六章 女性恐怖症の文官と、毒薬学博士な賢王子(5)上
第三王子ルクシアが通う軍医の記録保管庫は、吹き抜けとなっている中央庭園沿いにあった。中央庭園は、四方を王宮の回廊で囲まれた造りをしており、回廊から低い段差の階段で降りられるようになっている。
こちらは庶務の管轄区だ。
軍医の記録保管庫の前には、二人の衛兵が配置されていた。彼らは許可証を持った人間を確認し、重圧な鉄の扉の開閉を行う役目もあった。
アーシュから「ここが見張り位置だ」と、記録保管庫が眺められる中央庭園の木陰に促される間も、マリアは長閑な空気に絶句していた。
回廊を歩いている男達は、顔見知りに「やぁ、どうも」と大きすぎない声で応え、作法が身に沁みついた足取りで静かに歩を進めた。大人しい男達の出入りが少しあるばかりで、とても静かだ。
立ち話に花を咲かせるような人間もおらず、つまらないからと仕事を放棄して、部屋から飛び出してくるような輩もいない。罵倒も破壊音もなく、上空を飛ぶ鳥の囀りすら聞こえてくる。
つまり、そこはマリアが良く知る、荒々しい筋肉野郎が出入りする軍区とは正反対の場所だった。
こんな平和な部署があるとは知らなかったと、マリアは、しばし呆けたように傍観していた。文官達が軍人を「荒くれ者だ」と声を潜めて遠巻きに見てくる理由が、少し分かったような気がする。
「……アーシュのところも、こんなに静かなの?」
「いや? 騎士団の文官室は騒がしいぜ。こっちは宰相様側だし、軍の学校を卒業した俺らと違って、あいつらは生粋のお坊ちゃま学校から上がってきてるからな。そのせいだろ」
四方は廊下と各部屋に囲まれていることもあり、ここに乱暴な輩が入り込んでくるのは難しいだろう。
マリアは、ひとまずはアーシュの仕事の様子を窺うべく視線を向けた。彼はメモ帳とペンを取り出すと、「いいか、俺がやっているのはな」と説明を始めようとしたのだが、そこで予想していなかった事態が起こり、二人は同時にピキリと固まった。
遠巻きに見るはずだった第三王子ルクシアが、唐突に記録保管庫から顔を出したのだ。しかも、出入り口で足を止めた彼は、その視線を真っすぐ、マリアとアーシュの方へ向けて来た。
普段はないルクシアの行動に、外にいた二人の衛兵も面食らったようだ。彼らは、完全に隠れきれていないマリアとアーシュを、心配そうにチラリと盗み見た。
「…………」
ルクシアは長らく無言で、観察するようにマリア達を睨み据えていた。
平均的な十五歳の少年と比べると、ルクシアは一回りも華奢な少年だった。ざっと見ただけでも、身長はマリアよりも低い。
小奇麗な顔は幼い丸みがあるものの、年齢に不釣り合いな怪訝さが浮かんでいた。大きな丸い眼鏡を掛け、学者のような正装服の上から、裾が床に付くほどに長い成人用の白衣を着ている。
ルクシアの瞳は、国王陛下アヴェインと同じ宝石のような金緑色だったが、そこには年頃の無邪気さや私情は窺えなかった。王妃カトリーナとそっくりの赤みかかった栗色の髪も、適当に耳が隠れるまで伸ばされている。
呆気にとられて視線を合わせていると、ルクシアが、秀麗な眉を更に寄せた。
「ここ数日、鬱陶しいと思っていましたが、貴方、兄上が寄越した余計な人材でしょう。私の記憶に間違いないようであれば、彼の友人の中でもっとも自由に動けてマークもされていない、アーシュ・ファイマーあたりだと思うのですが、間違っていますか?」
「うっ、……すみません、間違っていません」
途端に、アーシュが「どうしよう」という目をマリアに向けた。
そこで助けを求められても困る。お前の方が先輩だろう。そう思っていると、ルクシアが続いてマリアへと目を向け、推理するように腕を抱えて指先を顎に沿えた。
「――うちにいるメイドではありませんね。上質な生地のメイド服を特注で作らせる家は、そう多くない。となると、恐らく今日いらしている私の弟の、婚約者に付いてきた侯爵家のメイド、というところでしょうか」
「お~、お見事」
推理力があるなぁと思い、マリアは、感心したままにそう言ってしまった。
ルクシアの眉間の皺がますます深まったのを見て、マリアは咄嗟に愛想笑いを浮かべ、「申し遅れました。私は――」と答えようとしたのだが、ルクシアが手を上げてそれを制した。
「私が既に把握したので、改めて口に出さなくて結構です。名前だけで構いません」
「マリア、と申します」
こちらの声を聞きながら、ルクシアがさりげなくアーシュの腰の剣を確認するのを、マリアは何気なく目に止めた。
自衛や警戒心が人一倍強いらしい。そこから考えられる一つの可能性を確認するため、マリアは、手を上げたままの彼の白衣の袖の付け根あたりへ目をやった。白衣の内側には、仕込みタイプの小型銃の膨らみがあった。
その視線に目敏く気付いたルクシアが、舌打ちするように顔を歪めて手を降ろした。
マリアは、露骨だったかと思って反省した。それにしても、不機嫌な表情も愛らしい感じに映る少年王子である。愛想がないのも、これはこれで、なかなか新しい感じでグッときて可愛――
「……露骨に『可愛い子供だ』という目を向けないで頂けますか」
指摘され、マリアは「おっと」と表情を引き締めた。
顔に出ていたのだろうか首を捻ると、ルクシアが若干引いた表情で後ろへ後退した。だって可愛いのだから仕方ないのだ。マリアから見ると、ルクシアは幼い頃の第二王子ジークフリートの面影がある。
サイズの合っていない白衣も、とても良い。
もしかして眼鏡を外したら、女の子に見えなくも、ない、のか……?
……あ、それは無理だな。目鼻立ちが完全に男の子だ。
「よく分かりませんが、ろくでもない事を想像している気します。変わったメイドですね」
「それは俺も同感です」
アーシュが間髪入れず賛同した。
ルクシアが、ふぅっと息を吐いて腰に片方の手を腰に当てた。長い睫毛が影を落とす横顔には、十五歳の少年には早い勤勉的な疲労があるようにも見えた。
「いいでしょう、分かりました。遠巻きに周りにいられても、咄嗟にどちらの人間か判断出来なくなる方が不効率というものです。見るだけなら、そばでいくらでも見張ればいいと思います。許可しますので、どうぞ」
思案するようにそう語った後、ルクシアが入室を促してきた。
マリアとアーシュは、戸惑いつつも記録保管庫へ足を踏み入れた。
◆
記録保管庫は、鉄格子の窓が二つあるばかりで、膨大な量の厚いファイル資料を収めた棚が所狭しと敷きつめられていた。進んだ先には簡易なテーブル席が三つあったが、室内に他の人間の姿はなかった。
「静かな場所ですね」
周りを見渡しつつ、マリアは、先に腰掛けたルクシアの向かいの椅子に座った。
アーシュがギョッとして「そこでいいのかよ」と言ったが、机に乱雑する資料に目を落としたルクシアが「構いません」と告げた。
「ここでの私は、ただの毒薬学博士であり、王族ではなく薬学研究棟の所長です。堅苦しくされるほど立派な事はしていませんので」
興味もなさそうに淡々と語り、ルクシアが分厚い資料を広げた。
テーブルに揃えられていたのは、死体検分目録、死亡記録目録と仕分けられたファイル資料だった。どの資料も、王宮に勤めている軍人以外の死亡記録書だ。
この部屋の棚のどこかに、自分の名前が記載されたものもあるのだろうかと、マリアはそんな事を考えた。
「そういえば、死亡記録を確認されて、何か分かった事はありました?」
思いついてそう尋ねると、ルクシアが手を止めて、目線だけをジロリとマリアへ向けた。
「兄上に寄越されたのでしたら、話しは聞いているでしょう。私は転落死について毒殺を疑い、そのために記録を洗い出している。――それだけです」
つまり、協力を仰ぐつもりはないということか。
とはいえ、それでは困るのだ。マリアはとしては、腹を探り合うように時間をかけて取り組むのは苦手であるし、白黒をハッキリさせたいタイプなのである。
「殿下、――あ、博士ですから『ルクシア様』と呼ばせて頂きますね」
「構いません。……続きを」
「はい。私達はある程度暇を与えられている身です。折角ですから、協力させて下さいませんか? アーシュは優秀な文官ですし、私は護身術には長けていますので、お役には立てます。ここは協力体制を取った方が都合もいいと思うのですけれど、如何でしょうか?」
マリアは愛想笑いを浮かべて、先手を打つようにそう提案した。
先程のルクシアの口振りだと、恐らく自分が狙われるような気配を察する何かがあったのだろう。武人でない者は、咄嗟に敵か味方か把握するのが難しいのは確かだ。だからこそ、要人は専属の護衛を連れている。
短いやりとりの中で、マリアは、ルクシアの洞察力と推理力にも興味を引かれていた。それに、彼が調べている謎にも興味があった。
どうせロイドに巻き込まれてしまったのだ。嫌々付き合わされるよりも、一緒に問題を解決する方が手っとり早くて、楽しいに決まっている。
アーシュが、「ここでそれを言うのか」という顔でマリアを見た。マリアは、決して強制はしないという笑顔で、ルクシアの判断を待った。
思案するような長い逡巡の後、ルクシアが、訝しむように目を細めた。
「……貴女は私に、貴女達を使えとおっしゃっているのですか?」
「それはルクシア様の自由ですわ。荷物運びでもお茶汲みでも、暇な際のお話し相手でもかまいません。言葉にする方が、考えがまとまる事もありますでしょう? それに一人は心細いですわ」
マリアは淑女らしく言うと、ここぞとばかりに、可愛いと好評の少女然とした微笑を浮かべて、あざとい角度に首を傾けて見せた。
ルクシアは考えるように沈黙していたが、諦めたように溜息をこぼした。不服だが、と前置きするような眉間の皺を指で押しながら「いいでしょう」と言った。
「ここは完全防音です。貴女達に出来る事は何もありませんが、確かに『口にした方が』というのは父上も兄上もおっしゃっていることです。――ところで、その気持ち悪い口調は無理に作らなくて結構です。普通でお願いします」
なんでだよ、完璧だっただろう。
マリアは、納得いかず怪訝な表情を浮かべた。アーシュが「普通が一番だよな」としたり顔で頷く様子が腹立たしかった。
すると、私情の窺えない金緑の瞳で、ルクシアが改めて二人を見据えた。
「これから話す事は、他言無用でお願いします」
彼はそう前置きすると、調査の段階のため、まだ誰にも語っていない前代未聞の推測について、淡々と話し始めたのだった。
 




