五十章 公爵様とのデート(8)
「今日は、たくさんのお前の表情が見られて、本当に良かった。またデートしてくれ」
「あっ」
ロイドの唇が、手の甲にちゅっと押し付けられた。
さらりとかかった髪、色っぽく伏せられた長い睫毛――その光景を前に、マリアは一気に頬を染めた。
「いきなり何をするんですかっ」
咄嗟に手を奪い返した。
「何って、挨拶だろう」
そうでなければ、最強の守護者達は黙っていない。とくにフォレスや、そして後ろで待っている侍女長エレナはマナーに煩い。
確かにそうだけど!と思うものの、マリアは免疫がないのだ。
「ふうん」
ロイドが、優越感でちょっとニヤッとする。
「なら、これくらいいいよな?」
「は?」
「髪飾り、今度楽しみにしている」
ロイドがマリアの髪をひとふさすくい取り、そう言ったかと思ったら、そこにキスを落とした。
メイド仲間達から、大歓迎の黄色い悲鳴が上がる。
マリアはピキーンッと固まり、直後、キャパオーバーになった思考が沸点を超え――離れようとしたロイドの腕を、ガシリと掴んだ。
「なんだよ」
彼が、訝って秀麗な眉を寄せる。
マリアは、甘さゼロの殺気立った目を向け返した。
「やられたら、やり返す」
「は……?」
「というわけでロイド様、ご覚悟を」
こちらにそれなりの精神的衝撃を与えたこと、同じようにやり返してくれる。
マリアは報復に燃えていた。それを察したのか、ロイドがその瞬間に余裕もなく距離を取るべく動き出した。
「待て待てっ、落ち着け」
「問答無用」
直後、ロイドが舌打ちして思いっきり回避に入った。だが、マリアの方が早かった。掴まえ、玄関前の芝生で彼をドォッと押し倒していた。
外から帰りを出迎えようとしたマークが、それを目撃して目をま丸くする。
「わーお。マリア、相変わらず漢らしいわー」
ははは、と笑うもののマークは棒読みだった。
のしかかられたロイドが、いやいやいやコレはないと余裕なくマリアを見上げた。
「なんでやり返そうとするんだよっ。さっきやった俺のものが、全部吹き飛んで台無しになるだろ!」
何言ってんだ、お前に限ってそれはないだろう。
とにかく、マリアはドキドキさせられたのがピークを越え、やられてばっかりの状況が許せなくなってきたのだ。
彼女は、ロイドのネクタイを掴み、ぐいっと引き寄せた。
「いいから、言うことを聞け」
真正面から睨みつけたら、ピシリとロイドが固まった。
とはいえ、どうしてやろうかな。
マリアは短い間に考える。ほっぺに親愛のキス、というのは貴族で女性経験の多いロイドも慣れているだろう。
そもそも、さすがにそんなことをしたら、普段から軍部の規律やら富貴やらと言っているロイドを切れさせそうだ。
ここで切れられても、面倒。
うん、まず唇を付けるのは除外しよう、とマリアは思った。
――というか、やっぱり少年だった頃の印象が強くて、報復のような本気の仕返しなんて、できるはずもない。
マリアは、恐々と見ているロイドに柔らかな苦笑をもらした。
『そう構えるなよ、冗談だって』
そんな言葉を込めて、彼女はネクタイへキスをした。
仕返しにはならなかっただろう。でも、これでいい。
マリアは、ゆっくりネクタイから手を離した。今日のことを思えば、尚更、ひどいことなんてできるはずがなかった。
ぽんぽんと、最後に襟元を整え直してあげてから、マリアはロイドの上からどいた。
それを見届けた直後、ロイドが顔を両手で覆った。
「仕返しの嫌がらせというか、ただただご褒美になっただけ……っ!」
やっぱり俺の方の頑張りが全部飛んだ、だとか、こっちの方が強烈に印象に残るじゃないか、だとか、なんとかロイドが独り言をぶつぶつ言っている。
そんなはずはない。
いつも苛める側のロイドには、とても面白くないことだっただろう。
マリアは、変なことを言う奴だと思って小首を傾げた。そちらに関しては、一本取り返した感があったので、満足している。
「これで〝おあいこ〟ですわ、ロイド様。だから、これに免じて、不要な髪へのキスも許してさしあげます」
マリアは、肩にかかった髪を払って歩き出した。
大の大人が、髪へのキスだけで満足するはずもないだろう。そう使用人仲間達の目は語っていたのだが、彼女は気付かない。
――とはいえ、当の公爵様は満足もしたらしい。
「くそぉっ、なんてイケメンなんだ……!」
悶えるロイドと、何言ってんだこいつと、玄関に戻って顔を顰めているマリアを、フォレス達がなんとも言えない目で見ていた。
御者がひまずロイドを助け起こし、話せない状態の彼を速やかに連れて帰った。
※※※
そして、その夜。
「で? 花飾り、今度のデートで付けるの?」
久し振りに大部屋に集まって、一部のメイド仲間達と一緒に眠ることになった。
ゆったりとした寝間着を着たマリアは、シーツの上でむぅっとした。ふかふかの枕を抱えている彼女のリボンを解いた長い髪が、裾から見えた白い太腿にも広がっている。
「……今度、だなんて、きっとないわよ。今回で、そんなに面白くなかったと思ったでしょうし」
デートに誘われたというのに、マリアは最後まで可愛げはなかった。ロイドの期待や楽しみも、さぞ半減したことだろう。
ふうん、とマーガレットが小首を傾げる。
すると、ほぼ下着の双子のメイドが、後ろからマリアに白い腕を絡めてきた。
「マリアも、楽しくなかったの?」
よく似た声を揃えて、そんなことを問われた。
マリアは、今日の初デートを思い返した。ロイドじゃないロイドを見られて――ううん、あれが、今の大人のロイドなのだ。
そう分かった日でもあった。
「楽しかったに、決まってるじゃないの」
マリアは、枕をぎゅっと抱き締めて顔を隠した。みんなが、あの髪飾りもよく似合うと褒めてくれていた。
「あの公爵様、よくマリアを見てると思うわ」
「考えてくれているのね。すぐバッチリなものを選ぶだなんて、相当よ」
うふふ、と双子のメイドが言いながら足を組み替える。最近のお気に入りの下着が見えて、マーガレットが「まぁ」と口に手を当て、それからしょうがないかと微笑んだ。
そんなの、言われなくたって分かってる。すぐに欲しい物だって見つからないでいるマリアも、あの髪飾りを、ひと目でとてもいいなと思った。
喜んで欲しいと思って、設定してくれたデートメニューだ。
楽しくなかったなんて、あるわけがない。
「後半の散歩の話、する?」
マリアが顔を見せると、夕方もずっと聞きたいとせがみ続けていたカレン達の目が輝いた。
「いいわよ! そのための場だもの!」
「期待していて良かったわねえ」
「でも、あとでエレナ侍女長に見られたら、怒られそうね」
「姉さんたちの恰好は、そうかもしれないわね――寝間着どうしたの? それ、下着よね?」
「あ、やっぱり下着なんだ」
大人の下着事情に詳しくないマリアは、目をぱちりとして、双子のメイド達の方を確認する。
と、彼女達が立ち上がった。
「今なら、マークがちょうどそこにいるんじゃないかしら?」
「誘いましょうよ!」
「えっ、ちょっと待って姉さん達!」
マリア達は、慌てて全員で止めにかかったが――。
その数秒後、窓から身を乗り出した彼女達によって、マークの悲鳴が上がり、そして一気に賑やかな声が飛び交い始めたのだった。
※※※
翌日、ジーンは仕事前、王宮の中を猪のように勢いよく走っていた。
目的の人物を見つけるなり、とっ掴まえた。
「おいいいいい! おまっ、俺がウッド公で大変している時に、親友――じゃなくって、マリアとデートしたってどういうことだよゴラアアアア!」
ジーンは、青筋を浮かべて怒鳴る。
軍服が皺になるくらい掴まれ、向かい合わせにされたのはロイドだった。
「なんだ、情報が早いな。ルーカスか?」
「偶然ルーカスの泣き言が耳に入ったんだよバカヤロー!」
近くから大声を浴びせられたロイドが、煩そうに片方の耳を押さえる。
「そうわめくな。俺はな、今、最高の気分だ」
「でしょうね! クソ羨ましすぎるわっ!」
俺なんて侯爵邸にも行けてないのにっ、とジーンの個人的な感想が続く。
だが、ロイドは聞いていなかった。
「昨日はマリアとデートしたんだが。まぁ、自分で言うのもなんだが、なかなかいい雰囲気だったと思う」
ロイドは、若干照れた顔で惚気た。
ジーンが唖然とする。この男の、こんな表情を見たのは初めてのことだった。
「はたから見ると、いい恋人同士に見えたんじゃないか?」
ロイドが自慢ついでに、期待を込めて聞く。
ぶちり、とジーンの方から大きな音が上がった。イラッときた彼が、「ふんっ」と荒っぽく手を離すと、急ぎ道を戻りながら大人げなく言い返す。
「見えないね! 三十四歳のおっさんが、勝手に意気込んで、十三歳の幼女に迫る構図にしか見えないと思うね!」
「くそっ」
その可能性は、確かに本物の恋人同士というわけではないので、ゼロの可能性は低い。
――実のところロイドは、マリアが言っていたところについてはバッチリ気にしていたのだった。