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一章 アーバンド侯爵家の使用人(1)

 アーバンド侯爵家は、長い歴史を持つ身分高い貴族だが、昔から社交界ではあまり目立たない一族であった。


 野心が低く、人当たりの良さから敵を作らない事で知られていて、王都の貴族区ではなく、隣町の領地の片隅に古い屋敷を構え大事に使っていた。交代制で衛兵を二人門番に置いているだけで、他に警備の人間はなかった。



 町がどれだけ安全であるか象徴するようで、それを証明するように事件らしい事件が起こったこともない。



 長閑な侯爵邸の様子は、領民にとって生活の中の一部ぐらいに身近なものだった。アーバンド侯爵は、領民の話を親身になって聞いてくれる人で、孤児院への寄付といった慈善活動にも力を入れる素晴らしい領主だ。


 また、アーバンド侯爵家に雇われている使用人は、全て侯爵自身が拾ってきた一般人という事もあって好感を与えていた。


 侯爵家の衛兵もそうで、世間話や挨拶をしてくれるほど気さくなで子供たちを相手に笑わせたりもする。出入りする使用人も愛想が良く、領民達は彼らと友好関係も築けていた。


 孤児であったマリアも、六歳の頃にアーバンド侯爵に拾われた一人だ。


 出産の影響で身体の弱かった侯爵夫人が亡くなった頃、誕生した令嬢リリーナと歳の近い使用人として、その世話と話し相手にと望まれた。それからというもの、マリアはずっと屋敷の敷地内にある使用人用の住居で暮らしていた。


              ※※※


 使用人の朝は早い。まずは、太陽が昇る前の身支度から始まる。


 アーバンド侯爵家のメイドは、黒を基盤としたオーダーメイドのメイド服で統一されている。女性としての可愛らしさを損なわないふんわりとした長いスカートに、動く際邪魔にならないよう腰周りはしっかりとしていて、フリルのついた専用の白いエプロンを着用する。


 ただし、この屋敷で唯一、十代のメイドであるマリアのメイド服だけは少々違っていた。


 大人の女性のように足を全部隠す長さではなく、スカート丈は、動きやすいように膝が隠れる程度で設定されている。フリルが控えめのすっきりとした特注デザインのエプロンによって、ない胸の膨らみが強調されないようにも配慮されていた。


 また、マリアだけは、大人の女性のように髪を結い上げる事がなく、長い髪を背中に流していた。横の髪を少し取って、後頭部で大きなリボンを使ってとめるのである。


 マリアは、十六歳にしては顔立ちが幼く、全体的に体格も華奢だった。


 日々鍛えているため贅肉は一切ついていないが、そのせいで女性らしい膨らみも丸みもないのでは……と、着飾る技術を持て余している二十代後半から三十代の先輩メイド達に残念がられていた。


 別に貧乳だっていいじゃない。まだまだ成長期なんだもの。


 気にしたら負けだ。いや、むしろ考えるまい。



 そう、彼女も前世では、二十二歳まで身長が伸び続けていたのだ。この際、性別が男だったとかは考慮せず、成長していたという事実のみに目を向けたいと思う。



 可愛らしい少女となった今、少女としての感性で見劣りしないぐらいの胸は欲しいと思うが、これは決してコンプレックスなどではない。


 だって、まだ十六歳。成長期まっただ中である。


「だったら俺の首を絞め上げるのを今すぐやめろよ! お前のバカ力って半端ないからッ」

「――あら、やだわ。オホホホホ。心の声がもれてしまったようですわね」


 朝一番の支度を終えて屋敷についたところで、マリアは、ギースの胸倉を片手一つでギリギリと掴み上げていた。屋敷に努める男性の使用人の中で、二人しかいない十代メンバーのうちの片方であるギースも、アーバンド侯爵が拾った使用人の一人である。


 マリアより三つ年上のギースは、現在十九歳で、ひょろりとした体躯をした見習いコックである。


 彼は癖の入った長い髪を自由に遊ばせており、この国では珍しくない焦げ茶色の髪と目をしていた。平凡顔でいつもモテない事を嘆くギースは、空気の読めない言動で、何人もの女性に振られる天才であった。


 彼は長い付き合いのある大事な幼馴染兼使用人仲間ではあるが、マリアとしては、爽やかな朝の気分をぶち壊す軽口はどうにかならないかと、笑顔のまま青筋を浮かべる。


「朝一番の挨拶が『よっ、今日も貧乳だな』ってどういう事かしらね?」

「ごめんごめん言葉を間違えた! 昨日ナンパに挑戦したお姉さん達が皆立派な胸すぎてさ、お前見ると逆に安心して、ついポロっと口からこぼれたっつうか――うん、マジでごめんな!」

「ふぅ、ギース。何度も言っていると思うけど、私は成長途中なの。成長過程のど真ん中なの。あなたがうっかり口を滑らせるたび、私もついポロっと殺意がわいてくるのよ?」

「可愛い子ぶってるけど言動が露骨で物騒すぎる! 可愛い見た目と声が全部台無しになってるから、とりあえず落ち着こうッ、な!?」


 耳障りな喚き声を背景に、マリアは悩ましげな息を吐いて顔をそらして「どうしてくれようかしら」と残っている手を頬にあてた。


 毎日ダーグ・ブラウンの長い髪を背中にたっぷり流し、リボンで可愛らしくセットするマリアは、愛嬌のある小奇麗な顔立ちをしているので、少女然とした様子が板についていた。


 多くの女性を見てきたギースも、幼い顔立ちをしたマリアが、美少女とはいえずとも、十人中五人は可愛いと口にするだろう事実を認めていた。


 顔のパーツは美醜を強く主張しないものの、小さな鼻も唇も、大きな空色の瞳も、悩ましげな表情一つで、あらぬ男心をくすぐるぐらいには魅力的である。ふわりとした長い髪だって、柔かそうで触ってみたくなる。



 実に厄介であるのだが、マリアは多分、どの町娘に比べても可愛い仕草が似合う少女だ。



 本人は「女の子としては並みに可愛いと思うのよ。愛想を良くすれば買い物で得が出来るぐらいには!」と軽く見ているが、もとから顔も細身の体型も悪くないのだから、ギースとしては勘弁して欲しく思っている。


 ギースは、妖艶な女性が三度目のメシよりも好きだ。自分でもそれを公言しているし、いかがわしい夢や妄想の対象も、全て大人な美女である。


 だからこそ、時々貧乳であるマリアの表情や仕草に、新しい何かに目覚めるような、邪な男の本能に駆られる事がある、とは絶対に知られたくなかった。



 ついうっかりとはいえ、言い訳するように口から飛び出たのが「よ、貧乳」だったなんて教えられない。



 ギースとマリアは歳が近い事もあって、どの使用人仲間よりも、多くの時間を共有してきた。全くとりつくろわない怒気の眼差しを向けられた時なんて、目の前にいるのがか弱い少女だという事さえぶっ飛ぶほどに恐ろしい。


 女性へのナンパが失敗した傷心のせいか、朝一番に見掛けたマリアの横顔にあらぬ妄想が過ぎり、それを打ち払うべく慌てて「貧乳」とからかった等とは知られたくないギースは、必死にうまい言い訳を探そうとした。



「――あなた達、入口で何をやっているのかしら」



 その時、淡々とした声が聞こえて、マリアは途端に興味を失ったようにギースを解放した。声のした方へ顔を向けて、少女然としてニッコリと笑いかけた。


「おはようございます、エレナ侍女長!」

「ごほッ、……はよー、エレナ姉さん」

「えぇ、おはようございます、二人とも。相変わらず元気がいいのね」


 そこにいたのはギースの姉であり、二十代後半の侍女長であるエレナだった。彼女はきっちり指先を揃えて、淑女の鏡のように凛と背筋を伸ばし表情なくこちらを見ていた。


 エレナは、現在十歳となった侯爵令嬢リリーナの淑女教育にも携わっている優秀な女性だった。喜怒哀楽の表情を滅多に出さない人で、焦げ茶色の髪をキッチリと上げている。


 元貴族だった事もあって、エレナはマナーも完璧で、ギースとは似つかない美しい顔立ちが目を引いた。女性らしさが滲み出る肉付きの良い身体は、同性のマリアでもうっとりするほどに素晴らしい。



 恐らくだが、ギースの女性の好みは、ここから来ているのではないか、とマリアは勘ぐっている。



 エレナ並みの女性を求めるには、ギースは男としての色気も器量もないので厳しいだろう。


「ギース、早く料理長のところへ行きなさい。マリア、上の方はマーガレット達がもうやっていますから、先にフォレスさんのところへ行っていただけるかしら」

「はい、しっかり挨拶して仕事をもらってきます!」


 マリアが元気に答えると、エレナの目元が僅かに和らいだ。


「時間になったら、リリーナ様のところは任せましたよ」

「そこんところは大丈夫ですッ。私の体内時計はばっちりですからね!」


 マリアの身体は正直である。きっちり三食と間食を摂取すべく、時間経過を腹の空き具合で教えてくれるのだ。



 ギースと早々に分かれたマリアは、リリーナの私室の前を通った。幼いリリーナの侍従であるサリーが、扉の前の警護にあたっていて、目が合うとはにかむように頬を染めて小さく微笑んで来た。



 サリーは少女のような可愛らしい顔をした、蜂蜜色のふわふわとした髪の十五歳の少年である。リリーナと同じ髪色をしているとあって、並ぶと姉妹にすら見える美少女振りである。


 自信がなさそうに垂れた眉頭、若干潤んだブラウンの瞳。時折帯刀している柄を意味のもなく触る指先は、マリアよりもずっと細い。


 うーん、相変わらず今日も可愛いな。


 本人が気にしているので口にはしないが、マリアは、全員が思っているであろう事を思い浮かべながら、最年少の使用人仲間に声を掛けた。


「サリー、おはよう」

「うん。お、おはよう、マリア。最近は『鼠』も見ないから、良かったね」

「そうね。料理長の『駆除剤』が効果あったのかも」


 サリーとマリアの二人が、リリーナの専属としてあてられていた。


 リリーナが目が覚めた際の対応は、別のメイドが世話にあたるが、その他の自由時間はほとんどを共に過ごす。マリアにとって、サリーは仕事のパートナーでもあるので、朝は必ず声を掛けて情報交換を行うようにしていた。



 サリーに後で会う事を約束して、マリアは執事長の部屋へ向かい、扉をノックした。



 部屋の中から「どうぞ」と声が上がったのを聞いて、マリアは「失礼します」と断ってから扉を開けると、そこには燕尾服に身を包んだ初老の執事長フォレスがいた。


 柔らかい白髪を後ろへと撫でつけるような髪型は清潔感があり、深い皺の入った顔には柔和な笑顔が浮かんでいる。フォレスはピンと背筋を伸ばしたまま、手元に持っていた書類をそれとなく脇に抱え直してマリアを見た。


「おはようございます、フォレス執事長」

「おはようございます、マリアさん。実は『害虫被害』で、カーテンが何枚か駄目になってしまいましてね。私はこれから坊ちゃまのところに用がありまして、窓に関してはマークにやってもらっていますが、修復が完了しているか、見てきてもらってもよろしいですか?」

「『鼠』がいなくなったと思ったら、今度は『害虫』ですか。困ったものですね」


 その出処について話し合うのだろうな、と思いながらマリアは小さく息を吐いた。


 フォレスは、先代侯爵から仕えているベテラン執事である。アーバンド侯爵からの信頼も厚く、屋敷を管理しながら使用人の教育の全ても受け持ち執事としての仕事もこなす、優秀な人間だ。マリアも、研修期間は彼にすごく世話になった。



 マリアがリリーナの専属であるように、フォレスはアーバンド侯爵と、十九歳になる次期侯爵に仕える専属執事としての役割も持っている。



 侯爵家の長男は、騎士団に所属しているので朝がとにかく早い。ここで時間を取らせるのも悪いので、マリアは早々に部屋を後にした。


 見られていない事を確認してから、マリアは屋敷内を走った。見つかって「マナーがなっていない」と怒られる前に、屋敷の裏口から外へと出て目的の場所へ向かった。



 調理室の裏扉がある、小さなハーブ畑の近くに、一階部分の窓ガラスを仁王立ちで眺めている男がいた。動きやすい作業服を着た彼は、庭師のマークである。中途半端に伸びた目立つ赤毛が、白み始めた空の下で風に揺れていた。



「マーク、おはよう」

「あれ、マリアじゃん。おはよう」


 今年で三十代に突入するマークは、気だるげな垂れた双眼をマリアに向けた。中年に片足を入れた彼の細い顔には、昨日から手をつけられていない無精髭が浮いている。


「髭ぐらい剃りなさいよ。マークは眼付が悪いんだから、そんな顔でリリーナ様の前に出たら嫌われちゃうわよ? ところで、窓はもう直ったみたいね」

「ひでぇ言われようだなぁ。あ。さてはフォレスさんに確認してこいって言われたんだな。心外だなぁ、俺はこんなに仕事が出来る人間なのに。お嬢さまが起きる前には、完璧に仕上げるって約束したんだから、これぐらい当然だよ」

「普段のサボリ癖がなければ信用されると思うけどねぇ」

「んなこと言われたって、俺は体力があんまねぇの。花を愛でて、庭をゆっくり整えるのが俺の仕事スタイルだし? お前らみたいに、いくつもの仕事こなすとか、無理!」


 アーバンド侯爵家は少々特殊だ。屋敷内は基本的に執事長と侍女長、料理長と見習いコック、庭師と数人のメイドだけで回している。


 屋敷には警備担当の衛兵が四人いるが、彼らは屋敷内の仕事については関わる事がなかった。アーバンド侯爵令息と令嬢についているそれぞれの侍従が、都合によって柔軟に内外の仕事に加わる事はあるが、彼らの仕事は基本的に護衛のみだ。


「『害虫』は何匹だったの?」

「ん? お~、二匹だったからさくっと片付けといた。おかげで弾を補充し直すっていう無駄な体力が削られたなぁ」


 マークがニッと笑ったので、マリアも、にっこりと少女らしく微笑み返した。


 マリアは、今の生活が好きだ。侯爵達も仲間達も、みんな家族のように暖かくて大好きだった。だから心の底からニッコリと笑い返せるのだと思う。マリアとして生きる人生は、きっと、楽しくて楽しくて、仕方がないとも思うのだ。



 誰も知らない事だけれど、マリアは確かに十六年前まで、オブライトという一人の男として生きていた。



 忘れもしないし、忘れられない。

 オブライトが死んで、彼は考える暇も選択も与えられないまま、マリアという少女として生まれた。


 この不思議な因果に、だから、マリアはそっと蓋をするのだ。

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