四十章 「我らは、正義ができないことを」(2)
その日の夜、マリアはタイミングをみはからって侯爵の書斎室へ立ち寄った。
例の、王都で起っている〝バラバラ遺体騒ぎ〟のことで報告するためだ。アーバンド侯爵も既に聞き知っていたらしい。
「陛下が直々にされると申した。――だから、うちは手を出さない」
アーバンド侯爵がそう判断したというのなら、そこに彼と、彼に連なる組織は関わっていないのだろう。
でも、手は必要ないと、アヴェイン本人が言っただけだったとしたら……?
オブライトだった頃を重ねて、ふとマリアは思った。彼は確かに〝王様〟ではあるのだけれど、じっとしていられないところもあった。
つまり血気盛ん。守る方が大変苦労もする〝主〟。
あまり大きなことにならないといいけどなと思いながら、マリアはそこでアーバンド侯爵の書斎室をあとにした。
※※※
湯浴みを済ませ、メイド仲間のカレン達に別れを告げて自室に引き上げる。
ベッドに、ぼふんっと背中から飛び込んだら、ほど良いスプリングのしなりがあって心地良く揺れる。
使用人なのに、ベッドマットもとても上質だ。
マリアはしばし、大の字で天井を見上げていた。
「過去のこと、かぁ……」
ずっと頭に残っていたのは、日中に見たガスパーの表情だった。
彼もまた、何かを〝決断〟したのだろう。元軍人だった彼の詳細は、あまりは知らない。でもその気持ちは、なんとなく分かる気がした。
――その判断が正しかったのか、今なっても分からない部分もある。
でも、それを考えてしまったらダメなのだ。あの当時の自分と、彼女と、そして残してきた皆のことが思わされて――。
「あ」
ふと、それに対して、答えていた人がいたことをマリアは思い出した。
それは当時、名誉教授だったバーグナー・ハリソンだ。初対面で、初めてオブライトを王宮で歓迎してくれた人間だった。
目を閉じると、当時のことをまるでオブライトだった頃のように思い出せた。
それが、やっぱりマリアには不思議でもあった。
※※※
あの頃、オブライトはまだ二十代前半だった。とある一件で、バーグナーの護衛にあたっていた。
それを話していたのは、彼の狭い部屋の中だ。
周囲の壁は本棚で覆われ、床にも本がたくさん積み重なっていた。人がどうにかこうにか通れる分の道が、ほんの僅かに空いているような状態だった。
そんな中、オブライトは小さな円卓でコーヒーを飲んで、彼と休憩を取っていた。
「私は、亡くなった妻の後を追うことが出来なかった」
初めて、一人暮らしのバーグナーが胸の内を明かした。
「どうしようもない病だった。私は彼女をとても愛していて、死んだら自分もそれで終わりでいいと思っていたくらいだった。恋を知らない君には、まだ少し分からない話かもしれないけれど」
バーグナーは、結婚することをオブライトに勧めていた。
でも当時、オブライトはそういったことに縁がなかった。だから、それについて彼は自分のことを話し始めたのだ。
「でも、私は妻と同じところへは逝けなかった」
語る話は、誰も知らないバーグナーの覚悟の日へと辿る。
「それは、導くべき生徒達がいたからだ。彼らを、置いてはいけない」
「強いですね」
オブライトは、当時なんと言えばいいのか分からなかった。それでも絶望を乗り越え、自分より他人を選んだのだと心から彼に尊敬を覚えて答えた。
バーグナーは、微笑んで小さく首を横に振っただけだった。
「強いか、強くないかというのはね、どちらであるのかを決める定義はなく、それは生きる人間が勝手に定義を置いているに他ならない」
コーヒーカップから立ち昇る湯気に、バーグナーは目を落としていた。
その眼差しは、とても優しかった。オブライトはそれを見て、とてもではないが彼のような素晴らしい人間にはなれないだろう、とも思った。
「だから、私達のような教える立場にある教師は、その視野を広げるための、少しの手助けをする」
「手伝い、ですか?」
「そうだよ。世界は広く、そして我々は、いくつになろうと未熟で柔軟である。絶対とする一つの答えなんてなくて、それは道中の過程の一つに過ぎないのだ、とね」
そう語ったバーグナーの優しい目が、オブライトを見た。
「だから急く必要なんてないのだよ、オブライト」
「俺、急ぎ生きているように見えますか?」
「たまにね、危うく感じる時もある。その時には、恩師に話を求めるといい。きっと、君の考えの良き手助けになってくれるだろう」
オブライトは、何も答えなかった。
もし何かあれば相談してくれていいのだよと、バーグナーの目は語っていた。でもオブライトは、そんな経験はないから黙り込むしかない。
「『正しいか、正しくないのか』は、その時々と人によって、価値観も重さも変わってくる。人は、一人一人が違っていて、過ちを犯しもするし同じ者から尊い道徳だって生まれたりする。そうやって沢山の視点の意見や思いがあって、ある時、ようやく、それが『正しい』のだろうと天啓のように降りてきたりもするわけだよ」
話を聞いていて、ちらりと一つの思いが込み上げた。
「あなたの考える強い人とは、なんですか?」
オブライトにとって、バーグナーもまた強い人だと思えた。それなのに、先程、彼が首を横に振ってやんわりと否定したのが気になった。
バーグナーが、少し考える。
「そうだねぇ、たくさんいるけども」
たとえば、と唇を動かすバーグナーがコーヒーカップを持ち上げた。
「私は、意見や主張をしないからと言って、その人を弱者だとは思わない。彼らは中立に、客観的に、感情論なしにソレをじっくりと考える。考えて考えて、そうしてようやく自分なりの答えを見付けられる。とても辛抱強くて、そして誰よりも強い人間だと私は思う」
――当時、そう、かの有名な教授は口にしたのだった。
※※※
翌日、懐かしい夢と共にマリアは目が覚めた。
一晩寝たおかげだろうか。昨夜までに比べると、凝り固まっていた思考が少しほぐれてくれたみたいに、身も少し軽くなってくれていた。
一通り仕事が済んだところで、唐突にポッと短い休憩ができた。
半ば無理やり座らされて、気付けば一人残される。
「空が、青いなぁ」
屋敷の前庭に座り込んだマリアは、青空に手をかざした。指の間からこぼれる朝の光りと澄んだ空に、不思議な気持ちが込み上げる。
望郷だとか、そういうのは知らない。
けれどオブライトだった頃から、どこから見ても、いつ見ても変わらないでいる広大な空を、こうやってよく見上げては不思議な感覚を思ったものだった。
その時、知った声が聞こえてハタとする。
「マリアがこんなところに座っているのも、珍しいね」
目を向けてみると、歩いてくるアルバートの姿があった。
「出発前の休憩かい?」
「まぁ、そのようなものです。代わりにマークが、料理長に引っ張って行かれました」
それで全て察したらしい。マリアの指の先を追ったアルバートが、次の瞬間、少し「ぷっ」と笑った声をもらした。
「また、サボりを見付かったのかな」
「それを認めたらだめですよ、アルバート様」
「たまにならいいじゃない。彼、いつも寝ずの夜を頑張っているのだから」
「全く、家族にはとことん甘いんですから」
するとアルバートが、そのまま隣に座ってきた。
「だめかな?」
綺麗な顔が、優しげに微笑んで見つめてくる。リリーナと同じ癖のない蜂蜜色の髪が、澄んだ濃い藍色の目にかかっていた。
その綺麗な瞳には、大きなリボンをしたマリアが映っている。
マリアは、小さく溜息を吐いた。
「いいえ。家族に甘いのも、アルバート様ですからね」