八章 錯乱した魔王と、再会した親友(1)下
何か言いたい事でもあるのだろうかと勘ぐり、しばらく待ってみたのだが、ロイドは口を開かなかった。
こちらの出方を窺っているようでもあったので、マリアは、自分の憶測について言葉を続けてみる事にした。
「毒が知られるのがまずいのなら、その阿呆共は、ルクシア様を直接狙いにくるかもしれないという事ですよね。そうすると、私はルクシア様が滞りなく調査を進められるよう、向かってくる阿呆がいれば叩き潰せばいい、という事ですか?」
「簡単に言えばそうだな。何も難しい話しじゃない。そうだろう?」
「まぁ、そうですね。その方が分かり易くて、やりやすいです」
ルクシアに警戒を感じさせた視線は、恐らく毒を知る何者かが用意した手の者なのだろう。
昨日共に行動した限りでは、密かに護衛にあたる人間の視線以外はなかった。ここ数日は、アーシュがルクシアの周りに張り付いていた状態なので、相手も警戒しているのかもしれない。
とはいえ、本来ルクシアの護衛にあたっている男達も、アーシュがいる事で警戒がゆるむだろうから、その時を狙われる可能性は高い。
仕込みナイフで対抗出来るような相手であればいいが、そんな都合良くはいかないだろう。
マリアは、ソファに背をもたれて頭を楽に預けると、腕を組んでつらつらと思いを巡らせた。
オブライトとしての経験上、王宮に寄越されるような刺客は、騎士に対抗出来るような人間が用意される事が多い。アーシュには悪いが、必要になったら彼の剣を使わせてもらう事も考えた方がいいのかもしれない。
ん? さすがにメイドが剣を振り回すのは、やめた方がいい、のか……?
でもなぁ、剣の方が断然使いやすいんだよな。
「――マリア」
動く気配と共に名を呼ばれて、マリアは現実に引き戻された。
声がした方へ顔を向けると、テーブルの向こうのソファにいたはずのロイドが、いつの間にかそばまで来ていた。
敵意はないが、真っ直ぐ向けられる眼差しは真剣そのものだった。
彼は、驚くマリアに構わず、隣に腰を降ろして顔を覗き込んできた。
なんで隣に座ったんだろうか。
マリアはそんな疑問を覚えながら、顔を若干後ろへと引いた。
「……えぇと、なんでしょうか、総隊長様?」
マリアは、どうにか表情筋を総動員して笑い掛けた。笑顔はぎこちなく引き攣ってはしまったが、ゆっくりと腕を解いて、取り繕うように背筋を伸ばしメイドらしい座り方に戻す。
「お前は、マリアだ」
「はぁ。そうですが」
「アーバンド侯爵家の、戦闘メイドだ」
確認するように、ロイドは一つ一つ強く言葉にした。
黒に見える時がある彼の深い紺色の瞳が、長い睫毛に影を落とされていて、それはどこか葛藤しているようにも見えた。普段感じる棘も悪意も身を潜めており、マリアは困惑した。
部屋に漂う静けさは、どうも落ち着かない類の物であるような気がした。
マリアはぎこちなく身をよじり、それを払拭するように少女然とした愛想笑いを浮かべた。
「はい、総隊長様。私はアーバンド侯爵家の戦闘使用人にして、リリーナ様付きの戦闘メイド、マリアですわ」
何故か、本能的にオブライトと似つかせてはいけないような危機感を覚えた。
ロイドの探るような視線に、まるで首を撫でられるような悪寒を覚え、問答無用で切りかかられる直前のような緊張感が込み上げて、マリアは小首をあざとく傾けて、更にニッコリと笑い掛けた。
「総隊長ではなく、ロイドと呼んでみろ」
「は……?」
今度こそ質問の意図が分からず、マリアは、露骨に胡乱げな眼差しを向けた。
彼の淀んだような目には、有無を言わせない圧力を覚える。
「ロイド様」
渋々望み通り答えてみたが、返事はなかった。
彼は深く思案するように、視線をテーブルの辺りへ降ろしてしまった。
僅かに顔が俯いた事で、ロイドの前髪がさらりと揺れた。絹みたいな髪だなと見つめていると、ふと顔が持ち上がった。
再びこちらに向けられたロイドの目には、これまで見た事がない意思の強さが宿っていた。彼の瞳の奥には、大きな葛藤に抗うような苦悩も揺らいで見えて、マリアは息を呑んだ。
まるで本来の自分を見られているような気がして、マリアは、知らずソファの上を後ずさっていた。
そんな事ある訳がないとは理性で分かっても、これまで向けられた事のない視線に動揺した。
マリアが距離を開くと、ロイドは、それ以上に距離を詰めてきた。とうとう逃げる腰が肘掛にあたり、どうするべきか逡巡した時、倒した膝に彼の足があたって、マリアの思考はピキリと固まった。
素早く見つめ返したマリアは、視線の先に、逃げ道を断つように影を落とす美麗な顔を見て「ひぃッ」と喉を引き攣らせた。
こちらを見つめるロイドの深い紺色の瞳は、まるで酒でもやったような熱が宿っていた。それは、紛れもない情欲の色だった。
いやいやいや、待て。なんでそうなるッ。
オブライトである事を疑われていた訳ではないらしいが、全く安心出来ない。
なぜ、こんな事になっているのか。
とんだとばっちりだが、このままでは拙いような気がする。いや、確実にまずい。
ロイドは騎士の中でも、そういったプライベートな事を仕事に持ちこむ人間ではなかったはずだ。どうしてこんな事になっているのかは理解し難いが、とりあえず、まずはこの空気を払拭しなければならない、早急にッ。
焦ったマリアは、言葉の整理もつかないまま、触れらる距離に彼を近づけさせてなるものかという勢いで口を開いた。
「ま、待て待て……ッ、じゃなくて、ちょっと待って下さい、ロイド総隊長ッ。あの――」
牽制しようとしたマリアは、選んだ台詞が間違いだった事を悟った。
何故か、ロイドの瞳の熱が更に強まったのだ。
出来る限り身を後ろに引いたのだが、ソファの肘掛へ追いやるように詰めてきたロイドを避ける事が出来ず、彼の体温を身体の近くに感じて激しく動揺した。
近い距離から見降ろされ、「マリア」と呟かれた熱い吐息が頬に触れた。
マリアは、口許どころか顔面までも引き攣らせた。
もういっその事、自分はオブライトだと白状してしまおうか。
さすがに、元知人の男だと分かれば、一時の気の迷いも吹き飛ぶのではないだろうか……
というか、なんでこいつはいきなり発情してるんだよ!
すっと伸ばされた手が頬を撫でてきて、思考するだけの余裕も吹き飛んだ。
その指の熱に、マリアは反射的に「ひぃッ」と限界ギリギリまで身を引いていた。
喉が震えて胸中の罵詈雑言もうまく叫べそうにない。生理的な嫌悪感に浮かびそうになる涙を、どうにか瞬きで堪えた。
「あの、ロ、ロイド総隊長殿? た、大変申し訳ございませんが、お話が以上であれば、退出させて頂きたく……」
あ。しまった、動揺しすぎて素で喋ってしまった。
反省する間もなく、ガシリと腕を掴まれて引き寄せられた。
次の瞬間、恐ろしいほどの力でロイドにぎゅっと抱き締められ、マリアは「うぎゃあ」と、色気のない悲鳴を上げて身体を強張らせた。ロイドが肩口に顔を埋め、癖のない青みかかった髪が顎をくすぐって、肩と耳朶に熱い吐息が触れた。
本能的な危機感を覚えた。必死に身をよじるが、両手ごと拘束されて中々振り解けず、マリアは余計に焦った。
よしッ、こうなったらオブライトであると白状する!
そう決意し、口を開きかけた時――
「オブライト」
熱に浮かされた声が聞こえた途端、マリアは、ピタリと口を閉じた。
低く甘い声はどこか夢見心地で、同性である同僚の名前を口にするぐらいに、今の彼が冷静でないとは理解した。
――だが、冷静でないとして、どうして今、自分の名前が出たのか分からない。
予想外の事態に硬直していると、首筋に柔らかい何かが触れた。
一体なんだろうか、とそちらに注意を向けたマリアは、続いて首にキスをされて「ぎゃッ」と飛び上がった。
「あぁ、オブライト……」
そう呟いた唇が、ない喉仏を探るように滑ってきて、マリアは心から戦慄した。
どうしてかは知らないが、このタイミングで自分がオブライトだと打ち明けたらアウトなような気がする。理性と本能が、それだけは絶対に取ってはいけない行動だと、激しく告げているように感じる。
その時、耳をパクリと噛まれ、マリアは「ひぇッ」と震え上がった。
ロイドはそれを怯えと察したのか、宥めるように背をトントンと叩いてきた。マリアは、身体の底から込み上がる嫌悪感に、思わず拳を握りしめた。
何勘違いしてんだこいつはッ! 宥めに入るんじゃない!
「ロイド総隊長様ッ、『オブライト』が誰かは知りませんしストップ! 私はマリアです!」
「マリア……大丈夫だ優しくする…………」
ロイドが、熱に浮かされたように呟いた。耳元で吐息がこぼれた時、小さく「オブライト」と囁かれたような気がする。
原因は不明だが、分かる事は一つ。今のこいつは正気じゃない。
マリアは、どうにか腕を引っ張り返すと、ロイドの頭を掴んで押し返そうとした。「はーなーれーろーッ」と力を込めたのだが、脇腹の弱いところをすっと撫で上げられて腕から力が抜けた瞬間、ソファに押し倒された。
流れるような動きだ。慣れてるな、と現実逃避のように思ってしまった。
こちらを見降ろすロイドの目は、完全に獲物を定めた肉食獣のようにギラギラとしていた。
…………。
何が悲しくて、こいつに押し倒されなければならないのだろうか。
「お前は正気じゃないから、今すぐそこをどいてくれ!」
相手は正気ではないのだし、礼儀なんて構っていられるかと訴えたのだが、またしてもロイドの眼差しの熱が増した。
それは舌なめずりする獣を思わせて、説得は完全に駄目だと悟った。もう、何を言ってもダメな気がする。
……いや、諦めたらそこで試合に負けるッ。
元同性としては狙いたくなかったが、「よし」と意気込んで足を振り上げた。しかし、その攻撃を目敏く察したロイドが、ほぼ上がった瞬時にその足をガシリと掴まえていた。
これは冗談ではすまないぞ、と冷や汗が背中を流れた。
マリアは最後の手段に出る覚悟を決めて、右拳を突き出した。完全に優位に立ったと警戒心を失くした彼が、両手でそれを塞いだところで、自由になった左手で素早く彼の胸倉を掴んだ。
「ッこんのドS野郎!」
意気込んだ勢いのまま一気に引き寄せると、マリアは彼の形のいい額目掛けて、自分の額を躊躇なく思い切り打ち付けた。
鈍い音が響き、額から脳を貫くような激しい痛みが走った。
どちらのものとも付かない「ぐぅッ」という呻き声が上がり、双方の頭がぐらりと揺れた。
痛みで視界がチカチカしたが、マリアは、彼が怯んだ隙を逃さず身をよじって転がり落ちた。一人取り残されたロイドが、額を押さえながらソファの上で屈みこみ、言葉も出ない様子で悶絶した。
マリアは立ち上がると、痛む額を撫でながら「ざまぁみろ」と彼を睨み降ろした。
彼女は今世でも、かなりの石頭なのだ。
アーバンド侯爵家の戦闘使用人の中でも、一番の威力である。
「というか、お前はッ! 見境なしに襲うとか阿呆か! 何に興奮したのかは知らないが、いや、もしかしたらお前を思っている女に媚薬でも盛られたのかもしれないがなッ。とりあえず頭を冷やせッ、このドS性悪師団長!」
もしかしたら、ロイドは物理的なダメージでこちらの声が聞こえていないかもしれないが、ズキズキと痛む額のせいで怒りが余計に増幅され、マリアは我慢出来ず罵倒した。
しかし、踵を返した彼女は、そのまま出て行こうと扉を開けたところで、一度足を止めて振り返った。
「ルクシア様のところに行って来る!」
こんな奴でもいちおう上司だ。律儀に軍人らしく事前報告を行い、マリアは部屋を後にしたのだった。
 




