三十七章 総隊長様と神父様(3)下
よくある話といえば、よくある話なのである。所詮は子供の癇癪だ。騎士らも慣れたもので、気を悪くされたのならすみません、で大抵は終わらせていた。
だが、その場で、同じことが唯一許されている立場の令嬢。
そのリリーナが、その伯爵令嬢に同じく水をひっかけ直したのだ。
『仕え、付いてきてくれている者を大切なしない者に、領民もついてきませんよ。水をひっかけられた騎士は、クリストファー殿下の騎士にして、今はこの場で預かっている婚約者の〝わたくしの騎士〟でもあります。ここにいる使用人、及び騎士に対しての無礼は、わたくしを侮辱したものと思いなさい』
そうリリーナは告げたらしい。
頑張って働いているのを知っている、リリーナらしい言い方だった。そして伯爵令嬢が怒り、短い間にどちらも引かない姿勢で言葉の応酬がされた。
「私、喧嘩しちゃったの……ひどい事を口にしたわ」
恐らく、それは、ない。
マリアは、執事長フォレス、侍女長エレナもお墨付きで、教育と教養が身に付いているリリーナを思った。先程の台詞だって、十二歳の令嬢にしては十分なくらいだ。
本人は『どちらも引かなくて』という言い方をしていたが、その場はリリーナの圧勝だっただろう。
激しい言い合いというくらい、相手の伯爵令嬢はどうにか反論しようと必死だった。それは正論を言われ、言い返すのに苦しかったから冷静を欠いたのだ。
伯爵令嬢は、ただ文句を言って〝罵った〟。
彼女の方の評価の方が下がったのは、いうまでもない結果だろう。
「ひどい事は、何も口にされていませんよ」
「でも、マリアはあの場にいなかったから……」
「サリーだって、そのようにおっしゃらなかったでしょう? バカとか阿呆とか、そう言うのとは違います」
マリアは、リリーナの髪をすくうように撫でながら、にこっと笑って言った。
「リリーナ様は、きちんと説教されただけです。それは立派で、何も悪い事なんかありません。他の令嬢達も、感謝していませんでしたか?」
「え? ああ、そういえば、そうね……」
思い当たる節があったらしい。思い返している表情のリリーナに、マリアは微笑ましげに続ける。
「いいですか、リリーナ様。必要な時に、そうやって声を張り上げられるのも、きっと大事な事なのです。殿下といずれご結婚され、妻となって支える際には、必要になります」
「そう、かしら?」
「そうですよ」
表情から陰りが消えるのを見つめながら、マリアは、まるで娘を育てているみたいな気持ちで穏やかに目を細めた。
「今回の伯爵令嬢のような使用人や騎士への対応も、社交界では少なからずあって、間違いとはされていません。もしその方が、殿下の妻として気高く相応しいからと言われたとして、リリーナ様は、態度を変えようと思いますか?」
貴族の世界は、難しく複雑だ。見た目や態度からも、個人としての価値をはかられる事もある。友人の付き合いだって、関係のないよそから言われる事だって、ある。
するとリリーナは、またさらに肩から力を抜いて、今度は眼差しに光も戻してぷるぷる首を左右に振った。
「私、変わらないでいるわ。どちらも正解なら、私は、正しく優しい方の貴族の女性でありたい。お母様がそうだったって、お父様も言っていたもの」
でも、まだリリーナには心配があるみたいだ。
ふと躊躇いを見せた彼女に気付いて、マリアは尋ねる。
「いかがされましたか?」
「その……ずっと思っていたの。今回の件で、王宮でマリアが何か言われたりしないかしらって……迷惑をかけてしまったら、ごめんなさい」
「迷惑なんて、一つもないですよ」
マリアは、本心から微笑んではっきり述べた。
「私は、そんなリリーナ様のメイドであって良かったと、誇らしく思っています」
そう言葉で本音を伝えてあげたら、リリーナがようやく、安心しきっていつもの素敵な笑顔を見せてくれた。
その時、いいタイミングで、水の入った器とタオルを持ってフォレスとサリーがやってきた。恐らくは頃合いを見計らっていたのだろう。
「お嬢様、たくさん泣かれたようですね。こんなにも目をお腫らしになったのを見たのも、この爺や、幼少以来でございます」
片膝をついたフォレスが、丁寧にリリーナの涙を拭い始める。
「あっ、やだ恥ずかしい……っ。ごめんなさい」
「いえいえ、たくさんお泣きになって、すっきりされたようで、ようございました。甘いものをお召し上がりになると、湯浴みとマッサージタイム、どちらがよろしいですか?」
「湯浴みとマッサージよ! 明日クリスに会う時、目が腫れたままだったらいけないわ、心配させてしまうものっ」
ぐっと意気込みを仕草で交えて、リリーナが言った。
マリアは、その隣で顔の下半分を隠して悶絶していた。先程までの大人びた感じはどこへ行ったのか、もう耳まで真っ赤になっている。
「はぁ……たまらん、可愛すぎるだろう」
この小さくて、愛らしい天使が素敵すぎる。
ぼそぼそと続けられている呟きに、執事長フォレスが半眼になる。たったそれだけで指示内容を察知したサリーが、リリーナの涙の処置へと移りながら、さりげなくマリアを立たせてどかした。
と、マリアは、サロンの入り口からこちらを見ている使用人仲間達に気付いた。甘い菓子は後になったらしいと見て取ったメイド達が、一旦それを下げていく。
マーガレットが、リリーナのもとへ紅茶を運んでいった。
その入れ違いでサロンの入り口まで向かったマリアは、ふと庭師マークのニヤニヤした顔が気になった。
「何よ?」
「いや~、こういう時は、マリアが役に立つなって。ほんと、男で騎士だったら、隙なしのモテモテっぷりだっただろうに」
それを聞いた途端、マリアは笑顔のままプツンッと切れた。
昨日、また料理の手伝いでやらかした事を言っているのだ。ダンスの授業を王宮で受ける事になった時も大笑いされたのだが、女子力どこにやったんだと、とくにマークは一番うるさくって。
直後、マリアがマークに襲いかかっていた。ぎゃあぎゃあ騒ぐ様子を、見習いコックのギースや衛兵組のニックという男性陣も引き攣り顔で眺める。
「……とうか、マーク先輩って、ほんと全っ然学習しないっすよねぇ」
ニックがぼそっと感想した。彼をちらりと見た他の使用人仲間達は、「先輩衛兵のガーナットに任せて、サボリ……?」とちょっと気になっていた。