三十四章 大司教邸と王国軍(4)
大司教邸を取り囲む、高い壁を乗り越えた。
着地した見張り用のスペースで、守護騎士らを素手で殴ったのち、マリアは大司教アンブラを目指して一直線に大司教邸内を駆けた。
実のところ、見張りの連中を拳で殴って、ちょっとはスッキリとした。
「この頭と顔を見て、男装と思い付かない阿呆な連中だったな」
守護騎士は、神の道を進みながらも剣を取る事を選び、その中でも選ばれし者達がなるものだとは聞いていた。
つまりはエリートだ。隠蔽による暗殺から、秘密を守るための拷問調査だろうがやってのける。外の者達は、大司教にまだ完全には信頼されていない若手達だったのだろうか?
本気で殺しにかかってくるモノは感じなかった。
――この、館内の守護騎士や兵と違って。
「邪魔だ、どけ」
マリアは走り続けながら、心臓を狙ってきた守護騎士の首を斬り返した。崩れ落ちる様子には目も向けず走り通す。
大司教邸内は、今や騎馬での突入部隊もあって、敵と味方が入り乱れていた。大司教側の事情を知らない者も、外に出る事を許されず逃げ惑い、端に寄って降伏を示して小さく震えたりと、現場は混乱と闘いで大騒ぎになっている。
マリアは、王国軍と見て飛びかかってくる者があれば切り捨てた。足を止めないまま、邪魔立てする者を斬り捨てて先を進む。
神殿部をようやく過ぎると、二階へと続くバカデカい中央の階段が見えてきた。
「にしても、広いな」
国内で第四番目の大聖堂ベネディクト、その分館に指定され再利用されて大司教邸となった場所。そう考えると、無駄なほどの増築だって止められる者はいなかったのか。
もしかして、大司教アンブラは、ここを選んだ時には既に、毒の保管庫の事を考えていたのだろうか?
神を象徴するような、美しい大天井の絵画が目に留まった。それを空色の目に映した時、ふとマリアはそんな事を考えてしまった。
――それは他国の事情で。そして、人を残酷に殺してしまう兵器なのに、どうして。
あれだけ平和を願ったアヴェインを、私なら裏切れない。
そう思っていると、近くから馬の嘶きがした直後、知った男の声が飛んできた。
「馬鹿者、何を呑気な顔をしているのだ」
あ、と思って目を向けた時、馬に乗ったポルペオが近くの守護騎士を斬っていた。敵が崩れ落ちたのを見届ける黄金色の瞳が、黒縁眼鏡の奥に見えた。
と、マリアの視線の先で、ポルペオが珍しくきょろきょろする。
「ん? 一瞬、妙な敵意を感じたような……気のせいか」
それをじーっと見つめているマリアは、つい走る足も遅くなっていた。
そのヅラ、吹き飛ばしてぇ。
反射条件のように、その気持ちが込み上げてこらえていた。ひとまずヅラが似合っていない。かなり似合わない。お前一人だけ浮いてない?
「メイドよ、お前は目的を忘れていないだろうな?」
ジロリと、ポルペオの目がこちらを向く。
まだこんなところにいたのかと、彼の小さな一睨みは語っていた。マリアはハタと我に返ると「はぁ」と気の抜けた返事をして、その場で足踏みをして馬にまたがっている彼を見つめ返す。
「先程突入したのですわ。私の方こそ、ポルペオ様が、もうここまで進んでいらっしゃるとは思っていませんでした」
「早い者勝ちだからな。最優先で目指してはいる」
「なるほど。部下も、優秀みたいですしね」
ちらりと後方に目を向けて口にした。そこには、都合がついた第六師団の、例の優秀な若手班も何人か混じっていて「師団長のために――っ」「うおぉぉ!」と闘志の漲った雄叫びを上げて活躍している。
若いなぁ。
というか、真っ直ぐで一生懸命なんだな。
ふと思い至って、マリアは柔らかな苦笑をもらした。普段は「凶暴メイド」だのなんだの言っているけれど、彼らは彼らなりに鍛錬にも真面目に励んで、頑張っているのだろう。
オブライトだった頃、教育していたニール達も、当初はあんな感じだったのを覚えている。忘れもしない、とてもとても懐かしい日々だ。
「我が部下が、どうした」
不意にポルペオの声が聞こえて、ああ、しまったとマリアは思い出した。
そうだ、ここにはポルペオがいたんだった。そして自分は、こんなところで立ち止まっているわけにもいかない。
「いえ、別に。知った顔がいるなぁと思って」
「よく見付けられたな。こんなに多くの中から」
お前だってそうだろう。どんな騒ぎの中だろうと、部下を見付けられる。
マリアは、そう思いながら顔をそらして、困ったように小さく微笑んだ。遠くに見えたニール達の光景を、ゆっくりとした瞬きの向こうへと押しやる。
そして、次に目を開いた時、マリアはポニーテールの髪とリボンを揺らして、ポルペオを見ないまま肩越しに片手を振った。
「――じゃ、私は先に行きますわ」
そのまま走り出した直後、後ろでパカラッと馬の蹄の音がした。
「待てッ」
突然、大きな声を出されてマリアの足が止まった。
説教でもするみたいな無駄に大きな声を出されて、一体なんだと訝って目を向ける。
「何か用でもあるんですか?」
すると、目が合ったポルペオが、珍しく「ぐっ」と言葉を詰まらせた顔をした。自分でも次の言葉など探していなかったかのような表情に思えた。
「すぐに追い付くからな。それまで大司教を足留めをしておくだけでもいい、一人で突っ込んで全部自分でやろうという無理はするな。絶対だ」
「はぁ。自害はさせるな、というのは聞いてますよ」
「馬鹿者。相手が護身銃や毒剣を持っている事も考慮して、きちんと警戒しておけと言っているんだ」
それは想定範囲内だ。むざむざ、撃たれも斬られもしない。
マリアはやや眉を寄せ「分かってますよ」と呆れた感じで答えて、今度こそ手を振って走っていった。その小さな黒い軍服の後ろ姿は、一気に騒動の中へと見えなくなっていった。
◆
大司教邸を奥へと進み、馬車二台分以上の幅がある大きな階段を駆け上がる。もう王国軍の一部が中央まで踏み込んでいて、マリアは騎士達の斬り合いの中を走り抜けた。
上の階に出てみると、そこにも既に剣を交えている者達の姿があった。予想していたよりも早い侵攻だ。
ただ一人、黒い軍服が目立っていた事もあったのだろう。まだ人数が少ないとあって、廊下に踏み込んだ途端に守護騎士達の視線がマリアへと向いた。
「なんだっ、あの小さい奴は……!」
マリアは止まらずに駆けた。質問に応える義理はない。剣を振って邪魔をしてきた守護騎士を斬り返し、奥を目指す。
味方の国王軍の何人かが、マリアに遅れて気付く。
「総隊長印の『黒軍服』! そうか、臨時班のっ、例の!」
「先に押さえる『黒い軍服』がいるって言ってたな……ッ」
「大司教はこの奥です! どうぞお気を付けて!」
こっちの顔もよく見えていないのだろう。相手の守護騎士からの攻撃を剣で塞ぎながら、騎士の一人もそう大きな声を張り上げてきた。
総隊長印って言い方が、なんか、ちょっと嫌だな……。
そうは思ったものの、マリアは了承を伝えるようにそこを走り抜けた。そのような説明表現をする人物は、ジーンかグイードあたりしかパッと浮かばなかった。
「っても、ここからはほぼ一人戦か」
階段が見えなくなったところにも、守護騎士団が配置されていた。
角を曲がった途端に斬りかかられて、ひょいと避けた。そのまま斬り捨てて、呻く声には目も向けずに先を目指す。襲いかかってくる分だけ、邪魔をするなとどんどん斬っていく。
――盾が、少し面倒だな。
守護騎士のほとんどが持っている防具だ。やたら頑丈に作られている。完全防御姿勢で向かって来る者には、面倒で盾ごと馬鹿力で蹴り飛ばす。
不意に、横から飛び出しかけた守護騎士が、直前で崩れ落ちた。
なんだ……?
視覚で捉えられなくとも気配で斬れる。剣を向けかけたマリアは、途中で止めた姿勢で訝ってそちらに目を向けた。
「…………え?」
厳しさを漂わせていた空色の目に、光を戻して「へ?」と見開いた。すると目が合った相手の男が、やっほと挨拶すねみたいな呑気さで笑い返してきた。
「きちゃった」
そこにいたのは、神父服を着込んだジョナサンだった。