六章 女性恐怖症の文官と、毒薬学博士な賢王子(4)
書類の処理に目が疲れ、少し出歩いたロイドは、宰相の執務室が騒がしいと耳にした。ヴァンレットと、どうやら他にもグイードまでいて、宰相のベルアーノが困らされているという。
グイードには、戻り次第報告しろと指示していたはずだ。
書類作業で鬱憤も溜まっていたロイドは、彼を叩き潰すべく剣を取った。廊下を歩き出してふと、そう言えばモルツが戻っていない、と疑問を覚えた時、すれ違った兵士達が話している声が聞こえて来た。
「宰相の執務室に総隊長補佐まで加わって、ベルアーノ様が大変な事になっているらしいぜ」
…………は?
一体奴らは揃いも揃って何をやっているんだと、ドス黒い怒りが腹に渦巻いた。ベルアーノを困らせるのは大歓迎だが、こちらの予定を一分でも乱すような事をされるのは、ロイドとしては気に食わなかった。
思い通りにならないのは、何もかも手遅れだった師団長時代だけでいい。
良くも悪くも、オブライトの周りにはよく人間が集まっていたが、名前だけでも効果があるらしいと、そんな皮肉を思った。
「勘弁して下さい!」
宰相室に突入して早々、グイード達に怒りをぶつけていたロイドは、その声と闘気に気付いて、反射的に剣を向けていた。
そこにいたのは、先ほどまで目に入らなかった一人のメイドだった。
少女は後頭部に大きなリボンをしていて、少女らしい長いダークブラウンの髪を腰までたっぷり降ろしていた。振り返り様に見えた大きな明るい青空色の瞳が、こぼれんばかりに見開かれる。
しまった。相手を間違えたか――
そう思った直後、少女がその瞳を強い眼差しに変えて、男顔負けの勢いでこちらの攻撃を受け止めた。殺すつもりで剣を入れたので、完全に防がれたのには正直驚いた。
唐突な攻撃を受けたにも関わらず、少女が失礼にも、当人の前で相手の罵倒を心で唱えるような表情を浮かべた。それは、ロイドがよく知る一人の男を彷彿とさせた。
いや、気のせいだと、すぐにそう思い直した。
頑丈な生地で作られた特注のメイド服や、頭にあるリボンといった特徴から、モルツが言っていたアーバンド侯爵家の戦闘メイドだと推測出来た。戦闘メイドだろうと、剣を受け取められたのは癪だった。
実力のほどを試してやろうと本気で切りかかると、少女が抜刀しないまま動き出し、記憶の中の男と全く同じ動きで剣を絡め取られそうになった。
思わず目を瞠った。あまりにも、その動きが、オブライトとそっくりだったからだ。
一瞬の動揺の隙をつくように少女が抜刀し、鞘まで使って同時に攻撃してきた。無駄もなく構え直される独特の型にも既視感があったのだが、こちらに考える暇も与えず、少女が躊躇なく剣を飛び道具として使ってきた。
ちッ、この距離で投げるのか!
誇り高き騎士ならば、絶対にやらないような戦法を苦々しく思いながら、ロイドは反射的に守りに入った。その一瞬、少女から視線が離れてしまい、これが目的だったのかと遅れて気付く。
しまった。このまま肉弾戦を仕掛けられたら、確実に一発は食らうな。
相手のスピードを思い、そう考えながら視線を戻したところで、空中に飛び上がる少女をキャッチする手があった。こちらの戦いですっかり忘れていたが、それはグイードだった。
グイードは素早く少女を抱えると、友人共々とあっという間に逃走していった。
※※※
遅れて自分の失態に気付いたロイドは、怒り任せに近くの物を破壊して後を追った。走り出してすぐ、あまり若い連中とは絡みのないグイード達が、メイドの少女と随分打ち解けている様子に驚かされた。
アーバンド侯爵家の秘密を知っているとはいえ、女性に対しては紳士である『惚気のグイード』が、出会い頭に巻き込んだ少女を、逃がさずに連れ回すのを見るのは初めてだった。
「なに言ってんだこの阿呆!」
少女がグイードへの的確な罵倒を放つのを聞いて、「なんだあれは」と楽しさで口が引き上がるのを感じた。
気付くとロイドは、少女の台詞に耳を傾けていた。彼女がブチ切れて「ふざけんな! たんに逃げる的を増やしたいだけだろ!」という訴えを聞いた時には、「その通りだとも、あいつは逃げ足だけは速いからな」と、心の中で相槌を打っていた。
彼女の行動パターンは、不思議とオブライトと似ている所があるようだった。
最近は大人しくしていたレイモンドが、女性の前で友人を罵倒するのも滅多にない光景だ。
グイード達は、どうやら生存率を上げるために個別での逃走をする事に決めたらしい。巻き込まれたレイモンドが、やけになって「俺は右手に行くぞ!」とバカ正直に答える声が聞こえた。
それはいつかあった十六年前の日々を彷彿とさせて、ロイドの胸をドス黒く染めていた怒りも消えていた。あの頃と同じように、獲物を追いつめる愉快さがあった。
でも、十六年前とは違うのだと、胸の片隅から本音が聞こえたような気がして、ロイドは、目の前の光景から少しだけ目をそらした。
結局のところ、彼女は、ちょっと変わった思考を持ち合わせたメイドだ。アーバンド侯爵という怪物に付き合えるぐらいに、肝の据わった戦闘メイドであって――
「行くぞ、ヴァンレッド! ついて来い!」
耳に飛び込んできた、とても聞きなれた強い台詞に、ロイドの思考は硬直した。
ハッと目を向けると、少女がヴァンレットへ手で軽く合図を出している姿があった。五感全てが少女の行動を注視して、ロイドは、考えるよりも先に彼女を追い駆けていた。
あれは一体、誰だ?
このまま見失ったら、またあれの心を別の誰かに奪われるのではないか、と訳のわからない脅迫概念のような焦燥が込み上げて足を止める事が出来ず、気付くとアルプの果樹園まで来ていた。
一体、どうしてこんなに必死になって追い駆けているのだろう、と思った。
ちらりと覗いた少女の横顔が、まるで手の届かない誰かを思い出して揺らいでいるような気がした。
ああ、頼むから行かないでくれ。
気付いたらロイドは、懇願するように手を伸ばしていた。ようやく掴まえられた少女の腕は、走っていたにも関わらずひんやりとしていた。咄嗟に抱き寄せて捕まえた身体から、控えめで清潔感な匂いが鼻先を掠めた。
その柔らかい匂いは、オブライトに手を引かれて歩いた日の香りと同じで、くらりとした。
そんな馬鹿な事ある訳がないと思いながらも、彼女の腹に回した腕をぎゅっと引き寄せた。何故か、ぽっかりと空いた胸の穴が、不思議と満たされるような感覚が込み上げて心が鎮まる。
ひどく冷静になった脳が、十六年もの間に凝り固まっていた何かを、ぼんやりと手放したような気がした。
大人になった自分が、あの頃手に届かなかったものを、ようやく腕に収めているような錯覚を覚えて――
ああ、そうか。俺はあいつが好きだったのかと、そう漠然と理解した。
同性だとか、そういった事も関係無し好きだったのだ。純粋に憧れて、早く大人になって、彼と並んでも見劣りしないようにありたいと願うぐらいには、執着していたらしい。
そして、自分は恋に気付く前に失恋してしまったのだろう。
しかし、喪失感の理由を理解した後の、しんみりとした感傷は僅かにも続かなかった。脳裏に過ぎった一つの想像に、ロイドは、ピキリと固まった。
相手がオブライトであればヤれる、と一瞬でも冷静にも考えてしまった事に絶句した。しかも、彼の端正な顔が色付く様まで、バッチリと鮮明に想像してしまったのだ。
有り得ない。純粋な気持ちではなく、この俺が、オブライトにそこまで執着していたというのか……?
十六年も一人の男への欲求不満を溜めていたのかもしれない、という憶測だけでショックが何倍にも増した。しかも、少女の名前がマリアだと聞き出したにも関わらず、彼とはまるで違う彼女を、何度も彼だと錯覚しそうになる。
それほどのレベルで重傷なのだと自覚して、頭を抱えたくなった。
よって、ロイドは「彼女がオブライドではない」という現実的な心の整理からつける方法をまずは考えた。
※※※
ロイドは、改めてマリアと話せば錯覚も正されると、そう思っていた。
しかし、オブライトとは似ても似つかない容姿の少女であるのに、ロイドだけでなく、グイード達も驚くぐらい彷彿とさせる部分があった。困って考える時に目頭を揉み解し、堪えるように言葉を抑えつけて「ぐぅ」と呻る、その眉間の皺の寄せ具合まで似ていた。
マリア自身は、その癖すら無自覚ときている。
まるで危機感もないような、ぼんやり具合まで彼に似通っているところも性質が悪い。若干の違いとしては、若いという事もあって感情が彼よりも露骨に出て失礼である、というところだろうか。
ひとまず心の整理をつけるためにも、マリアという全く別人の少女がそこにいるのだと、自分に分からせる必要があったから、すぐに手放してやるという考えは毛頭なかった。
同性を好きだったという衝撃と、未練がましい感情が少なからず残っているという自分の女々しさを、早々に微塵も残さず拭い捨てなければ頭がおかしくなりそうだ。
ロイドは、精力あり余る三十四歳の男である。抱くなら勿論女がいい。
好青年であったオブライトの、鍛えられた細身の身体が、性欲の対象として好みのド真ん中だとまで考えるようになったら、男としての大事な何かが終わるような気がする。
「先程会ったレイモンド総帥から、アレをアーシュ・ファイマーに引き合わせたと報告を受けました」
「……珍しいな。お前が女を『アレ』扱いするのも」
マリアが協力者として活動することになった一日目の午前中の早い時間、ロイドは、先日よりはすっきりとした頭でモルツを迎えた。
モルツは普段から冷ややかな物言いはするが、貴族の紳士として、女性を罵る場合は丁寧な単語を絶妙に組み合わせる方法を取る。しかし、彼はロイド達の前でも、常にマリアを「お前」「これ」とかなり存外に言い表していた。
まぁいい、とロイドは椅子の肘かけに腕を置いた。
「で、どうだった。アーシュは面白いぐらいに取り乱してくれたか」
「昨日は一時ほど少々調子が出なかったようですが、相変わらずのゲスぶりで安心致しました。それでこそ私の主じ――上司です。レイモンド騎馬総帥によると『アーシュ・ファイマーは出会い頭に胸倉を掴み上げられて阿鼻叫喚』だったようです」
なんだそれは。予想以上に面白い展開じゃないか。
モルツが自分を個人的に主人呼びしている件については、昔から諦めていたので聞き流し、ロイドは現場を目撃出来なかった事を悔しく思った。
「はい、私も羨ましく思いました。アーシュ・ファイマーは漢らしい説教を受けて落ち着き、女性恐怖症の症状も出なかったので、うまくやれそうだということです」
「お前の意見は聞いてない。うまくやれそうなのか、つまらんな」
昨日のマリアの、淑女らしくない罵倒の様子を思い起こすと、漢らしい説教もしそうな気はする。無理やりにもオブライトとは別の人間だと自分を納得させるには、あまり判断材料としては弱い。
しかし、非常に残念だ。
あの女性恐怖症の文官が、騒ぎ嫌がる様を見に行こうと計画していただけに、つまらない。
「アレは本気で怒っていたらしいですよ。あのレイモンド騎馬総帥が気圧され、サロンの外にいた若い連中が逃げ出すぐらいの剣幕だったとか」
「ほぉ? あのメイド、結構短気なところでもあるのか」
「短気じゃなければあのような暴力には訴えないかと。それから、第三王子ルクシア様ですが、どうやら過去二十年の中で、特に戦争で荒れていた前後の死亡記録を重点的に調べているようです」
オブライトに関しては、静かに怒って相手を牽制する様子は何度か目にした事があったが、周りがドン引くほどの怒りようは見せなかったように思う。
比べるように考えてしまうのは、きっと予想外のダメージを受けている傷心のせいだ。
あまり考えないようにしていたのに、最近はオブラトの事ばかり思い出しているな。ロイドは思わず皮肉な笑みが浮かび上がりそうになって、悟られないよう心を落ち着けてから、モルツへ視線を戻した。
「毒に関して、ルクシア様はどう動いている?」
「相変わらず、保管庫の使用許可時間外は、あらゆる専門書を引っ張り出して研究棟の私室に引きこもっている、と世話係の者か嘆いていました。きちんと食事と睡眠を取って頂かないと、陛下も心配されます」
先月にあったメイドの転落死は、何度か別の専門機関にも調べさせたが、毒物の可能性はゼロだとされていた。ルクシア本人は、「毒ではないかと推測している段階であって、今のところ他に申し上げるものはありません」と相変わらず言葉数が少ない。
第三王子であるルクシアは、立場ある人間の言葉が、どれほどの影響力を与えるか、どれほどの人間が聞き耳を立てているのか知っている賢過ぎる少年だった。
とはいえ、それを徹底する様子は慎重過ぎる面もあり、相談も協力も仰がない姿勢は、守る側にとっては非常にやりにくい所でもある。
十八年前から、ガーウィン卿は怪しい男としてチェックされていた。
最近、王宮で起こった第四王子の暗殺未遂事件にも関わっていると予想されているが、裏を取れるような証拠も証言もないままだ。ガーウィン卿の後ろ盾は、調べが付いている限り非常に厄介であるので、向こうがガーウィン卿を切り捨てるぐらいの崩しが要る。
そのためには決定的な失敗を誘発させるか、確かな証拠を押さえるしかない。
「機密事項の横流しも、ここまで来ると巧妙なのか、我々の勘違いのどちらかだと疑いたくなりますね」
「戦争屋という組織は、大規模で横繋がりも広いからな。戦争を引き起こすための材料を撒くだけでなく、取り引きする国にとって有利になるような情報操作を指示し、戦争自体を操る。今度こそ、ガーウィン卿とその根を一掃してやる」
戦争屋が絡んでいる、と口にしたのは国王陛下だった。数年をかけて調べた結果、王宮内に結構な数があることが判明した。ガーウィン卿も、その中の一人だった。
――あの怖い顔の人、ズボンのあたりから、この前来てた司祭様と同じ甘い匂いがするよ。
――ぼ、ぼく、あの人嫌だ……オブライトが母様のそばにいるのがダメだって、誰かと喋っていたもの。
偶然にも、当時六歳だった第一王子と、四歳だった第二王子もそう証言をしていた。実際に、その司祭は戦争屋の関係者だった。
戦争に悩まされていないおかげで、あの頃に比べ王宮内の揉め事もほとんど片付いている。今回は国王陛下の命令で、アーバンド侯爵家のアルバートも直接動いているので、今度こそ、ガーウィンを含む最後の戦争犯・反現国王派を高い確率で叩き潰す算段だった。
この件については、国王陛下自身が、ガーウィン卿の動向を把握し注視している節もある。悟られないよう手元に置く様子は、一国の王としてではなく、珍しくアヴェイン個人として仄暗い感情が関わっているような気がした。
現在のところ、ガーウィン卿は、戦争屋の仲介人の一人である事の他は、尻尾を掴めていない。
彼に協力している仲介者や仲間の把握を進めていたところで、今回の第三王子の一件に、ガーウィン卿の下にいる派閥が動いたのだ。
「そういえば、第三王子が珍しく荒れていたと報告もありましたね。なんでも、保管庫から出てきた際に『ゲス野郎が』と悪態を吐いていたとか」
「それは珍しいな」
ルクシアは愛想がなく人嫌いだが、ロイドが覚えている限り、親兄弟にさえ他人行儀で丁寧な口調を崩さない子供だった。
「調査で何かしら進展があった、という事か?」
「寡黙な方ですからね。残念ながら、今のところは何も報告は来ておりません」
立場ある人間が動けば、ガーウィン卿達に悟られる恐れがあった。今の状態での接触は危険であるので、第二王子も国王陛下も、ルクシアとは距離を置いている。
他に彼から情報を聞き出せる人間がいない中で、第二王子からアーシュを託され、ロイドはちょうど良いと考えて彼に協力した。少しでもルクシアの動向とその周りを探り、不穏な動きをしている連中への牽制にもなればと考えている。
その時、廊下の方が騒がしくなった。
ロイドはそのタイミングで時計を確認し、随分話し込んでしまったと気付いた。モルツが「何事でしょうかね」と、ロイドにも見えるよう扉を大きく開けて外を窺った。
「救護常連のアーシュが倒れたぞ――――! どけどけ道を開けろ『救護班』のお通りだ!」
「ここで大声は止めろよ、キッシュッ。総隊長様の部屋の前だぞ!?」
「いい加減にして欲しいよな、走らされるのは、いつも新人の俺らだってのにさぁ」
「僕らの不器用な友人殿は、なんで忙しい時に限って倒れるのかねぇ? はぁ、奴の気付け薬を更に激不味にしてやる」
白衣の袖に『救護』の腕章をつけた四人の青年達が、担架を担いだまま廊下を疾走していった。
アーシュといえば、マリアと共に行動を開始しているはずだ。遅れてそう思い返したロイドは、思わず自分の口に手を当てた。
「面白過ぎる」
「羨ましいです」
双方の口から、ほぼ同時に全く違う感想が飛び出した。




