三十三章 王宮にて~愛と擦れ違いと騒がしき…~(7)下
筋肉質な温かさにぶつかった衝撃があった。彼の馬鹿力であれば、今の自分の少女の身体くらい弾き飛ばしてくれるだろう事を期待したのも束の間、相手の身体が向こうへと傾いて、気付くと衝突した勢いで一緒に崩れ落ちてしまっていた。
おいおい嘘だろ、ロイドは少し気が抜けていたのだろうか?
ぶつかった衝撃で、ぐらぐらする頭を起こしながらマリアは思った。どうにか上体を持ち上げてみると、スカートの下から感じる温かさの通り、自分が彼に座っている状態だった。
出来れば、弾き飛ばすなりで回避して欲しかった。
マリアは、痛むのか、顔を押さえて呻いているロイドを見下ろして、さーっと顔から血の気が引いた。今はメイドという立ち場を考えると、顔が引き攣ってしまう。
相手は、公爵にして総隊長である。廊下に居合わせた数少ない若い軍人たちが、いつも以上に怯えている様子から、恐らくは自分が他所のメイドのせいで、余計にアウトなのだろうと推測した。
その時、顔を腕で覆っているロイドが、呻くようにして小さく言ってきた。
「マリア、頼む今すぐどいてくれ…………くッ、俺のプライドが……」
プライド? なんの話だ?
マリアは、よく分からなくて首を捻った。ああ、ぶつかって負けた、みたいなところが負けず嫌いの彼的には許せないのかもしれない、と少し考えて理解する。
とはいえ、あのロイドが「頼む」という言葉を口にするのも珍しい。友人らと同じく打たれ強かったはずだが、打ちどころがそんなに悪かったのだろうか?
最近は、臨時任務の件でもバタバタしている。もしかしたら疲労が祟っているところに、自分がトドメを刺した感じになってしまった、という事だったりでもするのだろうか。
ふっと頭に過ぎったのは、少年だった頃のロイドの姿だった。
ほんの少しだけ、やっぱり大人だった自分たちに比べると身体が弱かった彼。当時を思い返して心配になったマリアは、気付くと彼に向かって手を伸ばしていた。
「ロイド様、大丈夫ですか?」
やっぱり打ちどころか悪かったのかも、と、気遣う仕草で、彼が顔にあてている腕にそっと触れる。そこにかかっている黒に近い髪が、彼女の指先に触れてさらりと音をたてた。
――大丈夫かロイド?
いつだったか、自分がそんな言葉を掛けて、同じように手を伸ばした事があったのが思い出された。でも結局触れなかったそれが、どんな時だったのか、マリアはすぐに思い出せなかった。
その時、ピタリ、と急にロイドが静かになった。
一瞬、彼の身体がぴくっと反応したのを、マリアはまたがっている太腿と尻に感じて手を止めた。
いきなりの沈黙が怖い。思わず身じろぎしたら、下でロイドがピキッと身体を強張らせた。不穏な空気を感じ取ったのか、廊下にいた者たちが少し距離を置く。
と、不意にロイドが腕を解いて、ギッと睨み付けてきた。
「今すぐどかないとキスする」
「なんで!?」
こいつッ、めちゃくちゃ嫌がらせに出てきたな!
やはり彼は、単に負けたような形になっているのが気に食わなかっただけであったらしい。マリアは、この女の敵め、と少年時代から困っていなかった彼を前にドン引いた。
まさかここまでとは思わなかったし、そもそも女子供に対してもドSのし返しが容赦ないとか、信じられない男だ。そう思っている彼女に対して、ロイドはもう色々と切羽詰まって、とんでもない事を口にしている自覚もない。
「というか、自分でどかせばいいのでは……」
マリアは、ふと、いつものロイドならしそうな事が浮かんだ。キスをするという脅しをかけるよりも、そっちの方が、待つのが嫌いな彼向きの解決策である。
するとロイドが、真っ直ぐこちらを睨み付けたまま、真剣な顔で言ってきた。
「今、自分でどかしたら最後、何をするか分からん」
「え、こわ。なんかごめ――」
「あと二秒でどかなかったら執務室に持って帰る」
なんで!? ぶつかって倒されただけなのに、報復したくなるくらい怒ってるのか!?
そう察知した瞬間、マリアは素早くロイドの上からどいていた。気のせいか、怒りすぎているせいで冷静顔になっている彼が、少しおかしい感じもして警戒が煽られた。
というか、視察から帰ってきてから、ずっと機嫌悪くないか?
もしや仕事関係で本人が苛々しているというより、個人的に何やら睨まれていたりするのだろうか。
覚えはないんだけど、と先日の出発前の事まで遡ってみる。ぶつかった自分が悪いので、恐る恐る手を差しつつも、やっぱり何も思い当たらないなと首を捻った。
「その手はなんだ」
腕で少し上体を起こした彼が、不意に美麗な顔を顰めてそう言ってきた。
「え? ああ、その、引っ張り上げようかと思いまして」
考え事をしていたマリアは、少し遅れてそう答えた。
「あの、さっきは本当に申し訳ございませんでした。痛いところはありませんか?」
少し近付いて、覗き込みつつ確認する。
そうしたら、またしても不意にギロリと睨まれてしまった。
「な、なんですかロイド様……?」
「俺は自分で立てる」
「あ。それは、その、すみませ――」
「それから速やかに回れ右をして、こっちを見るな」
マリアは、「は」と答えかけて顔が固まった。
「とっとと行かないのなら、俺は確実にお前に仕返しをするが、いいのか」
やっぱりこいつ、とんでもないただのドSだ。
マリアは反射的に指示通り目をそらすと、薬草茶が預けられている場所を目指して、一目散にロイドのもとから逃げ出したのだった。
※※※
大司教邸への突入の日時が決定した。既にスケジュールに従って、銀色騎士団側と騎馬隊側から、特別部隊軍として組み込まれた男たちも動き出している。
その日、マリア達の臨時班も、明日には出発という事になっていた。
そんな中、最終調整が行われていったのだが――大臣であるジーンの部屋にて、ようやく時間を合わせられて一人入室したマリアは、たった一つ、気に食わない決定事実を前に、テーブルに拳を押し付けていた。
「くそッ、こんなところでこの服を使う事になろうとは……!」
呻く彼女の背は、ぷるぷる震えている。
テーブルの上にあったのは、二種類の小柄サイズな軍服一式だった。それは先日、ジーンが見せてマリアを困らせたものと、勝手に届けられたロイドからのものである。
ご丁寧にも、箱にきちんと詰められて、二組分置かれてあった。パッと見分けられて動きやすいなら黒がおすすめ、と、順に来たらしい友人らの意見投票の印まで付けられていた。
「まず多数決とかいらねぇんだよ……っ! 男装しないって言ってんのにッ」
ぐおおぉ……と、マリアの口から漢らしい呻きが止まらない。
その様子を見守っていたジーンが、頬杖をついた姿勢で「さすがにスカートはな~」と声を掛けた。
「まぁ、ほら、完全に男装しろっていうわけじゃないし。髪もさ、リボンで一まとめにするくらいじゃん」
ははは、と彼は実に不思議そうにして笑っている。
そういう問題ではないのだ。うっかり男口調に戻る率を上げたくないのである。マリアは、そう思いながら不意に顔を上げると、強い眼差しで彼を射抜いた。
「一体、どこ指示だ」
「え。……あの、それ訊いてどうすんの?」
ジーンが、直前までの呑気さもなくなって、珍しく戸惑いがちに尋ね返す。
マリアは殺気で瞳孔が開いていた。温度がマイナスになりすぎて、顔からも表情が抜けている様子は、並みの兵すら怯えさせるほどに威圧感がだだもれである。
「もうこの際、発案者がロイド辺りだったら、ぶっとばしてこうかな、て」
「わー、めっちゃS出てんじゃん」
ほんと怖いもの知らず全開で、時々マジでやってのけるのが怖いんだよな~、とジーンが引き攣った笑顔で感想を述べる。
「なんだよ、ロイドと何かあったのか?」
「分からん、この前から睨まれてる」
マリアは、覚えがなくてスパッと答えた。確かにスカートだとやりづらさもあるか、仕方ないが旦那様にもきちんと報告して……と、忌々しいが妥協する事にした目先の軍服一式について、目頭を丹念に揉み解しながら考える。
そんな中、少し思案顔でいたジーンは、ハッと察したように「まさか」と口に手をあてた。
「ロイドのやつ、ちょっと親友を離したからそうなってるのか……? いやいやいや、さすがに今回は飛び込み参戦とか無理だからなー。王宮ガラ空きはまずいし、この件はお前がここにいないとダメだから」
本人がいないのに、ジーンは思わずあわあわと呟いたのだった。
そうして後日、マリア達の臨時班も正式な通達が下り、臨時班をのせた馬車が王宮を出発した。