四十五章 まさかの求婚ですか!?(1)
その翌日、大きな屋敷で優雅な朝を迎えた男が、一人。
長テーブルには、朝食後の用意が整い出していた。行き交う使用人の中で、女主人のアトライダー侯爵夫人が指示をしている。
「ふふ、あなたとこんなにゆっくり朝を過ごせるなんて、嬉しいですわ。昨日も、飛び出して行きましたのに」
「ふっふっふ、先に約束を取り付けたから安心――ああ、こっちの話だ」
無精鬚を撫でながら答えたのは、ジーンである。
ジェラン・アトライダー。
アトライダー侯爵にして、この大きな屋敷の主人の大臣だ。どこか満足げに思い返している夫に、アトライダー侯爵夫人は微笑む。
「あら。まぁまぁ、あなたが活き活きとしているのが、わたくしの幸せですわ」
「いや~、昨日も済まなかったな。目覚めの挨拶を飛ばしてしまった」
「ふふっ、いいえ。夜はきちんと、そばにいたではありませんか」
まるで、あの頃に戻ったよう――アトライダー侯爵夫人は、心の底から幸せそうに笑う。
その時、執事のバーモットがそばに寄った。
「失礼致します。旦那様、ウッド公からのお手紙が」
「ん。あとで見る。それから昨日のやつは、参加お断りの返事を出していてくれ」
「かしこまりました」
答えたバーモットのそばから、アトライダー侯爵夫人が思わず顔を覗かせた。
「あら、よろしいのですか?」
「――奥様。殿方の腕を掴んで覗き込むのは、おやめくださいませ。そして近いです」
「デートの時間はさけないだろ」
「――旦那様、私のところから奥様を覗き込まないでください。近いです」
挟まれたバーモットが、冷静顔で指摘する。しかし彼を間に、夫婦の話は続く。
「グイードにチケットをもらった。あいつ、伝手があるからな。見たがっていた演劇、一緒に見に行こう」
「まぁっ、嬉しいですわ! 楽しみにお待ちしておりますわね」
バーモットが、前にも後ろにも行けずとうとう額を押さえた。こっそりと笑ってしまったメイド頭が、呼んだ。
「奥様、紅茶のご用意も整いました。どうぞ、こちらへ」
アトライダー侯爵夫人が、ジーンの顔が見える位置に腰掛ける。
バーモットがメイドから引き継ぎ、ジーンの前に新しいティーカップを置いた。紅茶を注ぎ入れる。
アイロンされた別の新聞を、ジーンがティーカップを片手に広げた。
その時、突然扉がバーンッと開かれた。
「父上! 父上が幼女を嬉々として脇に抱え、大喜びで走り回っていたというのは本当ですか!?」
「ごほっ!」
ジーンが紅茶を噴き出した。慣れたバーモットが、落ち着いて拭いにかかる。
「お、お前な」
げほごほ咽たジーンが、ゆっくりと目を向ける。
ツカツカと向かってくるのは、十一歳の末子ジェミオだ。背中には鞄、そして通っている学校の制服を着ている。
「ジュミオ。ジュミオや。パパが誤解されそうなニュアンスで言うの、やめない? だいぶ誤解がある言い方だよ、まるで俺が変態みたいな」
そこでジーンは、悩み込んだ顔で首を傾げる。
「というか、誰から聞いた?」
「ロイドおじ様がっ、親切丁寧に笑顔で語ってくださいました!」
素直な十一歳、ジュミオがはきはきとした物言いで答えた。
ジーンは、しばし沈黙してしまった。
「……あいつ、やたらと子供に猫被って、こうやって地味にやり返してくるの、やめて欲しいなぁ」
思わずジーンが呟くと、紅茶を淹れ直すバーモットがしれっと言う。
「その方が、あなた達には効果があるからではないですか?」
「俺と友人が、揃って神経図太いみたいに聞こえる……」
バーモットの顔は、まさにそうだと言わんばかりだ。そばでアトライダー侯爵夫人が、くすくす笑っている。
「それで? 父上、ロイドおじ様の話は、本当なのですか?」
やけに力んで確認してくる。ジーンは、朝から元気すぎるジェミオを不思議そうに見つめ返した。
「まぁ、悪意ある表現を除けば、事実っちゃあ事実だけど」
すかさずバーモットが、「旦那様、そんなことをしたんですか」と見てきた。
「いや、誤解だ。最高の友人なんだよ」
「ますます犯罪の言い訳の香りがしますね。ジェミオ様の前だというのに、あなた様ときたら」
「だから、誤解なんだって」
その時だった。ジュミオの強い発言に、場にいた全員が言葉を切る。
「ならば話は早いです」
「え」
ここに来て、その言葉には嫌な予感がする。
まさかの『父上さいてー』でもなく『そんなことをしたんですか』という非難でもない。ジーンは、ごくりと息を呑んだ。
するとジェミオが、間も置かずに語り出した。
「父上っ、僕は五歳の女児を妻にしたい!」
「ごほっ!?」
「失礼、興奮して言い間違えました。ウッド公の愛娘に惚れました、ですので彼女と婚約したいのです!」
「げっほごほッ」
大きく咳き込んだジーンの背を、バーモットが撫でる。
「ま、待て待て。ウッド公の愛娘って、この前見たちっこい子だろ!」
「チラリと見掛けるだけでこの胸は高鳴り、ムラムラが止まらないのです!」
「そこはドキドキに言い変えよう! というか実の父に直球でやめてっ」
ジーンは、思わず椅子を蹴る勢いで立ち上がる。
だが、この思いは猪突猛進と言わんばかりに、息子ジェミオの勢いは止まらない。
「婚約者ならば、手を繋ぎ、あの柔らかな頬をぷにぷにと触り、可愛いと撫で回しても許されます! だから早急にッ、婚約したいのです!」
「いやいやいや、たぶんアウトだから!」
確かに、とバーモット達使用人の表情が語る。
アトライダー侯爵夫人は、まぁまぁと微笑ましげだ。
「ひとまず落ち着け、息子よ。子供はいずれ大きくなるから、ちょっと冷静になろう」
「いーえ! 冷静に待ってなどいられません! 一目見て分かりましたっ、彼女こそ僕の未来の妻であると!」
「なんでそう確信したの!? 一目って……えぇぇっ」
「というわけで、よろしくお願いします父上!」
「あっ、待てジェミオ! まだ話は終わってないからっ」
走り出したジェミオの姿が、あっという間に見えなくなった。
静まり返った場で、ジーンが椅子によろりと腰を落とした。デーブルの上に腕を乗せ、組んだ手に額を押し当て項垂れる。
「はぁ~…………一体誰に似たんだ」
「直感と欲望のままに生きるところは、旦那様と瓜二つかと」
バーモットが、ひとまず冷静になろうとしてティータイムを仕切り直す。
「わたくし、良い案だと思いますけれど。きっと、ウッド公も喜びますわ」
「いや、溺愛に溺愛してるから、またどんぱちきそうな気が……つか、末娘はまだ五歳だぞ?」
「わたしくとあなたは、生まれながらに婚約者でしたわ」
「あー……まぁ、そうなんだけど」
それとこれとはまた話が別……優雅な朝が一変したジーンは、うーんうーんとすっかり悩み込んだのだった。
※※※
――ちょうどその頃、アーバンド侯爵邸。
一階のメインフロアに、珍しく静けさが漂っていた。そこにいたのはアーバンド侯爵、老執事のフォレス、そして館内で動いていたメイド達だ。
庭仕事を少し手伝ってきたマリアは、玄関から入って驚いた。
「え。なんですか?」
全員の目が、じっとこちらを見てきて、思わず後ずさる。
「えぇと……何かあったんですか?」
「んー。ねぇマリア、驚かないで聞いて欲しいんだけど」
アーバンド侯爵が、青年みたいな口調で言った。彼は手に何かを持っていて、見せてきながら言う。
「君に、お見合いの申し込みが来た」
「は……?」
マリアは、目が点になる。
見合い? お見合いって、リリーナが婚約する前にしていたアレ?
「あの、私は貴族ではなく、一介の使用人なのですが……」
困惑交じりに尋ね返した。お見合いを申し込んでくる相手にも、覚えがない。
すると、マリアの思考を見て取ったアーバンド侯爵が、「それがね」と言った。
「君の知っている人だよ」
「へ?」
「申し込み人は、ロイド・ファウストだ」
「え」
「ファウスト公爵本人から、アーバンド侯爵家を通して正式に見合いを申し込みたい、と結婚前提で要望案が来ている」
「はあああああああ!?」