三十四章 大司教邸と王国軍(7)
マリアは、彼の方を見て尋ねた。
いつの間にか、ジョナサンはいつもの柔和な笑顔に戻っていた。しばし返事を待って、マリアは彼を見つめていた。にこにこしていると、無害な神父様といったところだ。
「ふふっ、そういうところ、好きだよ」
「どういう意味だ、阿呆」
「だってさ、そりゃあ〝会った事はない〟だろうねぇ」
そこでジョナサンの目が、くるりと体ごとマリアへ向いた。訝って「なんだよ?」という彼女に、彼はにこっと笑って続ける。
「あなたが、わざわざ言葉を交わして、アレに触れてやる必要はないよ」
「アレって、大司教の事か?」
「そう。あのクソなブタ野郎さ――おっと、失礼。言葉が悪かったね。うふふ、あとの事は、他の連中にでもさせておけばいいよ」
「ブタ野郎って……」
なんか、相当怒っているみたいだ。王宮でもほぼ完璧に崩した事はなかったのになと、マリアはもう訳が分からんなと黙り込んだ。
そのタイミングで、ふと走ってくる足音が聞こえてきた。
「ほら、もう来たよ」
ジョナサンが、気をそらすようにしてマリアに言った。
指を向けられて促された直後、知った顔が室内に飛び込んできた。一番に到着したのは、ポルペオだった。次にグイードが駆け込んできて、拍子抜けしたような声を上げた。
「あらま。なんだ、とっくに終わってたのか?」
「どこぞの腹黒が、言葉で精神攻撃でもしたらしいな。私はやつの尋問が一番嫌いだ」
ポルペオが、ふんっと肩の力を抜いてグイードに相槌を打った。ジョナサンは元々司書員であって、軍の尋問に入った事はないんだけどな……。
そう思い返したマリアは、「あ、普段からの事か」と思い当たって納得した。
グイードが、女の子のマリアの無事を確認する。ジョナサンの話を聞きながらポルペオが室内を進み、転がっている懐剣に気付いて、目を細めた。
「――ふん。どいつもこいつも、毒か」
嫌な事でも思い出したかのように、ポルペオが懐剣を蹴って向こうへ寄せた。それが本棚の下にあたる音を上げる中、大司教アンブラが拘束された。
それからほどなくして、任務完了を伝える伝達用の鷲が飛ばされた。
※※※
ちょうどその頃、指令を受けた中央軍部の男達が、王宮の軍区にある大会議室から出ていった。その後には、法を管轄している者、聖職機関の代表者らも続く。
多忙のスケジュールだというのに、国王陛下もこちらの会議まで参加していた。すぐさま次の行動に移るべく、家臣と法務官らを連れて去っていく姿が、出入り口の向こうに見えなくなる。
「陛下、随分と手が速いですね」
そちらを見ていたモルツが、書類を脇に抱えながら言った。
「これだと、大司教はこちらに到着次第、法廷の許可のもとで中央軍部による尋問が開始されそうです」
――それは、一部、拷問が許可されている凶悪犯罪用のものだ。
中央軍部に地下にある完全なる牢獄。自ら殺生に手を下したわけでもない大司教アンブラの立場からすると、想定外に〝重すぎる〟ことでもあった。
「さっさと片付けたいんだろう」
ロイドは、片手を振ってモルツに『とっとと動け』と仕草で伝える。
「今回の件、聖職機関とあって俺もクソ忙しい。おかげで休む暇がない」
「あとで、コーヒーをお持ちしましょうか」
銀縁の細い眼鏡を、指を揃えてかけ直したモルツが、動き出そうとしたところで肩越しに目を向けて確認する。
正直、それは今のロイドにとって有り難い気遣いだった。会議くらいしか座っていられないとは、と思いながら、ふぅと長椅子の背にもたれかかる。
「――モルツ、五分だ。馬車に乗る前の五分、それ以上はかけられん」
「かしこまりました。そちらでスケジュールを組みます」
答えたモルツが、先に大会議室を出ていく。
ロイドは、しばしの休憩のように天井を見上げていた。今頃、大司教邸では王国軍と警備隊による制圧が行われているだろう。あいつらの事だから、問題なく押さえられているだろうが――。
と、そこで不意に思い出した。
「あ。色々とタイミング逃した」
マリアが軍服を着る件だとか、告白の事だとかも頭から抜けていた。数日前、彼女が足りなさ過ぎて、よし『好き』だと言おうと思っていたのだが、今、あの勢いはない。
このまま伝えたとしても、俺、振られるんじゃないか……?
ロイドは、冷静に考えてその可能性が浮かんだ。これまでの自分だったら、有り得ない事を考えるものだ。しかしながら、あのマリアは、いつもこちらの予想外の反応をしてくる。
男としては自信がある――のだが、マリアが来てからというもの、ちょっとその気持ちも低迷気味だ。声をかければ面倒そうな顔をするし、手を差し出したら警戒される。
「……俺、男として魅力がないのか?」
ちょっと押した時、なんだか初々しい反応をされたので、そこは年頃の女の子としての部分もあるんだなと可愛く思わされたのだが。
だが直後、ロイドは〝イケているマリア〟の強気な笑みが浮かんで、頭の中の思考もろとも黙り込んだ。
「――クッキー、甘かったな」
あの時、赤面するかなと思って、不意打ちで口に運んでやった。そうしたら品もなくネクタイを引っ張られて、クッキーを口に押し込まれたのだ。
あの、ちょっと強引な感じに、キュンッとした。
そもそも女性にネクタイを掴まれたのも初めてだ。ちょっと乱暴じゃないか?とも思うが、なぜかマリアなら〝有り〟だ。あのあと、クッキーだけなのかな、もっと何かされるんじゃ…‥と、実のところドキドキしていた。
「って、俺は変態か!」
ロイドは、まだ退席中の者達がいる大会議室で、周りに聞こえないように呻いた。
その時、不意に聞き慣れた声がした。
「え? 何が?」
まさかの反応があった。訝って声がした方を見てみると、そこには王妃の専属の護衛騎士にして、白百合騎士団のトップであるルーカス・ダイアンの姿があった。
呑気な顔でこっちを見ている。警戒心のない犬みたいだ。
「殴りてぇな」
ロイドは、率直に思った感想を口にした。
「いきなりひどくない!? さすがにさ、人の顔見て一言目がそれって、ひどすぎない?」
「お前、現場に入ればいいのにな、て思う」
「あー……何、そんだけ疲れてんの? 俺は王妃様優先だから、関わらねぇけど」
ルーカスが、うーんと考えて首を傾げる。
「ストレスが溜まってんならさ、コーヒーにプラスクッキーでも付けるとか――」
「てっとり早くお前で発散したい」
ロイドがそう言い放った直後、ルーカスが反射条件のように出口へ猛ダッシュしていた。本気の逃げに入った彼を、同じく仏頂面でロイドが追い駆ける。
「俺っ、暴力って反対だと思うんだ!」
「今朝の書類、お前が助っ人したものに一個抜けがあったのを思い出した」
「あ。マジか。おかしいな、ちゃんと埋めたつもりが。つか、お前それ下の管轄のやつだろっ、どんだけ仕事に真面目なんだ!?」
「このくそ忙しい時に手間かけさせんな」
「仕事の鬼ぃぃいい!」
全力で追うロイドから、全力で逃げながらルーカスが言い返した。