三十七章 総隊長様と神父様(1)
マリアのダンスの練習が始まった日、ロイドはスケジュールにあったその時間にさしかかった頃には、もう集中力は地の底まで落ちてしまっていた。
仕事に、全く集中できない。
これは極めて問題だった。ひとまずどうにか現時点までの日程はこなしたものの、正直いうと先程の会議、自分の頭に入ったのかどうか全く自信がない。
こんな事は初めてであるが、頭の中が別件で全部占められてしまっているのだから、仕方がない。
『モルツ、少し休憩する』
先程そう告げて、そのまま王宮の軍区の一角まで落ち着かなさを紛らわせるように歩いた。そして、二階のバルコニーの石椅子にひっそりと腰掛けて、かれこれ二十分。
全く頭から、マリアとの踊った感触やら匂いやら温度やらが消えないでいる。
「ダンス、うっかりリードされてしまった」
口元に組んだ手をあて、ロイドは至極真剣に呟いた。
もしかしたら、ダンスなんて簡単だと言うのを口実に、自分がリードしてちょっと踊れるかも、とか少なからず期待していたところはあった。
――のだが、予想はそれをはるか斜め上にこえてきた。
なんて凛々しい感じで踊るんだ、あいつは。
おかげで手も足も出なかった。なんか、初めてのマリアとのダンスだったのに、リードされる女子みたいな心地を味わって、終わった。
これの逆をやりたかったんだが、と、ただただ無心になろうと努めて考えたりした。基礎じゃなくて、なんでそっちのみ限定で極めてんだよ。少女として身に付けどころが、そもそも間違っていないか?
それなのに、そこもばっちりマリアらしくって可愛いとか思っている、ロイドの方こそ重傷である。
そう自覚したものだがら、こうやって頭をいったん冷やそうとしていた。一度期待したものは、どうにも頭から拭えてくれない。マリアと、ダンスをしたい――。
その時、誰もいなかったはずの、後ろの二階廊下から、不意に知った男のイイ声がした。
「ロ・イ・ド・くーん」
ゾワッと、ロイドは天敵に対する警戒反応を覚えた。
――平気で、こんな風に自分に声をかける人物は、一人しか心当たりがない。
「出たな!」
先日から、神出鬼没にロイドの目にも留まっている人物――。
咄嗟に振り返った先には、案の定、神父服に身を包んだジョナサン・ブライヴスがいた。ロイドより二つ年上の、ブライヴス公爵家の双子の兄の方である。
しかも双子の中で、とくに一番嫌な方の男だ。
いつの間に接近したのか、気配を完全に断っていたジョナサンが、目が合うとにっこりと柔和な笑みを返してきた。
「『出たな』って、ひどい言い方だなぁ。僕は君のミカタだよ?」
その言い方が、既に信用ならない。このキラキラとした笑顔で、大抵の初対面の人間は騙される。
ロイドは鼻白んで、ジョナサンとは対照的な美しい顔を顰めた。
「なんで神父のお前が、堂々と王宮を徘徊してんだよ」
「ヤだな~、君、ちょっと口調が荒くなったんじゃない? というか、ぷふっ、『徘徊』って」
ジョナサンが、ぷっとこらえた笑いに頬を膨らませると、口元に手をあてて顔をそらす。しかし不意に笑顔が不良じみて冷たくなる。
「その言い方、センスないわぁ」
ロイドは、強い苛立ちを覚えた。
こいつと立ち話とか嫌過ぎる。そう思って座ったまま足を組みかえた拍子に、ふとついでのように思い出した。
「いちおう言っておくが、お前への被害をどうにかしてくれと報告がたくさん来てる。全員混乱していたぞ、『王宮なのに、なんか神父が』とかな」
「あれ? そんなには来てないけどなぁ」
あざとく、ジョナサンが立派な紳士の癖に小首を傾げる。それも全く違和感なく許されるのは、その顔立ちが神に愛された慈愛溢れた男、と中身と全く違っているからだ。
ロイドは、疑い深く睨み付けた。気付いたジョナサンが、上位の神父衣装を揺らして「本当だよ」とにっこり笑って言った。
「僕は僕で、陛下に一つ〝頼まれ事〟をされて忙しい」
前日、挨拶に窺った折りに、何かしらやってくるよと請け負ったのか。
昔から性格の掴めない男でもあった。根っこにある性格は、極めて激しい。それなのにブライヴス公爵家の〝双子の嫡男〟として完璧に優等生を演じた。
――どちらが爵位を継ぐのか。
当時ずっと続いていた社交界での噂は、ある日を境に、唐突に王宮を出たのち、まさかの弟が正式に継ぐことが公表されて終結した。
弟が妻に迎えたのは、幼い頃に彼らをみていた女教師。そしてジョナサンは神職へ。
「お前が王宮にくると思わなかった」
ぶすっとロイドは告げた。
「戻る事はないと、近くにさえ寄らなかっただろう」
「そりゃ、だって来る理由がないんだもの」
なら、何か理由が〝できた〟と?
ロイドは訝った。するとジョナサンが、気紛れな猫のように冷たく笑った。
「僕はね、もし僕を王宮から遠ざけようとするやつがいたら、殺すよ」
――邪魔をするのなら排除する。
それくらい、当時と同じほど王宮に執着があるらしい。目的が定まるとジョナサンは行動が早く、今や王都の教会あたりの信用を全部勝ち取っていた。
「よく分からん奴だ。どういう風の吹き回しなんだか」
ふんっと顔をそむけた。
とっととどっかに行け、という思いを込めて立ち上がる。バルコニーの柵にもたれかかると、もうしばらくの貴重な一人の休憩で。風にあたって風景を眺めた。
だが、ジョナサンがじょじょに、なんだか嫌な感じでゆっくりずつ近付いてくる。
「なんだよ?」
とうとう横に並ばれてしまって、ロイドは顰め面で睨み返した。
不意にジョナサンが、口元に手をやってによによと小馬鹿にする感じで笑う。
「う・ふ・ふ・ふ。ロイド君――君は恋、してますね?」
何故か、神父口調でそう言われた。
その瞬間、ロイドはよりかかっていた柵の一部を、持ち前の馬鹿力でうっかり手で握り砕いていた。
一番知られたくないやつに、知られている。
顔面は真剣そのもので崩れていないものの、ロイドは一心にそれを考えた。いや、吹っかけられているだけかもしれん。今ならまだかわせ――
「しかも相手は、まさかの子供かな?」
――やばい、逃げ道が見つからん。
これは、確実に相手を絞られている気がする。いつもジョナサンの情報の掴みどころは不明だった。だが、それは恐ろしいくらいに正確だ。
「うふふ、これからもよろしくね、ロイド」
ここの軍部のトップの立場として、下の意見を汲んだりして出入りに文句を言わないのなら黙っていてやる、と遠回しで脅された気がした。
いや、それとも、こいつの性格の悪さで、ただ面白がられているだけなのか。
どっちなのか分からない。だが、ロイドは、鼻歌をやりながら離れていくジョナサンの存在を感覚で追いながら、思った。
――だからあいつは嫌なんだ。
そして、その日から、陛下に会うついでにちょくちょく小刻みにジョナサンは現われ、ロイドのストレスは続く事になる。