四十八章 巻き込まれた人達(5)
ふぅとポルペオが吐息をもらして、やや疲労を覚えたように目頭を揉んだ。
「事情は分かった。第三宮廷近衛騎士隊のマシュー、総隊長補佐が迷惑を掛けたな。罰にはあたらない、もう行っていい」
「はっ」
マシューが軍人らしく答え、姿勢を解いた。緊張していたのか、その際にふぅと細く息を吐いていた。
灰色の髪が、ホッとした目元にさらりとかかる。それをマリアが見ていると、ふっと彼が見下ろして柔らかな笑みを目元に浮かべた。
「マリア、また帰ったら会いましょう」
「そうね。ごめんね、マシュー」
「いえ。僕もつい、咄嗟に足が動いてしまいました」
まだまだですねと反省するように、マシューが苦笑して向こうへと歩いていった。
続いてポルペオが、やや同情するような目でベルアーノへと向かった。
「ご無事ですか?」
「ああ、大丈夫だ。たまたま居合わせて目撃していただけだ」
答えたベルアーノが、溜息をこらえるような顔をした。
「それじゃ、私はもう行くよ。マリアも、ほどほどにな……なんだか一気に疲れた……久しぶりに会ったと思ったら、またこのような騒ぎを……」
ぶつぶつと言いながら、ベルアーノが人々の間へと進んでいく。
なんだか、そういう風に認識されてしまっている気がする。マリアは、ほろりと思って口を開く。
「ベルアーノ様、ひどい……」
「お前は、落ち着きがないですね」
「後半はお前のせいだよ」
マリアは、威圧するような目でモルツを見つめ返した。ルーカスがびくっとして言う。
「女の子が、なんて目してんだよっ」
「あなたはビビりすぎです。ところで、お聞きしたいと思っていたのですが、どうしてお二人が一緒にいたのですか?」
「なんだ、知らんのか?」
ポルペオが顔を顰め、問うように目を向ける。モルツと揃って目を向けられたところで、ルーカスがマリアを指差して答える。
「このメイドちゃんが、唐突に俺のところにバレッド将軍を連れて来たんだ。それで休憩から引っ張り出された」
途端、向き合った数人の間が静かになった。周りを通って行く人々が、佇んだマリア達をちらちらと見て行く。
やがてモルツが、考えを終えたように冷静顔で言う。
「事情は分かりませんが、そこにいるソレが原因となって、あなたが巻き込まれて何か起ったんだろうな、というのは分かりました」
「ちょっと待ってください、私だってバレッド将軍に突撃された身ですよ」
モルツが言った矢先、ポルペオがじろりと見てきたので、マリアは思わずそう言い返した。巻き込まれたのは、何も彼だけではない。
ルーカスが、くらりとした様子で頭に手をあてる。
「あのムキムキの護衛に相談されたのは、まぁ俺も理解してる。けど、それでなんで俺の名前を出すんだよ……」
「咄嗟に。つい」
「『つい』の損害がデカすぎるわっ」
休憩時間の終わりも近いからと、ルーカスの言葉で解散となった。彼が来た道を戻るように歩いていく中、モルツは軍区の方へと速やかに進み出した。
「全く、相変わらず騒がしい」
二人の背を見送ったポルペオが、小さく息を吐いた。
マリアは、それを聞いて彼の横顔を見上げた。
彼にしては、少し珍しい気がした。これから説教をしようという気配は感じない。呆れているというか、ただ感想を口にしただけのようだ。
まぁ、怒っていないのなら、いいか。
「お忙しいところ、申し訳ございませんでした。それじゃ」
自分も戻ろうと思って、マリアは薬学研究棟の方向へと足を向けた。
その時、不意に後ろから呼び留められた。
「おい。待て」
振り返ると、顰め面をして待っているポルペオがいた。
「なんですか?」
まだ用があるのかなと思って尋ねてみると、眉間にいつもの皺を寄せている彼に、無言のまま手招きされた。
小走りで戻ると、ポルペオが言ってくる。
「ちょっと両手を出せ」
「両手?」
不思議に思いながら従ったマリアは、直後、空色の目を見開いた。
手にかかった重みは――忘れもしないモノだった。銀の中央に、黒い竜の軍旗が描かれた隊長の胸飾りだ。
オブライトだった頃、毎日軍服に着けていたものだった。新しく作られ、隊長の就任式の際に『お前だけのものだ』と国王陛下から直に頂いた……。
「返しておこう。これはお前の物であって、私の物ではない」
ポルペオの手が、ゆっくり離れていく。
ハッと顔を上げると、ポルペオがマントをひるがえして踵を返した。
――一瞬、ちらりと見えた横顔は笑っていた。
初めて見る満足そうな笑みで、マリアは咄嗟に尋ねることができなかった。こんなにも穏やかに笑った顔なんて、見たことはなくて。
「ったく、ただいまくらい言えばいいものを――また会おう、我がライバルよ」
肩越しに、ポルペオが手を振って歩いていった。
マリアは、その後ろ姿が見えなくなるまで見送ってしまった。先日、ジーンとモルツと話した際のことが、脳裏に思い起こされる。
うーん……。もうコレは、絶対分かってるだろう。
さすがの鈍いマリアも、そう実感した。
・・・
悠々と歩き出したのは、笑った顔を見られたくなかったからだ。
つい、口元がらしくなく緩むのを止められない。ポルペオはマリアから離れながら、けれど結局こらえきれず「くっ」と笑いをもらしてしまった。
「なんとも奇妙な話があるものだ」
黒騎士が、帰還した。
これは奇跡か、それとも神様の悪戯だったりするのか。
――でも、いい。奴が戻ってきた、それでいい。
優秀な軍人としても名高いポルペオは、しかし珍しく考えることをやめる。今は、それだけでじゅうぶんすぎた。
※※※
その日も一日終え、ようやくゆっくりとした時間が取れた。
湯浴みも済ませたマリアは、ふくらはぎまで隠れる寝間着のスカートを着ていた。女性使用人専用の建物の自室で、一人、ベッドに腰掛けている。
リボンも解かれた彼女のたっぷりのだークブラウンの髪が、俯く頬にかかっていた。
見下ろすその手にあるのは、隊長だったオブライトの胸飾りだ。
「――懐かしいな」
いや、不思議と昨日のようでもある。
マリアは、しっくりとくるそれを手で撫でた。あの頃よりも華奢な手には、少しだけ大きい。
こんなにも重い物だったのかと、不思議な心地で眺めていた。そうではないのだと気付いていたから、すぐに頭を振る。
それは、それだけ確かに大切で〝重い〟ものだった。
忘れてはいけない。そして、忘れることなどできない誓いの証――。
その時、不意に扉のノック音が上がる。ハッと気付いた時には開けられていて、マリアは思わず小さく飛び上がってしまった。
「マリア、ココアでも飲みましょう。とっておきのココアを入れましたよ」
そう言いながら入ってきたのは、侍女長のエレナだった。髪を下ろした彼女は、一人の貴婦人のようだ。