快そうに笑った。
「うん、すごく愉しい」
ぞくぞくした様子で口元に手をあてる。
「うん。やっぱりよく分からないや」
「そうですか? ああ、アルバート様もお休みを取られたのですね」
「君も、大丈夫だった?」
「もちろんですよ。アルバート様と一緒に仕事できるなんて、とても楽しみで、ワクワクしております」
「二軒目は君の班に同行のお願いを予定しているよ、当日はお願いね?」
アルバートがにっこりと笑いかけると、ラスキンが直属の上司に向ける、忠誠のポーズを取って「はい」と答えた。
「当日は、たくさん〝斬り刻めるのを〟とても愉しみにしています」
ラスキンは、恍惚とした満面の笑みでアルバートを見送った。
◆
逃げ出した翌日も――マリアは、ルクシアの手伝いで王宮に来ていた。だが研究私室に居座っていられず、すぐ返却の本をかき集めて出てきた。
絶対に不自然だった。
そう分かっているのだが、じっとしていられなかったのだ。
「……ぜ、全然調子が戻らない」
困ったことが発生していた。
昨日の〝話し合い〟で、友人達の口からデートの単語が出た時に大変動揺した。
そして、うっかり逃げ出してしまったのだ。
あの時にどきどきした感じが、なかなか戻らないでいる。
どうにか笑顔を作ったが、使用人仲間達には絶対に違和感を覚えられているはずだ。
(私、なんでこんなにどきどきしてるんだ?)
大変困っているところだった。アーシュ達にも合わせる顔がないし、友人達の誰かに遭遇しないか、びくびくしている。
いや、話を蒸し返されるのを恐れているのだ。
なぜか、無性に口にしづらい。
『舞台を飾る美女よりも、今、俺の隣にいるお前の方がずっと魅力的だ。こうして劇を見ているマリアのことなら、ずっと眺めていられる』
不意に、そんなロイドの言葉が耳に蘇った。
心臓がドッとはねた。友人達がよく知っているロイド、だったはずなのに、やたら甘い吐息で――。
直後、マリアは壁に頭の横を打ちつけていた。
ゴッといい音がして、近くを歩いていた人々が「ひっ」と見てくる。
(――心臓が、おかしい)
マリアは、どっどっどと鳴っている胸に困惑した。
「…………極度の緊張、か?」
この私が?
隊長を拝命した際にも、こんなに心臓が変にはならなかった。戦場でも覚えがない。
『明日も、王宮で会えると嬉しいんだがな』
デートをした日、ロイドがそう言っていた。マリアも、友人達も知らない、甘い大人の笑顔で――。
(うん。無理っ)
会えない。
それだけはマリアも分かった。
これがどういう状況なのか分からないが、ロイドの顔を見たら、昨日友人達の前から逃げ出した以上に逃げる自信がある。
「あいつに会ったらと考えて、緊張を……?」
分からん。
そう思い、頭を片手で押さえてぶつぶつ言っているマリアは、かなり浮いていた。
大きなリボンをした膝丈スカートのメイドが、頭を自分で強打したうえにぐらぐらしているのだ。
かなりの石頭であることを知らないので、見ている者達はだんだん心配になっていったようだった。
「もしや流血などされているのではないか……?」
「大量の本を一人で抱え持つなんて、やはり無理があるのよ」
「というか、なんであんなに重ねてだろうな……」
誰か救護班か、警備兵を呼んだ方がいいのではないか、という囁きが交わされ始める。
その時だった。
「うわああああああんお嬢ちゃああああぁん!」
大の男のマジ泣きに、廊下にいた全員がびくっとした。
直後、マリアは衝撃を受けていた。
「うおぅ!?」
両手に抱えていた本が、全部飛んだ。
ばさばさと落下の音が続く中、腰に抱き付いた赤毛頭がわんわん泣く。
「魔王ったらひどいんだよ! なんであんな厳しいし暗黒オーラなの!? 作法一つ厳しいんだけどおおおおお!」
それはニールだった。
全力でぎゅうぎゅうに抱きつかれているマリアは、注目の的に立たされて頬をひくつかせた。
一見すると、十四歳前後の少女の腰に抱きつく、成人男性の構図だ。
「ニールさん、とにかく落ち着いてください……」
「うわああああ朝一番で池に放り投げられそうになった俺ってかわいそすぎるよぉぉおおお」
とにかく、うるさい。
こうなったら、話を聞くまで離れないだろう。
世話を焼いていた最年少組の元部下を見て、マリアはしょうがないなと小さく息をつく。
(私も、今こいつを引き離す元気がない……)
考えていた矢先だというのに、ニールがロイドのことを出してきたせいだ。
ぎこちなく顔をそらしつつ、彼の赤毛頭をぽんぽんと叩く。
「分かりました。えと、何があったか話を聞きますから」
「ほんとっ?」
ニールが、がばっと顔を上げる。
(少しは手を離してくれると、ありがいんだが)
腰を抱き締めたままのせいで、顔が、近い。周りでドン引きしている女性の視線がいたたまれない。
「ねぇお嬢ちゃん、なんでそっち向いてるの?」
「ニールさんは、女性の腰にしがみついていることを少し考えるべきですわ」
「お嬢ちゃんは子供じゃん」
「あ゛?」
マリアは、拳を握ってニールを見下ろした。
「というか、魔王が見合いしたの本当たったんだね。確認したら『申し込みをした』とよく分からない自慢されて、ロイドの好みが分かんないって言ったら怒られ――もがっ」
「ちょーっと黙ろうか、ニール」
べらべらしと喋って来たニールの口を、マリアは素早く塞いだ。




