四十一章 神父からの忠告(4)
ひとまず『神父』に気を付けよう。
そう思っていたのは、ほんの先程の話である。しかし、マリアは今、そのジョナサンに壁ドンされていた。
「え……。なんで唐突に出てくんの?」
このシチュエーションを認識するのに、時間がかかった。こうなるまであっという間だったこともあり、思わず呆気に取られた。
薬学研究棟へ行こうと、廊下の階段を下りた直後のことだった。
下の方でジョナサンが待ち構えていて、流れる仕草で階段横の死角へと連れ込まれ、確保されてしまったのである。
その時、こちらを見下ろしていたジョナサンが顔を寄せてきた。
反射的に首を竦めた次の瞬間、マリアはハタとする。
「気を付けた方がいいよ。急速に動きすぎているから」
ジョナサンが声を潜め、耳元でそう言ってきた。
外から見たら、まるで秘密のやりとりをしている男女みたいだ。しかしマリアは、すぐに察して表情が引き締まった。
「まさか、それはルクシア様のことか……?」
可能性としては、それしかなかった。
慎重に確認すると、ジョナサンが真面目な顔で頷き返してくる。
「もしかしたら、吹っ掛けられるかもしれない」
「吹っ掛ける?」
マリアは、真剣になって囁き返した。
彼が、このように待ち伏せするのも少ない。これまでの経験からすると、人の目を気にし、声も潜めている状況は〝至急知らせたいこと〟があるからだ。
「オブライトさん、今のところ相手は〝確信がない〟。そこで、反応を見るために何かしら仕掛けてくるだろう、ってことだよ」
なるほどとマリアは考え込む。
「つまり王国軍の偉いところが動くと、相手に、それなりのことをルクシア様がやっていると教えることになる、と?」
「そういうこと」
言いながら、ジョナサンが壁に付いていた手を離した。
「それについては、僕の方から、もう一回『陛下』に少し話す予定だけどね」
どうやら朝に来ていたのは、アヴェインに用があったかららしい――そして、何か急ぎの情報があって、急で戻ってきた、と。
マリアが推測していると、ジョナサンがようやく口元に笑みを浮かべてくれた。
「でも、そんなに心配しないで。吉報を一つ言えば、今、とっても好都合なイレギュラーが一つある」
「好都合? それはなんだ?」
「いきなり現われた、バレッド将軍さ」
ジョナサンが、指を立てて得意気な顔をする。マリアが「あっ」と声を上げたら、彼はますます満足そうににっこりとした。
「ファンだと公言し、派手に動きまくって国王陛下に謁見まで求めた。それが作りものではないことは、相手方にも伝わってる」
「……そうか。バレッド将軍は〝どちらにとっても〟想定外の人物だったものな」
「うん。そうだよ」
でもさ、とジョナサンは続ける。
「僕としては、そこにもオブライトさんが関わっているんじゃないかと思ってるけどね」
「なんで? 私は何もしていないぞ」
すぐに返答したマリアに、彼はますますにっこりと笑った。
……その笑顔は、一発で黒だと決めつけたアレだ。
マリアがそう思った通り、ジョナサンから続く言葉はなかった。説得するのが面倒だから放置しておこう、という考えも手に取るように分かった。
「お前さ……私のこと、なんだと思っているんだ?」
この対応には何度か覚えがあって、思わず尋ねた。
「オブライトさんは、オブライトさんでしょ」
にこにこしたジョナサンが、「じゃあね」と手を振って離れていった。
※※※
空が、夕刻色に染まっている。
定時を終えた者達が、次から次へと王宮を出始めているのだろう。耳を済ませてみると、風が吹き抜ける音がより耳に付く気がした。
ルクシアは一人、薬学研究棟の一階裏手、そこにある研究私室から出たところで空を見上げていた。
人が少なくなっ時だけ、こうやって少しの間、空の変化を眺める。それは、王宮に戻ってきてからずっとそうだった。
こういう時にしか、出ない。
それが変わったのは、マリアとアーシュが来てからだ。
マリアは、リリーナが帰る時間に合わせて先に出た。そしてアーシュは、定時後に一杯分のコーヒーを付き合い、そして文官の部屋へと向かっていった。
――いつか、この空の色も、一緒に眺められる日が来たりするのだろうか。
仕事とは関係なく、夕涼みをしたり。
そう考えた途端、ルクシアはより胸がきゅっとして白衣の上から握り締めた。この哀愁を誘う秋先の美しい空のせいか、不安は足元から喉元まで膨らんだ。
叫び出したいくらいに、不安を覚えている。
そんなの、今までなかったことだったから、戸惑ってもいた。
――でも、忙しい兄上を煩わせては、いけない。
元より、これまでだって甘えた経験はなかった。今の状況で接触を強めてはいけないとも分かっていて、何もかも身動きが取れないのだ。
「どうされました?」
その時、野太い声が聞こえてビクリとする。
振り返ったルクシアは、草むらから当然のように出てきたバレッド将軍を前に、しばし言葉が出なかった。
――でも、ルクシアは、拒絶の言葉を述べなかった。
今はそんな余裕さえもなかった。自分よりも大人の、誰かに……これまでに膨らんでいっていた不安は、もうこらえきれないほどに大きさを増していた。
気付いた時には、彼は思いを吐き出すように言葉を紡いでいた。
「今の私には、守る者がとても増えました。マリアとアーシュは、かけがえのない友人です。そして、ライラック博士も……」
動揺、不安、焦燥。
それらに呼もままならず、ルクシアは一度息を飲んだ。
「ふ、不安なのです。もし、何かあったら、と」
吐き出す言葉が、呼吸の苦しさでうまく出てこなくなる。
その時だった。バレッド将軍が、不意に目の前で片膝をついた。
「ルクシア様。私と、我が部隊がおります」
不意に聞こえた言葉に、ルクシアは「え……?」と声をもらした。
顔を上げてみると、そこには強い光りを目に宿し、笑顔でこちらを見ている屈強なバレッド将軍の大きな顔があった。
「決して、御身のおそばを離れません」
「しかし私は――」
「いいえ、すぐに信用して欲しいだとかは言いません。ただただ、私が、あなた様に頼られたいのです」
ルクシアの遠慮深い部分を察したかのように、バレット将軍が優しく、そして力強く言葉を告げた。
「実際にこうしてお人柄に触れて、私はもっとずっと、あなた様が好きになりました」
バレッド将軍の言葉には、嘘偽りがないことは、十五歳の人見知りのルクシアもよく分かった。
「だから、どうか頼ってください――私達は、あなた様だけの部隊です」
いつの間にか、そこにはバレッド将軍の部下達の姿もあった。騎馬隊の見栄えがあるマントをばさりと揺らして、全員が片膝をつく。
こちらを見守る彼らの笑顔は、ただただ一心の信頼に溢れていた。
ルクシアは大きな眼鏡の奥で、金緑の目を見開き――。
「…………それなら、守ってくださいますか? 私だけでなく、私の、大切だと思う人達も」
ぽつりと、ルクシアの小さな唇から言葉が紡がれる。
それが願い。不安に揺れ濡れた金緑の目が、くしゃりと眇められるのを見て、バレッド将軍は穏やかに笑ってその華奢な手を取った。
「勿論です。我が君」
バレッド将軍は、両手で包んできゅっと握りしめた。
ほんの少だけ、ルクシアは彼と間の何かが解けて、一歩近付けたような感覚を受けた。
「――なら、近々、あなたの部隊に〝ここを〟守るよう、お願いしてもいいですか」
ルクシアは初めて、自分の護衛部隊に望みを言った。そしてバレッド将軍達は、彼の口から紡がれる考えと意思にひたすら耳を傾けていた。