四十六章 マリアのお見合い騒動(8)
それは、アーバンド侯爵や使用人仲間達も知らないことだ。マリアが十六年前まで、オブライトとして生きていたという事実である。
「秘密、か」
ロイドが、少し考えるような素振りをした。
「それが、もし話せないようなことであるのなら、俺は無理には聞き出さないだろう。秘密ごと全部、マリアを引き受ける」
「え……? 隠し事があっても……?」
「アーバンド侯爵家の使用人は、事情があって拾われた者もいると聞く――いつか話してもらえるよう、隣で待ち続ける」
抱えているモノも全部、と言われて胸にきた。
マリアもオブライトだった頃、テレーサに対してそう感じていた。抱えているものを全て引き受けたうえで、ひっくるめて彼女の全部を守って、愛したいと思っていた。
今だって、忘れられない。
初めて好きになった人だから。
「もし、忘れられない人がいるのなら」
そのタイミングで聞こえたロイドの声に、マリアは心臓がはねた。
「幼い頃の家族との別れや、何かしらの事情で捨てられた別れがあったとして、今も忘れられないとしても」
続けられたその言葉に、密かに緊張は解ける。
「愛した気持ちから〝痛み〟が消えるように、俺は努力する」
「痛み……?」
「忘れられないのは、それくらいに愛していたからだろ。それほど大切な思いや記憶なんだと思う」
「たい、せつ」
マリアは、メイド衣装の胸元をきゅっとした。
「それを、無理に忘れようとするなんて、きっとだめだ。抱えて、だから次の一歩だって、大事に進んでいかないといけない――と、俺は思う」
「次の、一歩……」
「だから、いつかそれが、愛おしい記憶の一つとして思い出せるように、その痛みなんてなくなるくらいに俺は愛したい」
――この前世の苦しいことも、いつか、打ち明けられるのだろうか。
何度も、そう思っていたことが脳裏を過ぎった。好きだったからこそ、テレーサことを知ってもらいたい。
言えないでいるのは『痛い』からだ。
どうしうよもなく、この胸は張り裂けんばかりに悲鳴を上げる。それほどまでに、マリアは、オブライトはテレーサを愛していたから。
それごと受け入れて、待っていてくれるの? 隣で、ずっと……?
「君は、マリアに何をしてあげられる?」
その時、アーバンド侯爵が訊いた。
ロイドが、彼へと静かに視線を返した。けれどその眼差しは、嘘偽りないと伝えるように真剣だった。
「家族になれる。誰よりもそばにいて、一人にさせない。そして彼女だけの家族を与えたい」
胸の高鳴りが、不意に大きくなる。
家族、とマリアは口の中で繰り返してしまった。アーバンド侯爵が「ふうむ」と、わざとらしく考えるような仕草を挟んだ。
「分かった。そして君の望みは?」
「マリアと、家族になりたいんだ」
それだけが願い。だから、アーバンド侯爵家と繋がることによって発生するような、一切の利益など求めていない。
自分と重なるような彼の言葉に、強く心が揺さぶられた。
同じ、だ。もしかして、彼は本当に、マリアのことが――。
「そして、子供は最低でも三人は作る」
「は」
「子だくさんがいい、この家にも負けない賑やかな大家族にする」
「ふふっ、それはいいね」
気真面目に目標を堂々と告げてきたロイドに、アーバンド侯爵が、作った笑顔ではない方でくすくす笑った。
マリアは、呆気に取られた拍子にハッと我に返った。
違う、そうじゃない。自分はオブライトだ。ロイドが怒りやら精神的ダメージやらで、死んでしまう。
「わ、私は『却下』です!」
そう考えた途端、マリアは咄嗟に叫んでいた。
全員の視線が集まる。ガスパーも不思議そうにしているし、フォレスもメイド達も、ここまできて却下なのかと考えるような顔だ。
アーバンド侯爵が、面白そうに口端を引き上げて顎を撫でた。
「ふうん、――そういうわけらしいけれど、ファウスト公爵、どうする?」
「諦めません」
そう告げたロイドの顔が、こちらを見てニヤリと笑う。
「ほんの少しでも、その可能性があるのなら」
「なっ、何を言っているんですかっ。可能性なんて、ないですからっ」
慌てて答えたものの、ロイドの余裕さは全くびくともしなかった。
「そうやって恥じらってもらっているということは、可能性は『有り』だろ。どんな男にも平気な癖に、マリアは意識してる」
指摘されて、マリアは咄嗟に頬を押さえた。え、これ、意識してるの?
「いや、その、いきなり告白されて、そのうえ、目の前で自分の求婚の話されたら、そりゃ、当然混乱するような」
「意外と、初心なんだな」
「初心!?」
何言ってんだ、お前より当時は九歳年上だったんだけど!?
男としての人生経験だって、ロイドより九歳分は上だった。真っ赤になったマリアは、わなわなと震えてそう思う。
でも、絶対にそんなことはないという自負があったから、不意打ちの初心発言には声も出なかった。
ロイドが、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。勝った、と表情が物語っている。
「そろそろお時間です」
フォレスが、銀の懐中時計を取り出して告げた。
ロイドが不意に立ち上がった。なんだと思って見守る一同の中、アーバンド侯爵に頭を下げた。
「というわけで、娘さんをください、お父さん」
「〝僕〟は、まだ君のお父さんじゃないからね」
答えるアーバンド侯爵は、目が笑っていなかった。
「ファウスト公爵、これはお見合いではなく、あくまで集団の前見合いみたいなものだ。婚約を決める義理はない」
そう言ったアーバンド侯爵が、もともと持っている過激な性質を覗かせてニヤリとした。
「婚約するのかどうかは、全てマリア次第だよ。せいぜい気に入られるように、下積みから頑張るんだね」
ふうんとロイドが呟く。
「つまり、申し込みを蹴られたわけではないんですね。まずまずは合格、と」
アーバンド侯爵は、兆発するように笑っただけで何も答えなかった。
ロイドが「なるほど」と口角を持ち上げる。
「望むところです。俺は、マリア以外に妻なんていらない。それなら結婚の約束をもらえるよう、頑張るだけです」
「え」
マリアは引き攣った声が出た。ロイドがこちらに向き直って、びしりと指をつきつけて宣言してくる。
「俺以上に、いい旦那候補なんていないと思わせてやる」
いや、頼むから、諦めてください。
マリアの思いも虚しく、執事長フォレスと共にロイドが上機嫌に退出していった。