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八章 錯乱した魔王と、再会した親友(2)上

 ロイドを撃退し、彼の執務室を荒々しく後にしたマリアは、赤くなっているであろう額をさすりながら廊下を歩いていた。


 歩く振動で、打ちつけた額が脈を打つように鈍く痛んだ。幸いにして、持ち前の石頭のおかげて腫れ具合はひどくないので、前髪で隠してしまえば目立つ事はなさそうだ。


 マリアは憮然と考えて、前髪を整えてから手を離した。


「ちッ、あの野郎……」


 沸々と湧き上がる苛立ちのまま、思わず露骨に顔を歪めて舌打ちした。口の中で低く呟いた際、すれ違った若い騎士が、ギョッとしたようにマリアを振り返った。


 性格はかなり曲がっているが、ロイドは珍しくも、そういった風紀を乱さない男として知られていた。


 勤務中に異性、同性にちょっかいを出そうとしていた隊員達を見付けると、容赦なく粛清するらしいという話は有名で、その姿勢はオブライトも尊敬していたのだ。


 そもそも、見目麗しいロイドは、昔から女性に困らない男である。

 相手は選び抜かれた美女ばかりで、同意のない女を襲うというイメージもない。



 だからこそ、マリアは今回の『事故』に対して、余計に腹が立っていた。



 認めたくはないが、マリアは、十人中七、八人には十四歳に間違えられる。


 別にコンプレックスではないが……。自分で口にするのも癪なうえ、ものすごく嫌だが……。決して気にしているわけではないが、つまり、女らしい胸の膨らみが足りないのだ。


 彼の体温は異常に高かったので、そこから『事故』の原因についてはいくつか推測している。恐らく媚薬か、興奮作用の起こる栄養剤でも飲んだか、過労による発熱で正常な判断力が低下していたのかもしれない。


 そうでなければ説明がつかないし、そうでなかったとしたら最悪だ。



 そもそも、なぜ彼はオブライトの名前を口にしたのか?



 耳元で囁かれた低い声を思い出そうとすると、その答えを理解するに至るよりも早く、背筋におぞましい強烈な悪寒が走った。


 何故か、本能的な危機感から思考が停止した。


 なんというか、これ以上深くは考えない方がいいような気がする。


 実に腹立たしいが、奴にもそれなりに苦労はあるだろう。ここは、間の悪い虫に噛まれたと思って忘れる方がお互いのため……いや、マリア自身の心の平穏に繋がるような予感があった。


 ロイドが正常ではなかったとはいえ、マリアも相応の報復は果たせたのだ。



 思い切り打ちつけてやった頭突きで、彼の記憶が飛んでくれれば尚良い。



 性質の悪い獣に首を舐められただけだと思えるぐらいには、オブライトも男として経験は持っていた。男所帯の酒の場では、悪ふざけで同性の野郎に、肌を舐められた事も数える程度にはある。


 しかし、ロイドの件は、必要以上にマリアを悩ませてもいた。


 何故なら、常に心に平穏を求めていたオブライトは、ああいった強烈な情欲というような感情の動きを、二十七年の人生で見た事も感じた事もなかったのだ。

 

 ロイドの紺色の目や表情に宿っていた、引きずりこまれそうなほどの凄まじい色香と情欲が拭えなくて、思考はまだぐらぐらとしていた。すぐに忘れてしまった方がいいと思うものの、思考の切り替えがうまくいかない。


 不意に、よくもあそこから無事に逃げ出せたなという安堵感がこみ上げた。


 安心感と共に緊張が解れた途端、遅れて顔が熱を持ち始め、マリアは堪らず片手で顔を覆った。



「ああ、畜生」



 取り繕えない言葉が、逃がそうとした熱と共に口からこぼれ落ちた。


 枕話や恋愛話を聞かされても実感はなかったが、想像以上の凄まじさだ。マリアは、先程のロイドの表情を振り払うべく、丹念に目頭を揉みほぐして「よしッ」と意気込み、手を下ろした。


 こんな時こそ、酒を飲んで忘れたい。


 しかし、少女の身でそれは難しいだろうと分かって、気力で捻じ伏せる。


 マリアは、いつも酒に付き合ってくれた友人の一人を浮かべた。こちらを一方的に親友宣言してきた風変わりな男は、黒騎士部隊の副隊長で、何でも気軽に話せる一番の友人だった。


「……はぁ。らしくないな」


 最近は、昔を思い出してばかりだ。


 マリアとしては、自分の選択と最期に、未練も悔いもないと割り切っていたつもりだった。そう思わなければ、深い思考の泥沼にはまってしまうだろうと本能が拒絶している。


 どうして自分は、記憶を持ったままマリアとして生まれ変わったのだろう。



 もし、あの日、知らぬ振りをしないと選択していたならば。

 オブライトは、本当は――……



 ツキリと額に痛みが走り、マリアは思考を止めた。


 彼女は、せめての仇討ちなんて馬鹿げた発想を拭うように、肩にかかる長い髪を手で払った。


                 ◆


 薬学研究棟に行くと、既にアーシュとルクシアが、揃って作業台に腰かけていた。作業台の上には水筒が置かれており、二人のカップの中身は底に届こうとしていた。


「おはようございます。というか、アーシュは早く来たのね」

「お前が何時に来るか分からなかったんだよ。だからこうして、間に合うように待ってたんだろうが」 


 アーシュはそう言って、顰め面をすぐにそらし、憮然とした様子でカップに口をつけた。


 仲間として認めてくれているらしいと嬉しく思ったが、それを顔に出したら彼が拗ねてしまいそうな気がして、マリアは明確な表現を避けて、空いている席に腰かけた。


「昨日ざっと確認してみたのですが、タンジー大国に関わる本が圧倒的に少ないですね。タンジー大国の識字率が全体的に低いせいなのか、国交が薄いせいなのか、――はたまた意図的に文字として残されていないのかは不明です」


 朝の挨拶もそこそこに、ルクシアがそう言った。


「先程アーシュにも伝えましたが、身分と名を隠して、タンジー大国の食べ物巡りをしていた人間を一人見付けました。派手に動いていいものか判断がつかないので、話を聞く件に関して今は保留にしています」

「へぇ。そんな人がいるんですね」

「普通なら、危険を冒してまで郷土料理を食べようとは考えませんし、余程風変わりな男なのでしょう。陛下の信頼は厚いようですが、国や土地の知識を吸収していないのであれば意味がありませんし――。おや、額をどうしました? 赤くなっているようですが」


 気付いたルクシアが、眉を寄せてマリアの額を覗きこんできた。


 額は頑丈なので腫れてはいないはずだが、愛想のないルクシアの顔には、心配するような色が浮かんでいた。


「虫に噛まれてバチンとやりました」


 マリアが真面目な顔で答えると、アーシュも遠巻きに額の様子を確認し、呆れたように目を座らせた。


「あのな、女が顔をバチンとかするなよ。マジで少し赤くなってんぞ」

「しばらくすれば元に戻るわよ」

「痒くなって腫れるかもしれねぇし、薬ぐらい塗っといたほうがいいって。ルクシア様、すみませんが、塗り薬とかありますか?」

「ありますよ。少し待っていて下さい」


 ルクシアが言い、椅子を降りて書斎机へと向かった。キレイになった床の上を、彼の長い白衣の裾が擦れる音が続いた。


 戻ってきた彼の手には、小さな塗り薬のケースが握られていた。マリアは自分でやろうとしたのだが、ルクシアが「ここには鏡がありませんから不効率です」と提案を一刀両断し、座るマリアの前に立った。


 マリアは、十五歳よりも幼く見えるルクシアが額に薬を塗る様子を、瞬きもせず直視していた。こんなに近くで拝めるチャンスはないと、使命感すら覚えていた。


 やはり、眉間に皺がないと可愛らしい顔である。

 眼鏡もイイが、多分、取ったらもっと可愛い。


 思わず頬が綻むと、それに気付いたルクシアが手を止め、「……あなたの性格がだいたい把握出来てきました」と口を引き攣らせ、素早く薬を塗り込んで離れていった。


 逃げるように書斎机へと向かったルクシアを見届けて、アーシュが、ぎこちなくマリアを見た。


「……なぁ、お前ってさ、小さい子が好きなのか?」

「……そんなに警戒しなくてもいいのになぁ」


 マリアは作業台の上で頬杖をつき、書斎机の引き出しに薬ケースをしまうルクシアを眺めた。


 リリーナの婚約が決まってからというもの、以前よりも触れ合いが減ってしまって、マリアには癒しが足りないのだ。今日はロイドのせいで更に減り、クリストファーの顔も見られていない。



 唐突に、オブライト、と呼ぶ低く掠れた声を思い出した。



 何だか胸がざわざわとする。

 有り得ない可能性なのだが、こう、嫌な予感がこみ上げるような……


 いや、奴の事は忘れよう。


 マリアは片手を振ると、アーシュの「どうした?」という質問に「何でもない」と答えながら、ルクシアが戻ってくるのを待った。

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