三十四章 大司教邸と王国軍(6)
とうとう大司教のいる部屋へと辿り着いた。今回、臨時班の一番の目的は彼自身。逃亡NG、自害NG、必ず王都に連行せよと国王陛下命が下った相手――。
緊張、というのはまるでなかった。
「よいしょー」
ジョナサンの、口笛でも吹くかのような声がした直後、大扉のドアノブごと〝引きちぎられて〟いた。
「……なぁ、ジョナサン。お前、実のところすごく怒っているんじゃないか?」
思わずマリアは尋ねていた。ロイドほどではないが、ジョナサンがこのように〝物理的に馬鹿力で物に当たる〟というのも珍しい。
別に危ない状況でもなかったのに、まさか先程、彼に手伝わせる形になったあの再会時の事を、念にもたれでもしているのだろうか。
すると彼が、「えー」と普段の調子で笑ってきた。
「やだなぁオブライトさん、僕、とても晴れやかな気持ちだよ」
彼が手に持っていた扉の残骸が、ぐしゃりと握り潰された。
全くもって説得の力のない言葉だ、とマリアは引き攣り顔で思った。
開かれたその部屋は、思っていたより広くはなかった。周囲の壁は本棚に埋められ、正面には重々しい大きな書斎机のセットが一つ。
「そりゃそうだよ。ここは私室というよりは、大司教の仕事部屋の一つなんだ。――つまりは指令室、みたいな」
ジョナサンが、マリアへこっそり教えた。
そこには椅子から飛び上がった状態で、怯えに困惑を滲ませて立っている大司教アンブラの姿があった。老いにさしかかった白髪交じりの髪、どっしりとした印象のある贅肉の付いた身体には、高価な上級聖職者の衣装をまとっている。
「な、なんだ貴様らは。そ、それに、こ、子供……?」
大司教アンブラの口から、動揺が増したように戸惑いの言葉がこぼれた。
それはそうだろう。考えてみれば、この選抜メンバーでマリアは浮いている。相手側からどう見られているかだなんて、戦いにおいては関係がないから気付くのに遅れた。
マリアと入室した位置で止まったジョナサンが、口元に手をあててむふふっと笑った。
「オブライトさんって、そういう人だよね」
「人の心を読むなよ」
その時、大司教アンブラが、ハッとジョナサンへ視線を固定した。
「それに何故お前がここにいる!? も、もしや、お前が軍に通報したのか……っ!?」
言いながら、彼が逃げ場を探すように、書斎机の向こうからじりじりと移動する。
この部屋の出入り口は、今、マリア達が踏み込んできた大扉のみ。彼が自分達と、その後ろの距離感をちらちらとはかっているのを見て、マリアは密かに下側で剣を構える。
問われたジョナサンが、にーっこりと〝いい笑顔〟をした。
「〝僕は〟呼んでないよ」
「何……? じゃあ、お前以外の者が……?」
「ふふっ。あんたは、神に導かれて、罰の時が来ただけさ」
意味がよく分からなかったのだろう。けれど協力者の一人であるのは間違いないと分かる言い方に、大司教アンブラが凄んで睨み付けた。
「たかが大貴族で優遇されただけの、司教風情の若造めが。大司教である私に、こ、こんな事をして許されると――」
「思ってるよ? さすがのあんたも、国王陛下と最高司教の決定には逆らえない。そもそもさ、自分をなんだと思ってるの? 神様? それとも全知全能の神かい?」
ジョナサンがたたみかける。口を挟む隙間もなかった大司教アンブラは、聞いているしかない。
と、不意に雰囲気が一変し、凶暴さの滲む顔でジョナサンが嗤った。
「ハッ、くそくらえ」
彼が下品に吐き捨てる。普段、上品には振る舞っているが、その本質は双子の弟よりも過激だ。マリアは当時、悪魔だのなんだの言われていた彼を思い返した。
その時、また大司教アンブラの動く足音が上がって、ジョナサンがぴくりと反応した。
「教えてあげるよ。僕は、最高司教に許可を受けてここに来た。神に誓って、言おう。だから今回の事とは、はじめから関わってはいない」
ゆらりと顔を上げたジョナサンが、淀んだ目で大司教アンブラを見据えてそう切り出した。
「僕はね、その身の破滅の時を見るためだけに、ずぅっと待ってたんだ。だって、ほら、神が本当にいるのなら、自分の領域内の不始末を放っておかないでしょ?」
ジョナサンが、途端にくすくす笑う。
「だって、あなた達にとっては、神は絶対の存在だもんねぇ?」
「お、お前はっ、そもそも本当に神を信じているのか!? わ、わ、私の破滅を見るたけに居座っていたなどと、狂気の沙汰としか思えな――」
「ふふ、僕は、あなたの話を最高司教のもとで耳にした時、初めてその巡り合わせを引き寄せてくれた神を信じたのさ。そして、先日にまた一つ、僕は神を信じた」
胸に片手をあてて、ジョナサンがそうしめた。濁りもない品のある新緑色の瞳は、真意の読めない圧を与え、じっくり見据えられている大司教アンブラを震え上がらせた。
「私を守る部隊は一体何をしている!? 警備の兵も増員したはずだ!」
大司教アンブラが喚いた。
その時、マリアはそれに対して冷静に口を挟んだ。
「外の〝雑魚〟なら、片付けさせてもらった」
今になって、ようやく思い出したように大司教アンブラの目がマリアへ向く。ジョナサンの存在感が強過ぎたのだ。そばに立っている彼女は、とても落ち着いていて――。
否、殺気が研ぎ澄まされすぎて気配がないのだ。
恐れはなく、躊躇いもない。任務に忠実に従うべく、そこにいるのを察した大司教アンブラが、恐怖に呑まれて呻いた。
「一体、なんなのだその子供は。まさか王国軍にいるという暗殺部隊か? お、お前が、国王陛下と親しいというのは、本当の事だったのか?」
問われたジョナサンが「さぁ?」と笑ってみせる。
大司教アンブラは、じっとしていられない様子でじりじりと足元を動かしていた。しかし、マリアとジョナサンの視線に耐えきれなくなったかのように、突如懐剣を引っ張り出して握った。
「くそっ、こうなったら」
大司教アンブラが、小さなマリアを見てそんな声を上げた――。
――その瞬間、室内の空気が、一瞬にして強烈な殺気に塗り変えられた。
それにビクッと手が止まった直後、唐突に大司教アンブラが腹を抱え、押さえた口から吐瀉物をこぼした。押し潰すような殺気に〝あてられた〟のだ。
剣を密かに下で構えていたマリアは、訝って隣を見た。
たとえ向かってこられたとしても、懐剣くらい簡単に叩き落とせた。そう思って見上げてみれば、大司教アンブラを開いた瞳孔で見つめているジョナサンがいた。
「ねぇ。当時は間接的だったとはいえ、もう一度その人に手を出したら、許さないよ」
ジョナサンの唇から、地を這うような声がもれた。
高圧的に見下ろされた大司教アンブラが、恐れ慄いて絶句する。訳が分からない様子で、何度もマリアと彼を見比べた。
「何をじっとしているのさ。今すぐ、その武器を捨てないと、僕があなたの首を胴体から斬り離す」
「ひぃ!? わっ、分かった武器は捨てる!」
ジョナサンが、血がたっぷりついた剣を地面に突き刺した。その音にビクッとした大司教アンブラが、弾かれるようにして懐剣を捨てる。
その最後の脅し台詞で、すっかり腰が抜けたらしい。尻餅をついた大司教が、がたがた震えながら吐瀉物まみれの口元をぐいぐい拭い、ひぃひぃ嗚咽交じりの声をもらしている。
もう逃げられる心配はなさそうだ。
一連の様子を眺めていたマリアは、そこで不思議そうにジョナサンへ目を戻した。
「なぁ。私は、彼とは初対面なんだが」
つい、こちらをもう見ていない大司教アンブラを指して、彼女はジョナサンへ質問した。