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六章 女性恐怖症の文官と、毒薬学博士な賢王子(7)

 昔、二人の兄上には、とても憧れていた人がいたらしい。


 誰にも負けない、強くて優しい人。

 だから、剣の腕を磨いたのだと語っていた。


「あの人が負けるわけがない。帰ってくると言ったのに――」


 一番目の兄上と違って、とても厳しいジークフリート兄上が、感情を露わに顔を歪め、苦しそうに泣く姿を見たのは初めてだった。


 ジークフリート兄上は、昔、とても泣き虫だったらしい。

 一番目の兄上が、こっそり私に教えてくれた。



 その人は、卑怯にも毒で殺されたのだと、兄上たちは度々口にした。

   

 父上の両親と兄弟も、みな毒で死んだ。



 ならば、私が取る道は一つだ。

 変わり者といわれ、恐れられようとも、私自身で決めたのだから構う事はない。



 ――こうして、私は、毒薬学博士となった。



                ◆


 謎の毒の調査について、活動拠点は薬学研究棟にあるルクシアの研究私室に決まった。マリアとアーシュがまず取りかかったのは、物置部屋のように乱雑し汚れている室内の掃除と整理整頓だった。


 ひとまず人が出入りし、居座れるぐらいのスペースを空ける事を目標に行動を開始した。本を邪魔にならない場所へ移動しながら、そのつど床も磨きあげていく。


 ルクシアは書斎机のそばの、山積みにされている本の上に腰かけて分厚い専門書を読み、時折視線を持ち上げては、本を抱えたマリアとアーシュが、慌ただしく右へ左へと往復する様子を煩そうに眺めた。


 しばらくもしないうちに、予定していた分まで本の移動が完了した。


 一旦マリアが掃除をメインで担当し、アーシュが椅子の調達へ向かった。彼は薬学研究棟の倉庫に置かれていた、木製の三脚椅子を必要な数だけ引っ張り出し、外で軽く磨いてから室内へと運び込んだ。


 三脚の椅子が作業台に並べられたところで、二人は満足げに眺めた。


 そこで時刻を確認したマリアとアーシュは、予定していた半分の時間で、作業がスムーズに進められた事に気付いた。休憩も挟まず全力でやれば、全部の整頓と掃除まで出来るかもしれないと考え、先程以上の行動力で室内を駆け回った。


 全ての棚の埃を払い、床の汚れも二人で一気に磨き上げた。



 そして、スピードを意識して動き続けた結果、ルクシアの研究私室は、二時間ほどで埃臭さのない立派な部屋へと仕上がったのだった。



「収まりきらない本も、拭いて端に寄せるだけで随分すっきりするのねぇ。というか、アーシュが掃除上手だなんて知らなかった」

「新人は、暇さえあれば掃除に回されるからな」


 アーシュは、偉そうに胸を張ってそう言った。


 部屋の様子をじっくり見回したルクシアが、呆れたように二人へ視線を向けた。


「数日で分けて行うと言っていたのに、まさか二時間で終えるとは……。私には到底真似出来ません。貴方達の体力は底無しなのですか?」

「おほほ、メイドは体力勝負なんですよ、ルクシア様」


 すると、息切れ一つ起こさなかったマリアを、アーシュが悔しそうに睨みつけてこう言った。


「あえて突っ込まなかったけどな、普通のメイドは、数十冊の本を軽々と抱えて走るなんて強硬手段には出ねぇし、高速でぶっ通し掃除もしない。鍛えてる俺と同じぐらい動けるって、お前どんだけ体力馬鹿なんだよ」


 その時、タイミングを計ったかのように、マリアの腹の虫が鳴いた。


 一仕事をしたせいで、正午前にも関わらず既に腹が減っていた。マリアは自身の腹を見降ろし、そう言えば王宮での食事はどうなっているのだろうと疑問を覚え、アーシュへ目を向けた。


 視線の意図を察したアーシュが、片手で顔を覆って深い溜息を吐いた。


「……腹が鳴ったのを恥ずかしがりもしないし、堂々と要求するような目を向けるとか」


 しかし、アーシュは、ふと「待てよ、これは……」と考えてみた。


 普段からルクシアも、研究所員として公共の食堂を利用している、とは聞いていた。まだ十五歳という成長期でありながら、最近は特に、食事事情が不規則だと嘆かれているらしいので、早い食事休憩だろうと名案のように思えた。


「ひとまず休憩にしましょう」


 アーシュが誘うと、ルクシアは、乗り気ではない様子で眉を寄せた。


 マリアはアーシュの意図を察し、真顔でじっとルクシアを見つめた。しばらく彼と視線を絡めていると、再び腹の虫が鳴って、ルクシアが降参したように浅い息をこぼし広げていた本を置いた。


「……実に断りにくい、新しい方法だと思います」

「すみません、意識したらものすぐ空腹感が込み上げまして」

「今日一番の真剣な眼差しだな。説得力も半端ねぇわ」


 外に出た三人は、薬学研究棟に向かって来た白衣の男達と擦れ違った。


 遅れて気付いた男達が、ギョッとしたように振り返り、マリア達の後ろ姿を食い入るように見て「所長が昼食時間前というタイミングで外出!?」と驚きの声を上げた。


                 ◆


 公共の食堂は、オブライトが利用していた時代と違い、改装されてキレイになっていた。十六年前は汚れた軍靴で出入りする事に抵抗がないほど大衆的だったが、歩くたびコツコツと足音を響かせる床も高い天井も、見事に白い。


 マリアは到着してようやく、財布を持っていない事に気付いたのだが、アーシュが「奢ってやるぜ」と頼もしく告げたので、遠慮なく注文する事にした。



「日替わり定食の特大盛りで、サラダは少なめ。単品で唐揚げの大盛りと、バハルの串焼きの五本セットと、鳥の姿焼を一本。あ、それからプリンも下さい」



 注文すると、何故か若いコックが顔を引き攣らせた。


 十六年前から変わり映えのないメニューを喜んでいたマリアは、周りの男達の視線と「そんなに食えるのか?」「兵士でもあんだけ食うのって少ないだろ」「何者なんだ、あのメイド」という声を聞いていなかった。


 実際に食べてみると、料理の量や味付けも昔とほとんど変わっておらず、マリアは、こってりとしていない素朴な味が懐かしくて、席についてから手を止めず食べ進めた。


 半分ほど食べ進めたところで、ふと、マリアは二人の異変に気付いた。


 向かいの席に座っていたアーシュとルクシアの顔色が、あまり良くないような気がする。アーシュはともかく、ルクシアの食事があまり進んでいないように見えて、マリアは思わず首を傾げた。



「どうしたんですか。あ、串焼き一本食べます?」



 自分だけ頂くのは悪い気がして、マリアは二人に勧めてみた。


「いらねぇよ。つか、お前の食いっぷり見てるだけで腹がいっぱいになるわ」

「貴女のその身体のどこに、食べ物が消えているのでしょうね」


 ルクシアの呟きに、アーシュが口を押さえながら「同感です」と同意の声を上げた。


 昔から公共の食堂は、基本的に男所帯なので滅多に女性の姿はない。はじめ癒しを求めてマリアを遠からず見た若い男達は、早々に注文する姿にドン引きし、次第に料理の食べっぷりに注目し始め、完食を迎えると歓声を上げた。



「……なんで遠巻きに褒め称えられているのかしら」

「偉業を達成された瞬間だからではないですか? 向こうから、コックが総出で観察されていましたよ」


 まさか私が残したものまで食べるとは、とルクシアが、どこを突っ込めばいいのか分からないというように、眉間に小さな皺を作った。



「それで、タンジー大国に関わる本を借りるんでしたっけ」


 グラスの水を一気に飲み干して、マリアはそう尋ねた。


 ルクシアは「そうですね。三人いればかなり借りられるでしょう」と静かに肯いた。集める本について思案に耽ってしまったので、マリアは一使用人として、彼らの食器をまとめて片付ける事にした。


「俺も行こうか?」

「大丈夫よ」


 立ち上がろうとしたアーシュを制し、マリアは食器の返却口へと向かった。


 片付けを終えて戻ろうとしたところで、カウンターの前に出ていた大柄な五十代のコックに手招きされ、何だろうかと思いながら歩み寄ってみた。


「お嬢ちゃん、いい食べっぷりだったぜ。どこのメイドだ?」


 王宮で勤めていることもあって、男の髭は丁寧に剃られ、癖毛が窺える剛毛の赤茶色の髪も後ろへと撫でつけられていた。少々強面だが愛想があり、笑うと目が幼くなる。


 陽に強く焼けた肌をした、まるで海の男のような彼に、マリアは見覚えがあるような気がした。

 

「私はアーバンド侯爵令嬢付きのメイド、マリアと申します」

「なんだ、いいとろのメイドちゃんなのか。小さいのに偉いな」


 こいつも、十四歳あたりに見えているんだろうなぁ。


 訂正するのも面倒に思えて、マリアは笑顔で誤魔化した。


「料理、すごく美味しかったです」

「そりゃ良かった。実はな、ずっと昔に、お嬢ちゃんが頼んだメニューばかり注文していた奴がいたんだよ。馬鹿みてぇに食うから、大盛りメニューが増えたんだよなぁ」


 照れたように笑った男の、垂れた目尻の雰囲気に古い記憶が呼び起こされて、マリアは、彼が誰であったのかようやく思い出せた。


 彼は、十六年前に食堂の料理長だった男だ。名前を知る仲ではないが、当時は食堂もこのように立派ではなく、人手も少なかったから、何かと顔を会わせる事が多かった。


 まさか、利用者の一人でしかなかったオブライトを、今も覚えていてくれていたのは予想外で、マリアは彼の顔をまじまじと見つめた。


「お嬢ちゃんが頼んだメニューがあいつと同じで、びっくりしちまってさ。懐かしくて声掛けちまったんだよ。悪かったな」

「そう、なんですか。いやぁ偶然ってあるもんなんですねぇ、ははは……」

「良ければまた食べに来てくれないか? 実は大食らい向けの裏メニューに、『料理長の気まぐれデカ盛り定食』ってのがある」

「えッ、あれまだ続いてるんですか!?」


 作る暇もないぐらい忙しいという理由で考案された、料理長が大皿一つに、その時に用意できる料理やおかずを山のように積み上げた定食である。


 貴族の男達に言わせると「食の冒涜」「見るだけで食欲を損なわせる凶悪な定食」らしいが、オブライトにとっては、空腹時には大満足の素晴らしい定食だった。


「ん? 『まだ』?」

「いえいえ何でもないですッ」

「ふうん? あと、これ持ってけ。鳥腿の丸揚げを三本入れてあるから、王子と、あの文官小僧と一緒に食べな」

「いいんですか? わぁ、ありがとうございます!」


 差し出された袋にマリアが飛び付くと、料理長は一瞬固まり、それから困ったように笑った。「そういうところ、ほんと誰かさんにそっくりで、変な感じだなぁ」と目を細め、目尻に柔かな皺を刻んだ。


 よく土産をもらっていた事を懐かしく思い出していたマリアは、彼の表情に滲む、寂しげな感情に気付けないでいた。受け取った袋の中を覗き込み、嬉しさを隠しきれずにんまりと笑う。


 マリアは踵を返しつつ、彼に向かって片手を振った。



「ありがとう、また来るよ!」



 そう告げると、料理長が狐に抓まれたような妙な表情をした。


 あ、しまった。淑女らしい挨拶じゃなかったな。


 次回からは気をつけようと思い直し、マリアは、ルクシアとアーシュに合流した。手土産をもらった事を自慢すると、何故か半眼でアーシュに「まだ食うのか」と言われた。


 皆の分もある事を説明したのだが、誰も喜んでくれなかった。マリアには、何がいけなかかったのか分からなかった。


                ◆


 食堂を出た後、三人は真っ直ぐ図書資料館に向かった。


 図書資料館に到着すると、ルクシアは迷わずに専門書の並ぶ棚へと足を向け、慣れたように本を手に取ると中身をざっと確認し、次々にマリアとアーシュに持たせていった。


 薬学研究棟のルクシアの研究私室に戻ると、早速、謎の毒の手掛かりになりそうな内容がないかを確認する作業にとりかかった。三人で作業台を囲むように三脚椅子に腰掛け、本を広げた。


「タンジー大国は、地元の薬草を使用した民間療法も多いですから、図鑑に乗せていない種類もある可能性があります。それらしい内容があったら教えて下さい」


 数十分で専門書に根を上げたマリアに、ルクシアがタンジー大国について紹介されている薄い本を手渡した。集中していると時間はあっという間に過ぎてしまい、途中で鳥腿の丸揚げも間食した。


 午後三時前、衛兵と共にヴァンレットが訪ねて来た。


 今日はマリアにとって協力初日という事もあり、彼は様子見がてら、リリーナの本日最後の授業が始まった早い時間に、マリアを迎えるため所在を訊いて探し回ったようだ。おかげで、ヴァンレットを連れて来た衛兵が疲れ切った顔をしていた。


 ルクシアは、ヴァンレットとは顔見知りのようで「お久しぶりですね」と声を掛け、先に礼をして去っていった衛兵に同情するような眼差しを送った。


 マリアも、思わず哀れな衛兵が去っていくのを見届けた。


 マリアとルクシアが黙り込む中、若干緊張を浮かべたアーシュと、のんびりとしたヴァンレットの自己紹介が交わされた。

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