五十章 公爵様とのデート(7)
その目は、今にも殺しにかかりそうだ。
アーシュが、再びごっくんと空気ごと唾を飲み込んだ。
「も、もしや、まさかフラットな空気を羨ましがられている、とか……? いや、まさか……」
「アーシュ、さっきからどうしたのよ?」
途端にアーシュが、全ての感情を無にして黙り込んだ。
「……お前はさ、ちょっと、こう、時と場合というか、状況というか、空気を読むのを学んだ方がいい」
いつだって空気を読んでいるぞ。何を言っているんだ?
マリアは首を捻った。ロイドが立ち止まってしまったので、アーシュの方に進んでくれないかなと思って引っ張りつつ、続けて声を投げる。
「アーシュ。こうして外で会うのは初めてだし、少しだけ一緒に回らない?」
「そこで俺の名前を呼ぶなよ、頼むから」
一歩も進まないでいるロイドは、すごい顔になっていた。
アーシュは、げんなりとする。マリアは気付いていないし、もうむちゃくちゃ嫌だと彼は呟いた。
「うん、マジなのはよく分かった。邪魔してすみませんでした。それじゃっ、また王宮でなマリア!」
「あっ、アーシュ!」
一体誰に言ったのか。謝ったかと思ったら、アーシュがそう告げるなり猛ダッシュで反対方向へ走り出した。
その姿が、あっという間に見えなくなってマリアは残念に思った。プライベートで過ごしたいなと思ったのは、本心だったのに……。
ロイドが、よしよしと頷く。
「さて、散歩の続きをするか」
そう言ってマリアの手を引いて、アーシュが行った方向とは別の道へ向いた時だった。そちらを見た瞬間、ロイドが足を止めた。
「あ?」
ギロリと目が据わったロイドの口から、地を這うように声がこぼれる。
道の向こうの店から、いっぱいになった袋を抱えたルーカスが出てきた。彼が何やらハッとして、がばりとこちらを見た。
直後、ルーカスがくわっと目を見開いた。
「早速デートか!」
こいつ、察知能力だけは一級品だな。
マリアは思った。ルーカスは『デート』であると口にしたのに、まるで幽霊でも見たかのような表情だった。
デートだと察したにしては、ひどすぎる顔だ。
と、ルーカスがくるっと踵を返した。
「見合いの続きでもなんでも、勝手によろしくやってくれ! 俺は何も見なかった! それじゃな!」
脱兎のごとく、ルーカスが逃げ出した。
だが、オブライトだった頃の反射条件で、マリアも素早く追った。
ちょうどいい。ここは、ルーカスに少し付き合ってもらって、ロイドとのデートの時間を短くする――。
だが次の瞬間、マリアの横を素早く何かが走り抜けた。
「えっ、ロイド!?」
びっくりして思わず叫んでしまった。
マリアが目で追う中、ロイドがぐんぐんルーカスと距離を縮めていった。そして彼が両足で飛び蹴りを入れ、一発でルーカスにトドメを刺した。
容赦がない一撃に、ルーカスが荷物の袋を放り投げて、べしゃっと倒れ込んだ。
……あれは、痛いだろうなぁ。
マリアは、一瞬ルーカスの背が、綺麗に反った光景を思い返した。ひとまず走って向かい、ついでに落ちた包みも拾ってやる。
ルーカスが、ガバッと顔を上げてロイドを凝視した。
「何も尋ねず無言でいきなりトドメって、バカかお前は! バカ! このっ、怪力バカ!!」
唐突のことで驚いたのだろう。
語彙力が、大変残念なことになっている。しかもルーカスは涙目だった。
だが、ロイドは泣く一歩手前については無関心だった。涙目で睨みつけられている中、首を少し傾げる。
「ひとまず排除しておこうかな、と思って。お前なら遠慮は無用だ」
「おいいいいい!? 『ひとまずやっちゃう?』みたいなノリでやるの、ほんとやめろ! どんなドS発想だよ!?」
涙目のルーカスが、何やらぎゃあぎゃあ言っている。
ロイドが彼を助け起こす可能性は、これまでのことを考えると、ゼロだ。オブライトだった時と同じく、マリアが手を貸して立たせた。
「はい。これ、荷物ですわ。拾っておきました」
「ありがとうメイドちゃ――」
「ついでに、少し付き合いませんか?」
マリアは、あざとく手を合わせて『お願い』した。
腕に大きな買い物袋を抱え直したルーカスが、途端にテンションを地の底まで沈めた。
「……メイドちゃん。優しくするなら、最後まで続けようぜ。お前、俺にマジなトドメを刺させようとしてんの?」
ルーカスが、ひくっと口角を引きつらせる。
「何がなんでも巻き込みたいらしいな。……だがっ、そうはいくか!」
「あっ」
「あばよメイドちゃん!」
ルーカスが、渾身の走りで逃げ出した。通りの人々の驚いた短い悲鳴が、じょしょに向こうへと伝わっていく。
マリアは、咄嗟に動こうとしたのだが――ロイドに手を取られたかと思ったら、膝の裏に手を差し込まれて、そのまま抱き上げられてしまった。
「何するんですか!?」
マリアは短い悲鳴を上げた。
見えないようスカートを腕で押さえてくれているが、突然の横抱きが恥ずかしすぎた。
「他にも知人がいたら、たまらない。今日は、俺がマリアを独占する日だからな」
ロイドが凛々しく言い切った。だが、言っていることとやっていることが、まるで子供みたいに無茶苦茶だ。
こいつ、今日は頭のネジが一本飛んでんのか?
マリアは、混乱もあって疑問附が頭の中にいっぱい浮かんでいた。
「なぁ」
ふと、ロイドがルーカスを見送りながら尋ねてきた。
「なんですか。もうどこへもいかないので、とっとと降ろしてくださいよ」
と、マリアは、不意にぴくっとして口を閉じた。
横抱きしているロイドの手が、あやしい位置に移動している。スカートがちょっと皺になっているし、それ以上進むと、尻なのだが。
「何もしないと言ったが、ちょっとだけ触っていいか」
「これ以上触ったらぶん殴るぞ阿呆!」
その瞬間、マリアは躊躇なくロイドの顔面に蹴り技を放っていた。
居合わせた人々が悲鳴を上げた。いい殴打音を上げたロイドが苦悶する中、マリアはひらりと着地する。
咄嗟のことで、先に殴ってしまった。
マリアは、自由が戻ってハッと気付いた。
素早く確認してみると、モルツに次いで頑丈な体をしているロイドが、少し赤くなった顔を擦っていた。
――チイッ。倒れもしなかったか。
これがオブライトの体だったとしたら、もっとダメージを与えられたのになと、反省するはずだったマリアは悔しがった。
ロイドは、髪を整えた頃には完全に復活していた。ふぅ、と吐息をもらして、最後に襟を整え直す。
「全く。相変わらず乱暴だな」
これに懲りて、物珍しさからの求婚をやめたらいい。
マリアは苛々して開き直った。ひとめ惚れだとか、短い間にあのロイドがマリアに早急に惚れ込んでいっただなんて、やっぱり信じられない。
「言っておきますけど、これが私です」
「そうでなくてはな」
「は……?」
暴言も吐いた気がするし、完全に蹴りもした。それなのに?
マリアは、指を突き付けた姿勢でぽかんとしてしまった。こちを見た彼が、どうしたと不思議がる。
「何を呆けているんだ?」
「だって、私……その、ロイド様に蹴りも食らわせたんですよ?」
「まぁ、あれは俺が悪かったよ。あの日以来会えていなかったから、つい」
ロイドが、両手を軽く上げて謝罪を示す。
あのロイドが謝っているのだ。その姿を目に映したマリアは、その空色の瞳をいっぱいに見開く。
「俺は、元気でいいと思う」
「元気……」
「お前の、そういうところにも惚れているんだ。だから俺の前では、自由にいていい」
たまらずといった様子で、ロイドが「ははっ」と楽しそうな笑いをこぼした。
それにつられて、マリアも少し笑ってしまった。
「なんですか、それ」
――けれど、少し、嬉しくもあった。
※※※
なんやかんやで楽しい散歩になった。気付けば、時間はあっという間に過ぎてしまっていた。
西日に変わる前よも早く、マリアは彼の馬車で侯爵邸まで送られた。
衛兵組は、見るなり「おかえりー」と呑気に手を振って門を開けた。出迎えた使用人仲間達も、全く心配そうではなかった。
「旦那様の方は、まだお帰りになられておりません」
「そうか。挨拶をしたかったが、手紙を送っておく」
「承知いたしました。その旨、伝えておきます」
代表で接した執事長フォレスが、品よく頭を下げた。
一緒に出迎えられたマリアは、そわそわしてしまった。ロイドの視線が戻ってきて、ドキッとする。
「今日は楽しかった。ありがとう」
「えっ。いえ、こちらこそ」
紳士として礼を取ってきた彼に、マリアも慌てて頭を下げ返した。そんな柔らかな台詞と、そして笑顔を向けられるとは思っていなかった。
カレン達メイド仲間も、ニヤニヤと見守っている。
その視線を感じて、マリアは少し恥ずかしくなった。
「また明日、王宮で会えるといいんだけどな」
「そんなに暇じゃないでしょうに」
思わず減らず口を叩いたのに、マリアを見つめるロイドの眼差しは、柔らかい。
可愛い、と思ってくれているのだろうか。少し前のやりとりを思い返して、マリアは口をつぐんだ。
どうしてか、今は、自分がすごく大人しい女の子になっている気がする。
普段、どう彼に言い返していたのか思い出せない。相手は公爵で、総隊長なのでメイドのマリアがそう言葉をかけていいものではないし――。
その時、ロイドに優しく手を取られた。