三十六章 メイドはダンスを練習中(1)
その翌日から、マリアのダンス練習が始まった。
パーティー参加に向けて、王宮の一室で、一番基本的なものが踊れるようにと、ダンスの初級練習を受けることになった。
毎日、リリーナが登城するたび行われる。彼女のダンス授業に合わせたスケジュールで、マリアも薬学研究棟から移動して別室で約二時間を受講した。
慣れないことをするのは大変だ。
前世の頃から苦手意識があったのだけれど、どうにもドッと疲れる。
「なんか、妹みたいに心配されたな……」
マリアは、クリストファーやリリーナの講師の、その助手の一人である若手のシェイラ先生を思い返して呟いた。
覚えが遅い(かもしれない)生徒で申し訳ない。侯爵家令嬢であるリリーナのメイドとして必要だと言われれば、初心者コースくらいは踊れるように頑張らねばとも思う。
シェイラ先生には、別の場所で第四王子殿下の婚約者のメイドとして修業しているのだ、と伝えられているらしい。
『私も結婚するまでは、侍女として勤めていたことがあるんですよ。両立の修行は大変かもしれないけれど、筋は悪くないから頑張ってね』
労い笑顔でそう言われた。
――なんだか、ふわっと笑った感じがとても優しい女性だった。
「うん、頑張ろう」
あまり女性に手間をかけさせてもいけない。ダンスは男性がリードする。相手に身を任せて初級ダンスを踊れるくらいになるまで、がマリアに課された習得内容だった。
廊下を、疲労感がある足でゆっくりと進む。
マリアが初級ダンスの授業を受けているのは、薬学研究棟と王族私室のちょうど中間くらいに位置するところにある部屋だ。普段から、王族の私室の出入りまでしているメイドの行き交いが多い。
と、そんなことを思い返して歩いていると、ふとどこからか「あっ」と上がった声と同時に、パッと強く視線を向けられるのを感じた。
「ん?」
リボンのメイド、と聞こえたような気がして振り返る。
すると向こうから、シーツを抱えた三人のメイドが小走りで寄ってきた。年頃は二十代くらいか。頭の白いカチューシャが可愛らしい。
「あの、リリーナ様のメイドさん、ですわよね?」
「はい、そうですが」
マリアが足を止め、きょとんとして答えたら、彼女達が「本物だわ」とひそひそ声ながらどこか感動したように言った。
……ん? 本物って、なんだ?
そんなことを考えていると、一人がやや頬を染めて言う。
「あの本、わたくし達も出回ってすぐ読みましたわ。すっかりファンになりまして」
「本?」
「確かにリリーナ様のメイドは、どこか普通と違って、小さいのに凛々しく頼り甲斐があると、以前から思っておりましたの」
はて、一体なんだろうなと、マリアはいよいよ分からなくなる。
すると一人のメイドが、言葉を続けてきた。
「先日から、少し気になっていて心配に思っていることがありまして。どうしたら良いのかと困っていたのですが、確かあの赤毛の方ともお知り合いなんですよね……?」
頭にパッと浮かんだのはニールだった。彼の赤毛は、他では見掛けた事がないくらいに、とても鮮やかで目立つ宝石色だ。
黒騎士部隊がなくなってから、ニールは王宮で大臣ジーンの手伝いをしている。女性の使用人の間では、迷惑がられている方向で存在が知られているのを思い出した。
「はい、知り合いですわ。――もしかして、何かありました?」
マリアが心配になって尋ねると、彼女達が顔を見合わせた。
「あの、その赤毛の男性は、いつも堂々と倒れて私達が通るのを待っているような風変わりな方ですので、違うとは思うのですが……」
あいつ、ここ最近もやっているんじゃないだろうな。
そういえばと、王宮でニールと再会した時、そしてその後のことも思い出した。直近では見掛けていないが、どうなんだろうなとマリアはふと思う。
もしそうなら、元上司として一発シメることも頭の隅に検討案を置く。
「何か、心配されている事があるのですか? 私でよければ話を聞きますから」
「ありがとうございます。実は、いくつか部署に別れて、私達の更衣室があるのですが、そこに行く前に視線を感じて、不安に思う子達が続出しているのです」
「視線?」
「はい。もしかしたら、覗きなんじゃないかと」
裏手側近くの更衣室に向かう廊下。時間は日中で、不定期。先日から唐突に始まって、ここ毎日ずっと続いているらしい。
けれど関係者しか利用しない建物側でもある。上の階は、階級が上の使用人か、軍の上のクラスの人間がたびたび通ることもあるので、風紀が乱されるとも考えにくい。
「でも、そもそもこの王宮でチカンだなんて、ねぇ」
「そんな不埒なことをされる騎士様達も、いらっしゃらないようなところですし」
「わたくしたちの侍女長様にご相談申し上げようにも、そんな事がないように安全面を考えて配置されている部屋でもありますから、今のお忙しい時期もあってお声をかけづらくって」
第四王子の婚約者のお披露目もあって、多忙なのだろう。
風紀を乱しにくいようなところでも、堂々とポジティブに覗きをやってのけるのは、普段から廊下に堂々と寝転がったり、スライディングしたりするニールくらいなもので。
「――ふっ、なるほど。よぉく分かりましたわ」
マリアは、フッとした笑みを浮かべた表情ながら、スカートの横にある手はギリギリと拳を作っていた。
「チカン野郎の情報を、どうもありがとうございます。私の方でも、ちょっと本人に聞きつつ確認してみますわね」
にっこりとマリアに笑い掛けられた王宮メイド達が、『チカン野郎』というキーワードへの反応のタイミングを逃した。頭を下げたところで、仕事途中であるのを思い出して足早に移動していく。
その時、マリアはそこに知っている顔があることに気付いた。
「モルツさん、ニールさんの居場所を知ってます?」
マリアが知る限り、モルツは意外と周りの状況を見て把握している男だ。にこっと笑いかけて、小走りで寄る。
爽やかな笑顔だ。表情には一切雰囲気は出ていないけれど、これは確実に切れている。
いいタイミングで通っていたモルツは、話が聞こえていたのか何か言いたげだ。
だが少し考えると面倒になったのか、目の前までマリアが来たところで、彼は書類を抱え直して向こうを指した。
「彼なら、恐らくは公共食堂にいると思いますよ。周りの勤め人が羨ましがるような、呑気で調子の外れたプリンの歌をやりながら、歩いているのを見掛けましたから」
「ありがとう、モルツ」
こそっとマリアは、素の口調で言って軽く笑った。
去り際、ぽんっと腕を叩かれたモルツが、やれやれとした感じを少し弱めて、珍しく口元にほんのりプライベートな笑みを刻んで彼女の後ろ姿を見送る。
「まったく、あなたは相変わらずですね」
まぁ、よしとしよう。
モルツが、先程より軽い足取りでマリアと反対方向へと進んでいった。