五十章 公爵様とのデート(5)
「いや、想像もできないくらいに。たとえば、普通であったのなら嘆く何かを、考えているような気がしたから」
そんなことはない。彼は、一体何を言っているのか?
と、ロイドの目がこちらに戻ってきて、マリアはドキッとした。
館内はとっくに暗くなっている。それなのに、彼の美しい目のしっとりとした輝きまで見えるようだった。
「マリア」
「は、はい。なんでしょうか」
「俺ができることなら、できるかぎりの全部を使って、お前に幸福の全てをやりたい」
真剣に見据えられて、マリアの胸の鼓動が速まる。
よく、分からない。でも胸が高鳴るのは、その心のありようをマリアが知っているせいである気がした。
「私、今でも十分幸せですよ」
前世ではなかったことを、今世では与えられた。
オブライトだった頃は、辿り着いた町でたくさんの温かい人と出会って過ごした。そしてマリアとして生まれた時は、アーバンド侯爵に拾われて家族として迎えられた。
とても贅沢で、泣いてしまうほどの初めての経験だった。
「知っている。アーバンド侯爵は、家族をとても大切にする男だ。でも、そうじゃなくて」
戸惑うように続けたロイドの言葉が、そこで途切れる。視線がそれ、しばし考え込むような間が置かれた。
「俺が思っている以上に、お前の過去には何かあったんじゃないかと――レディに尋ねるのは礼儀知らずだから、しないが」
だから、アーバンド侯爵に拾われる前のことを、彼は聞いてこないのだ。
マリアは、それを改めて理解した。見合いがあった日、ロイドは『待つ』と言った。しかし彼は、マリアの過去に、さらに続きの過去があることを知らないのだ。
どうしてか、触れられた頬が熱い。
胸元をぎゅっと握りしめて、マリアは口を開く。
「こ、婚約の審査期間中みたいなものであるとは、理解しています。そんなに気に入られたいんですか」
今は聞かれたくなくて、我ながら嫌な感じの言い方をしてしまった。
婚約を成立させたいから、そんな風に細かなところまでマリアを見てくれているのか、と。
マリアはただの戦闘メイドで、美人でもない、チビで十六歳の女の子だ。それなのに、あのロイドがこんなにも積極的にくるなんて考えられない。
「気に入ってもらいたいのもある」
聞こえてきた返答に、マリアは気落ちするのを感じた。盗み見てみると、ロイドは気に障った様子もなく、考えつつ顎に触る。
「頷いてくれれば、婚約してもいい、というのがアーバンド侯爵からの返答だ――が」
「が?」
「俺は純粋に、お前と心の距離も近付きたい、と思っている」
「心の……?」
ロイドが見つめてくたので、マリアも彼を見つめ返した。
ふっと彼が口角を引き上げた。
「だから、言っただろう。身分も立場も関係なく、俺は、マリアが好きなんだ」
ずるい。そんな風に笑うだなんて。
マリアは、パッと目を舞台へ戻した。開幕の挨拶が間もなく終わった。
劇が始まった。でも内容も、完全には頭に入ってこなかった。隣に座っているロイドの存在を考えてしまう。
――彼は、自分と同じなんだろうか。
オブライトが、とてもとても、テレーサを好きだったのと同じくらいに……?
そうだとしたら、マリアはどうしたらいいのか。考えもせずお断りするのでは、だめな気がした。
動けない。あの頃のまま、自分は、止まったままだ。
マリアは、その空色の瞳に、演劇の舞台を写した。この会場の中で、唯一光輝く場所。
いい、『歌』だ。
いつの間にか始まっていたサーシャの歌声に、聞き惚れる。
平和宣言から、愛する者と離れ離れにならず自由に思いを伝えられるようになったことを、その歌は賛美していた。
『伝えられるのなら、伝えた方がいい』
先程、ロイドが言っていたことが蘇った。
ああ、全くもってその通りなのかもしれないと思えた。好きであると。可愛いと、抱き締めたいと、オブライトは最期の日まで口にできなかったから。
――あの恋は、終わってしまったのか?
ふと、思いもしなかったことに気付く。舞台の劇に感情がひきずられているのか。きっと、そうじゃないはずなのに、否定の言葉が出てこないのはなぜか。
『オブライトは、死んだ。ここにいるのは〝マリア〟よ』
いつだったか、自分が、再会した友人に告げていた言葉が思い出された。
もしかしたら、私は気付いていたんじゃないだろうか――と思った時だった。わっと歓声が上がって、マリアは我に返った。
劇を続けていたサーシャの、その最後の歌が終わった。
これで終了のようだ。サーシャと仲間達が、舞台で手を握り合って観客達に向けてお辞儀している。観客達は立ち上がり、「ブラボー!」と言いながら手を叩いていた。
マリアは、隣から向けられている視線に気付いた。
ハッと顔を向けると、ずっとこちらを見つめているロイドがいた。
「――淑女の様子をガン見するだなんて、失礼ですよ」
マリアは、強がりでむすっとして文句を言った。ロイドに調子を狂わされてばかりいられるか。
「まさか、舞台を見ていなかった、とは言わないでしょうね? 美人ですし、素敵な歌でしたよ」
何よりヒロイン役を演じたサーシャが美しかった。
絵画に出てきそうな白い衣装を着た彼女は、とても魅力的だった。
「『美女が飾ったのなら、努力も褒めたたえて見るべき』見ないと損、という言葉があったように思いますが」
ふふん、とマリアは年下感でロイドに言ってやった。――それは男同士の常套句の一つなのだが、まぁ、仕方がない。
すると、ロイドが肘宛てに頬杖をついて、余裕たっぷりに微笑んできた。
「舞台を飾る美女よりも、今、俺の隣にいるお前の方がずっと魅力的だ。こうして劇を見ているマリアのことなら、ずっと眺めていられる」
マリアは、かぁっと顔が熱くなった。
こ、こっ……このドSの魔王ヤローつらつらと言いやがって!
女性として褒められる経験も、ほとんどない。マリアが慣れない羞恥でわなわな震えていると、ロイドが手を取って立ち上がった。
「よし、行こう」
「えっ!? あの、どこへ」
半ばエスコートされたマリアは、出るべく歩くロイドに慌てて尋ねた。
「言っただろう。今日は、お前を一人占めしてたっぷり過ごすんだ。デートと言えば、散歩もいい」
視線を返してきたロイドが、いすだらな目で少年みたいに笑った。
マリアに合わせて、そのデートプランを考えてくれたのだ。大貴族のロイドからしたら、ちっぽけなことなのに、純粋に楽しんでいるみたいだった。
そんなにワクワクとした目をされたら、叱れないじゃないか……。
マリアは、手を離してとも言わず彼に付いていった。
※※※
アルトハレンのグリーンラインは、お洒落な店も集中して集まっている場所だ。
建物の景観も洒落ていて、目にも楽しい作りがされている。公園や休憩所も設けられ、歩くにはもってこいだった。
だから、あの劇場を選んだのはそれも理由にあるのだろう。
ほんと、ちゃっかりした男である。
マリアは、照れ隠しのような顰め面だった。ロイドは、ずっと恋人繋ぎをしたまま手を離してくれないでいる。すれ違う人からたびたび注目されたが、先に宣言した通り、彼は全く気にしない。
「へぇ。女が集まってるな」
ロイドが、ふと一カ所の店に目を留めた。
女性と言え、女性と。
マリアは、ほんとこいつ関心がないなと思って、呆れてロイドを見上げた。
「礼儀を持った紳士、ではなかったんですか?」
「俺にとっては、マリアだけが『女性』だ。他は、どうだっていい」
またしてもさらっと爆弾発言を投下され、マリアは目を剥く。しかし、戸惑っている時間はなかった。




