三十三章 王宮にて~愛と擦れ違いと騒がしき…~(4)上
午後の早い時間、マリアは本を返した足で、公共区から軍区へと進んだ。
ニールが高級菓子の詰め合わせの一つを勝手にもらってきたのが、数時間前の朝の事だ。正直、このタイミングでロイドに会わなければならないのは気が重かった。
視察に出発して以来の顔会わせの緊張、というよりも、ニールの事で責任の矛先がこっちに来るのでは……と、オブライトだった頃の経験から心労で頭痛がした。
部下の不始末は、上司の責任。
前世の頃、そう言ってロイド少年に追われた経験は、数えきれないくらいある。
なんでニールも、よりによってロイドやポルペオに迷惑をかける時が多々あるのだろうか。本人は『たまたま』『偶然』と言っているし、そうすると自分、不運過ぎないだろうか?
でも、まぁ、それはオブライトだった頃の話だ。今はメイドのマリアなので、当時のように、ニールによくもそうさせてくれたな、と責任者か保護者のごとく抜刀される事はない――と思う。
そう考えている間に、とうとう総隊長の執務室に到着してしまった。
前世の経験のせいで躊躇を覚え、マリアは少しばかり扉に手をかけられないでいた。後ろの廊下を通り過ぎて行く軍人たちが、バカデカいリボンのメイドをチラチラと見て行く。
「よし。うん、大丈夫だ。とりあえず報告したら、出よう」
マリアは、小さな声で自分にそう言い聞かせると扉をノックした。
気のせいか、一瞬、扉越しに冷気がもれたような錯覚までした。いやいやいや、既にニールの仕業であると特定されているわけでもないだろう。
中から許可の応答があったので、そっと扉を押し開けて遠慮がちに入室した。
すると、奥の正面の執務机にロイドの姿があった。きっちりと着込んだ彼だけの漆黒色の軍服。絶世の美貌には愛想の一つも張り付かせず、切れ長の紺色の目がこちらを見据えている。
なんか、機嫌悪そうだな……。
マリアは、書斎机の上で、手を組んでじっとしているロイドを見て、思わず遠慮がちに進めていた足が止まりかけた。
「なんだ、よそよそしいな。とっとと来い」
「え。あっ、はい」
声の感じからすると、怒っているようでもない。変だなと違和感を覚えながら、マリアは怒らせてしまう前に、と半ば急ぎ足で彼の前に向かった。
膝丈のスカートが揺れて、パタパタと動かされていた華奢な足が、書斎机の前でピタリと止まる。たっぷりの長いダークブラウンの髪が、ぱさりと尻の上に落ち着いた。
マリアは、メイドらしくスカートの前で手を合わせて立った。
ちょこんとして立ち姿勢をとった途端、ロイドが何も言わずじっと見つめてきた。
彼の黒に近い癖のない髪が、目元にかかってどこか不思議な影を落としている。しばらく待っても声を掛けてこないのを疑問に思って、マリアは少し首を傾げた。
「えっと……視察のご報告、でよろしいのでしょうか」
自分が来た目的を確認してみた。
するとロイドが、やや間を置いて「――そうだ」と返してきた。
自分よりも先に報告に来た誰か、もしくは仕事の件で何かあったのだろうか。なんか、ずっと睨まれている気がするんだが……と思いつつマリアは報告を始めた。
※※※
そろそろ彼女が来る。
報告を聞くのため、動けない自分の代わりにモルツに別件の用事を頼んだ後、ロイドは約束の時間に自分の執務室で待機した。
待っていたのは十分にも満たなかったが、もっと長い時間のようにも感じた。
扉から訪問を告げる音が上がった時、続いて入室許可を求める声を聞いてドキリとした。ドキッてなんだよと思いながら、どうにか普段の声を思い出して扉の向こうに言った。
「入れ」
すると、マリアが恐る恐るといった様子で顔を覗かせてきた。
遠慮がちに歩み寄ってくるのを見て、なんだかもやっとした気分になった。まるで知らないところみたいに足を止めたのを見て、何度か来ているだろうと苛立った。
なんで警戒するんだ、他の奴らには自分から声もかけるくせに――。
何故か、そんな想いが過ぎってもやもやが増した。気付くと、八つ当たりみたいなきつめの言い方で催促の声を掛けてしまっていて、しまったと思った。
だが、彼女は気に障らなかったようで、素直にパタパタと足を進めてきた。
その様子を見て、ロイドはもう少しで、机に額を打ち付けるところだった。
半ば走り寄ってきた彼女を、愛らしいと思うなんてどうかしている。ちょこんと立ち止まった様子が、何故だかガツンときて「くっ、別に俺はロングヘヤーが趣味では……ッ」と、その髪に触れたくなった自分に死にたくなって心の中で呻いた。
目の前まで来たマリアは、大きな空色の目でこちらを真っ直ぐ見ていた。
全部を受け入れるみたいな大空色の瞳だと思った。少し困ったようにしていても、それでも他の女性たちのように気圧されたり、ロイド自身を畏れる様子はなくて。
気付くとロイドは、長い間見ていなかった気さえする彼女の姿を、じっと眺めてしまっていた。
なんで色気もないこんな幼女枠のメイドに……とか思う余裕さえもない。胸に込み上げたのは、遠いステラの町に行っていた彼女に、ようやく会えたという感情で。
自分が呼ばれたのは報告だろうか、とマリアはわざわざ確認してきた。自分がどのくらい眺めていたのかも分からないまま、ロイドは考えつつ「そうだ」と適当に答えていた。
長い話を聞くのは好きじゃなかった。
けれど気付くと、あっという間にマリアの報告は終わろうとしていた。食べ物の話をしかけた彼女が、「あ」と察して言葉を切るのを聞いて、ロイドは頬杖をついて咄嗟に促した。
「――その柔らかいパンのサンドイッチは、そんなに美味かったのか?」
すると彼女が、ちょっと意外だというようにこちらを見つめ返してきた。
「え? あ、そうですね。甘野菜と卵が、すごく合っていて」
これ、報告の中で話してもいいことなのだろうか、というような戸惑いを漂わせて、マリアがそう答えてくる。
もっと、その声で話を聞きたかった。
だからロイドは、頬杖をついたまま「ふうん」と言ってこう続けた。
「他には、どんなサンドイッチを食べたんだ?」
彼女はまた少し目を丸くして、まぁ話してやるか、みたいな顔で首を傾げつつ話し出した。報告をしている時よりも肩の力が抜けたのか、口調は柔らかめで語りもスムーズだ。
なんだか、昔いた誰かを思い出させるような話し方だった。
たまに聞く機会を得るたび、こうして自分は、いつも耳を傾けていた気がする。
彼女はサンドイッチが好きなんだろうか、とロイドはなんとなく考えてしまった。自分なら、その辺の店が作るよりも美味い、どんなサンドイッチも作ってやれるのにな、とか思ってしまう。
何せポルペオの弁当作り事件から、ロイドは負けず嫌いで料理をマスターした。
公爵家の執事長であり、当時は専属執事だった彼に「お坊ちゃん、どうされたんですか」と心配されたし、厨房の専属コック達も「え、坊ちゃんが料理を……?」とかなり困惑されたが。
軍人として、という言い台詞のもと、ポルペオは何故かあらゆる家事系に特化していた。負かすために頑張ったおかげで裁縫技術もあるし、簡単なものであれば人に頼む時間も省けて、仕事的には都合がいいか、と今になっては思ってもいる。
ロイドは、思い出したように町の様子についても話すマリアを見つめていた。それは友人たちからも聞いていた通り、予想以上に悪い治安と現状だった。
とはいえ、頭に過ぎったのは仕事の事ではない。
外見は子供だが、彼女も結婚が出来る十六歳。他の誰かが先に告白するのを想像すると、途端にもう無理になる。
彼女の報告が終わったタイミングで、ここで伝えるぞと意気込む。
よし、言う――俺はマリアが好きだ。
そう決意したロイドは、思いがこもりすぎて、そのまま気持ちと直結して眼力を増した。
※※※
なんか、めちゃ睨まれてるんだが……。
マリアは話し終えた途端、ギッと見据えられてやや後ろに身を引いた。ものすごい殺気というか、ドス黒い魔王オーラをロイドがまとっている気がする。
やはりサンドイッチの話は、すべきではなかったのだろうか?
それとも、もちもちの白いパンが使われたサンドイッチを、軍の経費で落ちるし、と、調子こいて食べまくったのがいけなかったのか――そう考えたところで、彼女はハッと気付いた。
もしや、朝にあったニールの菓子の件か!?
ロイドは昔から細かいところがあった。なんのために用意されていた菓子なのかは知らないが、きっと一つ減ったと気付いた時点で、犯人を特定してしまっていたのだろう。
そう推測したマリアは、やっぱり最悪なタイミングでの呼び出しだと悟った。入室した際の冷気は、報告後にその件について話そうという魂胆あっての事だったのかもしれない。
ここで切れられたら、たまったもんじゃない。
自分だって視察から帰ってきて、まだ完全に疲れが抜けていないのだ。
それにこのまま飛びかかられたら、この部屋が確実に壊れる。職人たちにも余計な仕事が増えて、それでいて宰相のベルアーノもまた倒れるのでは――と、先日、仕返しのように書類を押し付けられたのもマリアは思い出した。
それはまずい。色々とやばい。
「あ――あの焼き菓子を持ち出したのは、ニールさんの独断ですわ!」
マリアはひとまず『破壊』を回避する方向で、そう告げると、猛ダッシュで部屋を飛び出した。