五十一章 剣を誓いあった者達(3)
そんなこと、できるはずがない。
目の前で立ち止まったアヴェインの靴先を見て、マリアはそう思う。彼はオブライトが、初めて剣で誓った相手――。
呼吸が震える。けれど、目を上げずにはいられなくて見つめ返す。
今も変わらない美しいその人の顔を目にした瞬間、マリアはくしゃりと空色の目を細め――それから、騎士の最上級の姿勢で片膝をつき、胸に片手をあてて頭を下げていた。
「申し訳ございませんでした。私は、オブライト・ニールディークとして生き、そして死んで、生まれ変わったマリアです」
口したのは、彼が求める回答の全てだった。
それが事実。
あの日、オブライトは確かに死んだ。この体は誓いを立てた時とは全く別の体で、マリアは記憶を持ってすぐに生まれ直し、一人の少女となった。
アヴェインからしてみれば、突拍子もなく、奇怪でとても信じられない話だろう。
魂が同じで、記憶を持っているだけで、ここに『オブライト』として帰ってくることもできない、誰も知らない十六歳の女の子なのだ。
それなのに、素直に打ち明けてどうするんだ。
マリアは、続く沈黙に自嘲気味に口角を引き上げた。
信じてもらえるだなんて、そんなこと――そうしんみりとした瞬間だった。不意に聞こえた呼びかけに、ハタとする。
「オブライト」
「はい?」
自然に答えた直後、目を上げようとした頭に突如拳骨が落ちてきた。
この少女の体に加減を合わせたようだが、それでもその最大値を見舞ったらしい。ガツーンッときたマリアは、あまりの痛みに品もなくしゃがみ込む。
「ぐおぉおぉ……な、何をするんだド阿呆……」
目がチカチカして、頭を抱えて悶絶した。
「『アホ』、か」
ふっと吐息交じりに呟いたアヴェインが、同じようにしゃがんできた。
ハッとした顔を上げた瞬間、目を覗き込まれてドキリとする。
「なんで、すぐ俺のもとに来なかった」
そこには冷静顔のアヴェインがいて、マリアは疑問腑が頭にいっぱい飛んだ。
答えるのを忘れていると、彼が追って尋ねてくる。
「記憶が戻ったのは、いつだ」
「へ? あ、ああ、その、当初からありました。また孤児だったようで」
「それで、また剣で食いつないでいたのか。そのあと、アーバンド侯爵に拾われた?」
「は、はい、そうです」
途端、アヴェインが「チッ」と舌打ちした。
マリアは、美麗な顔で舌打ちされてビクッとした。おそるおそる確認する。
「あ、あの、やっぱり怒って……?」
「そりゃ怒るだろ。何故、一番に俺のところに戻ってこないんだ」
「え?」
ずいっと覗き込まれて、マリアは空色の目をこぼれ落ちんばかりに開いた。
「戻る……? で、でも、私は、もう」
うろたえたら、マリアの手をアヴェインが頭からそっとどけ、立ち上がらせた。
見下ろす彼との視線の高さが、当時と全然違っている。それなのに、変わらぬ目をして見つめてくることに気付いて、マリアは言葉を詰まらせた。
「一番の友だ。性別など、そんなもん関係あるか。――摩訶不思議だろうと奇怪だろうと、全部ぶっ飛ばして、会いに来い」
アヴェインが、顰め面でそう断言した。
胸が熱く震えた。
「生まれ変わって、もう別人なのに、それでも……?」
それでも、変わらず友と呼んでくれるのか。
声が震えて、うまく言葉が続かなかった。するとアヴェインが、少し目を細めた。
「お前が生まれ変わったからと言って、ジーンも何か変わったか?」
「――いや」
首を左右に振って応えた。彼はひと目見て、マリアをあの頃と変わらず『親友』と呼び、寸分違わない笑顔で話した。
「お前が、お前であることに変わりはない。魂は同じだ。そして……俺のもとに帰ってきてくれた。それだけで、十分だ」
そっと手を解かれる。僅かに震えたのを、マリアは感じていた。だから彼は、知られる前に手を離したのだろう。
怒りの底にあったのは、ジーンと同じく再会の喜びだった。
マリアは泣きそうになった。ひどい別れ方をしたのに、アヴェインもずっと想っていてくれたのか。彼には信じがたい不思議なことであるのに、だからオブライトであると確信にも至った?
「お前のことだから、話せないこともあって俺に会えなかったんだろう。俺には、嘘を吐かないから」
その通りだった。
「申し訳、ございません……」
「俯くな。それから、仕事以外では敬語なしだと言ってるだろう」
「すみませ――うん、ごめん」
でも、とマリアは切なそうな表情を浮かべた。
「話せない、ことが」
まだ、話せない。何も。
喉がカラカラに乾いて言葉が出なくなる。ジーンにも、いまだ話せないでいた。いまだ、ずっと待たせてしまっている。そしてモルツも――。
「動くな」
「っ」
思わず一歩後退かけた時、またしてもアヴェインの強い声がした。
腕を掴まれて肩が揺れた拍子に、また視線が下がってしまっているのに気付く。
「逃げるな。頼むから」
「いえ、逃げるだなんて……」
「お前は、変なところで真面目で礼儀を守ろうとするからな。俺に言えないことがあるのを、悪いと思っているんだろう。でも、いいんだ」
いいんだよ、そんなこと。
アヴェインの呻く声がする。マリアは、ゆっくりと目を上げた。
「話しなんて、再会した今となっては、いつだってできる」
目が合った彼が、くしゃりと金緑の目を潤ませた。
「また、会えて良かった。こんな奇跡が起こるなんて、思っていなかった」
「アヴェイン……」
「お前が天国から見ているのなら、きちんと王として国を平和にしなければと。そして、あの時の約束を守ろうと、ひどいことをしそうになる自分を抑えて、ただひたすら頑張ってきた。そうしてきて、良かった」
唐突に、力いっぱい抱き締められた。
「俺は、お前とまたこうして会えたことが、幸せなんだ。だから、待とう。だから――もう、俺のもとから、消えてくれるな」
一番の友達なんだ、とアヴェインが声を絞り出した。
それはマリアも同じだった。かけがえのない友で、剣を持った自分の、たった一人の主だ。
抱き締め返していいものか迷い、伸ばしかけた手が震え。もう、我慢しなくていいのか。このような形になってしまったけれど、帰ってきたのだと、再会を分かち合ってもいいのか?
『これで笑わずにいられるか』
ふと、自分から一本取ったポルペオの言葉が思い出された。オブライトだと分かった彼は、楽しそうに笑っていた。
ああ、そうか。嬉しいと思ってくれたのか。
「おかえり、オブライト」
強がりみたいな声で、アヴェインが言ってきた。
「遅い帰還だったな。随分、待たせおって」
マリアは涙が浮かんだ目をぎゅっとして、小さな手で、せいいっぱい彼を抱き締め返した。